第六話 カエルも子供をオンブします
二号が「行方不明」になってから現地時間で六日目の夜、アタシは再び夢の世界に降り立った。
昨日一昨日と、既に連夜で一号と三号になった。
そして今宵のアタシは、ケロタン五号。
正式名サウザード・ネルス・ケロタウロス。通称サウザ。黒いボディと紫の腹がなんとなくノーブルな感じがしなくもない、厭世主義の無口なカエルだ。
かつて王妃は言った。リズに家族を与えたいのだ。愛情で包んでくれる、温かい家族を。
けれど、無口はともかく厭世家なんて家族として必要か? というかそんな家族はいらなくないか?
なんてことを思いながら、世のプリンセス趣向の女子たちが恨みそうな程豪奢な天蓋付きのベッドに近づいた。言っておくけど、フレームは罷り間違ってもパイプじゃないし、垂れ下がったカーテンは、指で突き破れるんじゃないかと思うくらい薄い極上の紗と目が痛くなるくらい精緻なレースとで二重になってる。
アタシは黒いカエルの手で、そのカーテンを押し開けた。
「サウザ」
リズが悲しそうに五号の名前を呼ぶけれど、五号は黙って頷くだけだ。
こういう時、赤い一号なら、
「リズ、クリスなら大丈夫。アイツも男だ。どんな危険な目に遭ったとしても、必ずここへ戻ってくるさ」
と頼もしく言い、白い三号ならば、
「あ~んなの、ほっときゃいいのよ。男なんてさ、糸の切れたタコみたいなもんよ。そんなことよりさ、ちょっと聞いてよリズ」
てな感じで、気を紛らわせることができるだろう。
けれど五号は違う。
「本を読もう」
てなことを言いつつ手に取るのは『アヌハーン聖典』なんて、どうやっても慰めになりそうにない本だ。
いやまあ、それだってアタシが選んでんだけどさ。
『アヌハーン聖典』ってのは、その名の通りアヌハーンっていう宗教の聖書である。
アヌハーンってのは、なんでも古い言葉で、「隠された」とか「秘密の」とかいう意味らしい。「秘密の聖典」なんて言うと、なんかいかがわしい感じがするけれど、そういうことじゃなく、神様の本当の名前が隠されてるからってなことらしい。
もったいぶってるだけじゃね? ってアタシなんかは思うけど。こっちの人間は物凄くそのことをありがたがってるらしい。
アタシは寝ているリズの隣に座って、『アヌハーン聖典』「創世記」を読み始めた。
初めに虚無ありき。
隠され賜いし貴き神名を呼ぶはあたわず。
虚無は姿を持たず、声を持たず、また心も持たず。
全き独り身たるが故に独り身の独り身たるを知らず、
他者を知らずが故に己を知らず。
無垢たるが故に善悪を知らず、善悪を知らざるが故に慈悲を知らず。
これを以て虚無を虚無たりと申し奉るものなり。
要するに、な~んもないから虚無(仮名)ってことにしとくよって言ってるだけの話だ。
全くまどろっこしい文体である。
『アヌハーン聖典』は、この大陸では王侯貴族から庶民に至るまで読まれている大ベストセラーで、様々なバージョンが出版されている。
リズも小さい頃の頃から読んでいるけど、当然ながらそれは子供用のバージョンだ。
ところが、今アタシが読んでるのは聖職者用のバージョンである。最近リズの本棚に加わった。どうやら教育係の神官さんが置いていったらしい。王女であるリズには、王侯貴族教養用バージョンでもいいはずだけど、後見人が大神官じゃあそういうわけにもいかないんだろう。
チラリと隣を見ると、リズが眠たい目を擦りながらも一生懸命聞いている。
そりゃそうだろう。賢い(身びいきじゃないよ!)といったところで、リズはまだ十二歳。どう考えても、まだまだ早い。
けどさ。
コクリコクリと舟を漕ぎ始めたのを見計らって、
「眠るか?」
な~んて訊くと、
「ううん。大丈夫」
な~んてリズが可愛く返してくる。
せっかく読んでくれてるのに、寝るのは悪いと思ってるんだろう。
そういう姿を見てるとさ。
もっと幼い頃は構わず寝入ってたんだけど、リズもそういう気遣いができるようになったんだなあ、てね。
そんなことを内心でほくそ笑み、じゃなくて感激しながら、アタシはすまし顔で読んじゃってるわけである。
それでも、人間の創造に関与した「尾のない獣」ってのが出てきた辺りで、リズは本格的にウトウトしだした。
このままぐっすり寝てくれないかな~、とアタシは思う。
ここのところ、リズは眠りが浅いのか夜中に何度も目を覚ます。そして隣にカエルがちゃんといるかどうか確かめる。
所謂、別離不安ってヤツだろう。
そんなもんだから、二号が「行方不明」になってから、アタシは夜中に出歩いてない。
リズが寝ている間に、二号を他のカエルで取り返しに行くってことも考えなかったわけじゃない。けれど、逆にもう一体捕らわれるなんてことになったら目も当てられない。第一こんな状態のリズを置いてけない。ここは地道に、二号に「降りる」のを待つのが得策だ。
「リズ?」
すっかり瞼が閉じちゃったリズを呼んでみるけど、答えはない。
うん。「睡眠導入剤代わりの難読本」作戦は上手くいったらしい。
いやいやいやいや、成り行きじゃないッスよ? ちゃんと最初から考えていましたよ?
………ま、終わりよければ全て良しって、言うじゃない!
て、勝手に一件落着したつもりだったんだけど。
「どうして神様達は、寝ちゃったのかな。みんな、寂しがってるのに」
不意に、意外な程ハッキリとした口調でリズが言った。
なぬ? と思って見てみると、さっきまで閉じられていたリズの綺麗な紫の目が、今はパッチリと開いている。
その世にも綺麗な瞳にピッタリと視線を合わせながら、厭世主義のカエルは言った。
「恐らく、神は世界のことに余り感心がないのだ」
うわ~、何ネガティブな答え言ってんだよ!
って思うけど、それが五号ってヤツである。
「好きじゃないの?」
「嫌いというわけではないだろう」
アタシは、話の流れがどこへ行くのかヒヤヒヤしながら言葉を紡ぐ。
「父様は、リズのこと嫌いじゃなかったのかな?」
リズの手が、心細そうにそっと五号の手を握る。
おおっと。そうきたか!
月に一回程度しか会いに来なかった父親と、たまにしか被造物たちに会ってやらない神様を重ねちゃってるわけだ。完全にネガティブ思考になってるらしい。
アタシはちょっと考えてから言った。
「確かに、子を思わない親はいる」
アタシの言葉に、リズの体がビクリとなる。
アタシはそんなリズの頭を、なだめるように優しく撫でた。
「しかし、リズの父はそうではないだろう」
「どうして分かるの?」
「………我は幼き頃父の背に負われたことを覚えている」
父親の背中って、カエルが何言ってやがんだ? って思うだろう。
けれどカエルの中には、卵が孵化するまで見守るものや、孵化した後もカエルに変態するまで養育するものもいる。あの有名なヤドクガエルの中には、孵化したオタマジャクシを父親が新しい水場まで背負って運ぶものもいるのだ。
「………うん。リズも覚えてる。とうさまにおんぶされたこと。だっこじゃなくっておんぶがいいって、父様にわがまま言ったの」
リズと父親との数少ない親子らしいエピソードだ。
勿論アタシは、それを聞いて知っている。
「父の背中は温かった」
「…うん。父様の背中、凄く、温かかった」
リズは小さく頷くと、安心したのか、或いは何か納得したのか小さな寝息を立て始めた。
顔を寄せて、起きる気配がないかどうか伺ってみる。
「リズ?」
睫がちょびっとピクピクしたけど、起きる様子はない。
うん、ちゃんと寝てる。
よっしゃ!
どうやらアタシは、五号で慰めるという難しいミッションを何とか成功させたらしい。
安堵と一緒に、今更ながらの後悔が押し寄せてくる。
リズの生活は別れが満ちている。両親との死別だけじゃない。仲良くなった女官や侍女も、結婚や定年、或いは病気など、様々な事情で去っていく。
そして、いつもリズだけが残される。
それでもケロタン達だけは、変わらずリズの側にいたのに。
いなけりゃいけなかったのに。
今回のことは、完全にアタシの失態だ。
何やってんだ、アタシ。
二号を、あんな連中に託すなんて、楽天的過ぎだ。
心の底から反省する。
うん、反省した。
だから勿論、あの連中にも反省させる。
アタシはやるよ! やってみせるよ、恵美ちゃん!
アタシは決意も新たに、親友へと報復を誓う。
いやまあ、恵美に誓う意味は全然全くないんだけれどもさ。
アタシは本を置いて、リズに寄り添った。
掴まれたままの腕があり得ない方向に曲がるけど。なあに、今のアタシは布製品。痛くもかゆくもない。ちょっとくすぐったいだけだ。
そういやあ、リズがまだもっと小さいときには、いつもこうして隣に寄り添ってたなあ、なんてことを思い出す。リズは三歳、アタシはまだ十二歳で、アタシは何でこんなことやってんだろう、なんてことを思いながら眠れない夜を明かしてた。リズは当時から相当可愛らしかったけど、心の底から愛おしいと思うのには、少し時間が経った後だ。
初めの頃はリズが成人するまでなんて長過ぎると思ったけど、気が付けばもう三分の二が過ぎようとしているなんて。
これが所謂、花を踏んで同じく惜しむ少年の春ってヤツか。
なんか違うような気もするけど。
そんなことをダラダラと考えてると、不意に眠たくなってきた。
あれ、おかしいな。
アタシがこっちで眠ることってなかったんだけど。
そもそもコレは夢の中なんだから、夢の中で寝ちゃうって有りなんだろうか?
いやでも、自分が眠ってる夢を見るって話聞いたことあるし。
なんとなく、視界まで暗くなってきた。
おかしいと思うんだけど、強烈な眠気が襲ってきて、なんだか上手く頭が働かない。
………仕方がない、寝るか。
アタシは瞬く間に眠りに落ちた。
この後アタシに降りかかった出来事が、アタシの運命を一変させることになる…。
スイマセン、「運命」は言い過ぎでした。