8
母が亡くなり、父がミゲラとパウラを連れてきてから、八年が経とうとしていた。
十六歳になったナタリアは、今日も伯爵邸で朝から働いている。
ナタリアの朝は早い。そうしないと間に合わないからだ。いつものように簡単に身支度を整え、まずは使用人が使う食堂の掃除をする。それが終わると朝食の準備の手伝いだ。
厨房でじゃがいもの皮を剥く。厨房の朝は早いけれど、今日は珍しくナタリアともう一人の料理人しかいない。一つ目を手早く剥き終えると、目線はそのままに二個目の芋を取ろうと手を伸ばした。
「……ん?」
思い描いた場所に芋がなく、その手は触れることなく宙を切る。手を動かしてみても芋に当たらず目線を上げると、芋の入ったカゴはなぜか料理人が抱えていた。
「お嬢様、あとはやっておくからいい」
もう孫がいてもおかしくない年齢なのに料理人見習いの服を着ている彼は、ナタリアの祖父母や母が生きていた頃は、料理長に次ぐ立場の料理人だった。それがもう何年も見習いのように、厨房の雑用ばかりさせられている。
「でも……」
ナタリアがやらなければ、彼の負担が増える。それ以前に、ナタリアを庇ったと知られたらどうなるか。
彼はナタリアを陰から支えてくれている一人だ。別の誰かがいるときにはナタリアを貶すような発言をするが、心の中までそうではないとナタリアは知っている。
彼はチラッとナタリアの手元を見て、溜息を吐いた。
「『あいつが手を切っていたから、断ったんだよ。芋が血まみれになったらこっちが困るだろ。全く使えないヤツだ』って、もし見つかったら溜息混じりに言ってやるから大丈夫だよ。まだ仕事あるんだろ? 誰もこないうちに早く行きな」
彼は芋の入ったカゴを運びながらやるせなさそうに小さく笑う。それから「あ、ちょっと待った」と言って芋を置き、引き出しから何かを取り出してナタリアに握らせた。軟膏のようなものだった。ハンドクリームや薬は高級なので、庶民の多くは自作する。たぶん彼が作ったものだろう。
「あとで塗りな。少しはいいだろ」
「ありがとうございます、助かります」
手を切っているわけではない。だけどいつだって手は荒れていて、今もあかぎれができている。ナタリアは彼にお礼を言うとポケットにしまい、水場に向かった。
手早く洗濯をして、空模様が怪しかったので屋根のある場所に干した。それからまた掃除。それを終えて急いで自分の朝食を取ると、今度は父たちの食事の片付けをする。
かつて祖父母と母、それからナタリアで食事をしていた、温かみのある食事のための部屋。今は父とミゲラ、パウラが食事をする部屋で、ナタリアがここで食べることはない。
ふぅ、と小さな息を吐いてその部屋の掃除まで終えると、掃除用具を片付けに水場へ戻る。
通常であれば、使用人にも休憩の時間がある。仕事が一段落したらお茶を飲んだり、上位の使用人になればお菓子もある。だけどナタリアにはそのような時間はなかった。
ナタリアが向かったのは、貴族区域にある書庫の隣の部屋だ。数年前からここでナタリアは書類仕事をしている。
父は領地のことを学んでいない。育ちもこの伯爵家ではないし、母がいたときには伯爵家にほとんどいなかったのだから、引き継ぎもなにもなかったのだろう。最初は父とて子供のナタリアに期待していなかったはずだが、母からいろいろと教わっていたナタリアにはある程度できてしまった。それで父は味をしめたらしい。
「おまえがやらなければ領民が困るだけだ」
祖父母も母も、領民が第一だと言っていた。領民を守ってこそ伯爵家の一員だと、ナタリアはそう聞いて育った。
ナタリアがやらなければ領民が困るというのは本当だった。父は基本的にできないのだ。そして勉強しようとも、やろうともしない。
領民を盾にされてしまえば、ナタリアはまた従う他ないのだ。
やればやるだけナタリアの負担は増えた。
最初はわからないことだらけだった。それでも全部とはいかなくてもなんとかこなせたのは、母から教わった当主にだけ伝わるという秘密の部屋の存在があったから。
父やミゲラは反省しろと言ってナタリアをよく書庫に閉じ込めた。書庫が選ばれたのは、埃っぽくて圧迫感があり薄暗いから。新しく読みやすい物語などの本は別の部屋にあり、古くて難解なものばかりが保管されている部屋であることも理由の一つだ。ナタリアには読めないと思われたのだろう。
そして最大の理由は、外から鍵をかけられることだ。
書庫の奥には母に教わった秘密の部屋がある。だから閉じ込められる場所が書庫であったのは、ナタリアにとって幸運だった。場所を変えられては困るので、ナタリアは書庫が怖いふりをした。書庫だけはやめて下さいと言えば、嬉しそうに書庫に閉じ込めてくれる。なんともありがたいことだ。
いつでも薄暗いと思われている書庫だけど、実は棚を一つ動かせば窓があり、昼は灯りがなくてもそれなりに明るくできる。書物を光に当てないようにするために、使っていないときは閉じられているのだ。おそらく父たちはそれを知らない。
ナタリアは閉じ込められるたびに奥の部屋に入って勉強した。
書庫の古い本も読んだ。母が亡くなって以来教師をつけてもらえることなどなかったので、ここで本を読むのが唯一の勉強手段だった。
その知識をもとに、ナタリアは執務をこなした。
ナタリアができることがわかると、その量はどんどん増えた。
そうして書類仕事をこなすのはナタリア、父はそれを自分がやったものとして出す、というのが通常になった。
一枚の書類を仕上げて、ナタリアは窓から外を見た。雨が本降りになってきた。
少し開けていた窓を閉める。さすがに降り込んでくる雨を無視できなくなったからだ。
『ナタリア、雨が降りそうね。窓を閉めてくれる?』
母と最後に会話したとき、そう言われて窓を閉めた。こんな天気だった。だからこういう日は苦手だ。どうしても気分が沈む。
『伯爵家を継ぐのはあなたよ』
母はそう言い残した。ナタリアは伯爵家の長女なので、爵位の継承権がある。むしろナタリアにしかない、といってもいい。当主であった母の子はナタリアだけだからだ。だけど成人にならなければ継ぐことができない。
この国の成人年齢は十七歳。ナタリアは十六歳になった。あと一年ほどで伯爵位を継ぐ年齢になる。
爵位を継げば、伯爵家の権限はナタリアに移る。
自分が当主になってやっていけるのか、という不安はある。だけど、少なくとも使用人を父たちから守ることができる。父やミゲラの思い付きのような政策を止めることもできる。
その日がくるのを胸に、なんとかわずかな希望を捨てずに生きてきた。
「お母様、あと少し。見守っていてください……」
ナタリアは両手を合わせて空に祈った。