9
ナタリアのすぐ先に、セシリオがいる。
実に九年ぶりの再会だ。ずっと待ち望んだ瞬間のはずだった。
そのはずだったのに……。
応接室には一人掛けの椅子が二つと三人程が座れる長いソファが一つある。椅子の数は変更できるが、今はその数だ。その一人掛けの椅子のひとつに父が腰掛け、長いソファにパウラとセシリオが一人分の間隔を空けて並んで座っていた。
残る一つの席の前にはお茶が出されているので、そこがミゲラの席なのだろう。長いソファならば詰めてもらえば座れるが、そのようなことをするつもりはないだろう。初めからナタリアの席はない。
合わないドレスを身にまとったナタリアは、立ち止まって呆然としていた。
「何をしているの。早くこちらに来てご挨拶なさい」
ミゲラの声でハッとする。大事な客の前だからか声色はいつもよりも穏やかで、ナタリアからしたら余計に怖い。
ミゲラはナタリアをキッと睨むとセシリオの方を向き、今度は眉を下げて笑ってみせた。
「申し訳ございません、セシリオ様。礼儀もなっていなくて挨拶すらまともにできず、社交にも出せない娘なのですよ。こんな恰好で来るなんて……まったく困ったものです。わたくしたちが何を言っても聞きませんのよ」
セシリオと目が合う。一瞬だけ歯を喰いしばるような表情をしたあと、にこやかにミゲラに顔を向けた。
「いえ、かまいません。僕が挨拶したいと言ったのですから」
セシリオの横からパウラが楽しそうに笑った。
「お姉様、こちらはビセンテ公爵家のセシリオ様よ。せっかくいらしていただいたのだから、ご挨拶くらいするべきではありませんの?」
ご丁寧にナタリアにセシリオを紹介してくれた。パウラたちが伯爵家に来たときにはセシリオはすでに隣国へ行っていたので、もしかしたら面識があることを知らないのかもしれない。
「セシリオ様、嫌な気分にさせてしまって申し訳ありません。セシリオ様を見下すような目をしていますけれど、気になさらないで」
「見下す? そのようには見えないけれど」
「わたくしにはわかるのです。後から来たわたくしたちはずっと見下されてきたのですもの。わたくしのことを妹と思ってはくださらないし、お母様のことを母と呼ぶことすら拒否しているのですよ。お母様、お可哀想」
パウラもミゲラと同じように眉を下げ、小さく溜息をつく。
ナタリアは何も答えられない。違うと言い訳をすれば、後で困るのは自分だ。見えないように、ぎゅっとスカートを握った。
「もういいでしょう。挨拶を、と言って下さっただけでも、ナタリアにはもったいないことですよ」
父が侍女に目線を送り、ナタリアを出て行かせようとする。
ナタリアもできればそうしたかった。この状況を見ていたくなかった。だけどセシリオはそれをよしとしなかったらしい。
「いえ、僕はこの伯爵家に婿入りさせていただきたいとお願いしている立場です。それなのにナタリア嬢にご挨拶もしないのでは、礼を欠くことでしょう」
セシリオは父に向けて言ったあと、パウラに目線を送った。それが親密なように見えて、ナタリアは心を砕かれた気がした。もう見たくないのに、どうしても目がいってしまう。足元が崩れて穴に吸い込まれるような感覚がナタリアを襲ってくる。立っていられなくなってその場にへたり込んだ。
「まあ、なんてこと」
ミゲラが呆れたような声を出したのと、セシリオが動いたのは同時だった。
セシリオはそのままナタリアのところへやってきて、自らもしゃがんで目線を合わせた。
「大丈夫ですか?」
彼は心配そうに手を差し出す。
薄い金色の瞳は以前のままだ。待ち望んでいたはずの彼が目の前にいるのに、遠い人に感じる。
「申し訳ございません」
ナタリアは立ち上がらなくてはとセシリオの手に自分の手を乗せ、その瞬間にハッとして思わず手をひっこめた。あかぎれだらけの汚れた手。触れられないと思った。その手を見られたくないとも思った。セシリオとの立場の違いを実感させられるようで怖かった。
セシリオはしゃがんだままの体勢でもう一歩ナタリアに近付いてきた。
「ナタ……」
「まったく、何をしている。早く立ちなさい。失礼だろう」
セシリオが周りに聞こえない小声で何かを言いかけた時、上から父の声が降ってきた。セシリオは小さく息を吐いて父を見上げる。
「体調が良くないのではありませんか? 顔色が悪いようです」
「ええ、そのようですわ。下がらせてもよろしいでしょうか?」
父の代わりにミゲラが答える。一刻も早く外に出したいという気持ちがこもっているようだ。
「そうしてください。体調が悪いときに呼び立ててしまって申し訳ない。ゆっくり休ませてあげてください」
「とんでもない。気を遣わせてしまって、こちらこそ申し訳ございません。ほら、あなたもお礼を申し上げなさい」
ミゲラは乱暴にナタリアを立たせると、セシリオに見えないように背中をパシンと叩いた。ナタリアはお礼の代わりに一礼する。そしてミゲラに引っ張られるように応接室から追い出された。
扉の外まで来ると、ミゲラに突き飛ばされた。体勢が崩れて床に倒れる。
「セシリオ様から挨拶をと言ってくださったのに、なんて失礼なの! でも……」
ミゲラは怒りながらもニヤリと笑う。
「これでわかったでしょう? おまえは自分がいずれこの家を継ぐと思っているようだけれど、そんなことあるわけがないの。セシリオ様が来てくださったら、いずれその立場になるのはパウラなのよ」
「それは」
「できないとでも思っているの? ふふ、おかしなこと。それならば教えてあげるわ。セシリオ様のご実家の力もあるし、社交界でもパウラを推す声は上がっているのよ。母と妹に嫌がらせを繰り返す長女よりもパウラのほうがふさわしいって」
社交界や茶会でナタリアがどのような扱いになっているかはあまり知らない。出してもらえることなどほとんどないからだ。
それでもナタリアに悪い噂があることくらいは知っている。パウラたちがそのように言っているのだろうことも想像がついている。
「まさかその姿で結婚してくれる方がいるとでも思っているの? 馬鹿らしいこと。パウラとおまえ、殿方がどちらを選ぶかなんて明白ではないの」
ぐっとこらえるような表情をしたナタリアを見て気分が上がったのか、ミゲラは口角を上げる。
「母娘そろってわたくしたちの幸せを奪っていた分、一生かけて償ってちょうだい。侍女長、これをいつもの場所に閉じ込めておいて。食事も与えなくていいわ」
「かしこまりました」
ナタリアは侍女長に引きずられるように連れられ、書庫に閉じ込められた。
一人になって、今の自分の姿を見下ろす。
合わないサイズの趣味の悪いドレス。やせ細った体に、ガサガサの手。
大きな鏡がないのが幸いだ。きっと髪型も大変な状態だろうし、なによりひどい顔をしているだろう。それを見なくてすむ。
ミゲラの言う事を真に受けていたらもたない。それがわかっているはずなのに、言われたことが頭の中でこだまする。
先程見たセシリオの凛とした姿が目に浮かんだ。どこから見たって、誰が見たって、ナタリアには釣り合わない。可愛らしい姿をしているパウラとのほうがよほどお似合いなのだろう。
セシリオは彼の母に連れられて隣国へ行く前、二年か三年で戻ってくると言っていた。だから待っていてと、そう言っていた。だけどいつまで待っても戻ってこなかった。
戻ってこれなかった理由は知っている。だけど、戻れるようになったら一番に自分のところへ来てくれるんじゃないかと、そんな甘い希望を抱いていた。
実際はナタリアに会いにくることなく、パウラと仲良くなっていたのに。
『大人になったら結婚しよう。約束だよ』
そう言ったナタリアの頭の中にある幼いセシリオの顔にヒビが入る。
「馬鹿みたい」
薄々は気がついていたのに、気づかないふりをしていた。まだどこかで七歳の時の約束にすがっていた。まだ幼い子供の口約束にすぎないとわかっていたはずなのに。
声が低くなっていた。背もぐんと伸び、面影は残しつつもずっと凛々しく男らしくなった。
あの頃と同じではないのだ。姿も、それから心も。
ナタリアは書庫の奥、当主しか入れない場所に足を踏み入れる。母との約束を守り、ここのことは誰にも教えていない。
棚の一番端にしまわれている母の手記を手に取った。そっと開くと、母の書いた文字が並んでいる。
「お母様、どうしたらいいの」
当主になるのはナタリアだと母は言った。ナタリアもいつか訪れるはずのその日を支えにしてきた。だけど、本当に爵位を継いだら変わるのだろうか?
当主になって、セシリオが戻ってきたら、何でもできる気がしていた。
自分の甘さに乾いた笑いが出る。
何も変わらないのかもしれない。変えられないのかもしれない。
そうしたらナタリアは、使用人たちは、領民は、どうなってしまうのだろう。
どうしたらいい。
心の支えを失ったナタリアは一人、崩れるように泣いた。