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 思い返してみれば、幸せな幼少期だった。


 厳しいけれど、同時にとても愛情深くて優しい母がいつも近くにいた。

 母とはたくさんお話をした。勉強も見てくれた。一緒に果実を採ってジャムを煮てみたり、伯爵領内の視察に連れていってくれたこともあった。実際に見ながら、ナタリアは子供ながらにいろんなことを学んだ。


 当時ルシエンテス伯爵家当主であった祖父とその夫人の祖母からは、とても可愛がってもらった。祖父母と母は少々折り合いが悪いこともあったようだけれど、ナタリアにとっては優しい人たちだった。


 使用人たちも穏やかな人が多く、みんな祖父や祖母、母を慕っていた。もちろん、ナタリアもみんなのことが大好きだった。


 伯爵家のご令嬢らしく、幼い頃からたくさんの教師もつけられていた。

 勉強は大変だったけれど、嫌ではなかった。新しいことを学ぶのは好きだったし、覚えたりできるようになればなるだけ、皆が褒めてくれた。


 父はあまり家にはいない人だったけれど、最初からそうだったのでナタリアにとってはそういうものなのだろうという認識だった。それ以上にナタリアの周りにはナタリアを愛してくれる人がたくさんいたから、寂しいと思うことはなかった。


 祖父、祖母、母、それから教師や使用人たちに囲まれて、ナタリアはすくすくと育った。 皆に愛され、時折訪れてくれるセシリオと楽しく過ごし、毎日が煌めいていたあの頃。伯爵家は笑顔であふれ、温かい場所だった。



 それが崩れ始めたのは、セシリオが隣国へ行ってしまった頃からだった。


 セシリオと別れて数か月。

 ナタリアを可愛がってくれた祖父と祖母が流行り病にかかり、連続で亡くなってしまった。突然のことだった。


 大好きだった祖父と祖母。だけど悲しんでばかりはいられなかった。

 伯爵家の当主と女主人が亡くなったことにより、その両方の仕事が一気に母の肩にのしかかったのだ。


 母はしっかりと教育も受けているし、伯爵家についての通常業務をすることはできる。だけどあまりに急すぎた。流行り病にかかる前の祖父母はとても元気で、当然まだ引退するつもりはなかったのだろう。母と一緒に執務はしていたけれど、しっかりと引き継ぎをしていたわけではなかった。伯爵家は非常に混乱した。


 ナタリアはまだ七歳だったが、母から伯爵領のことについて少しずつ教わっていた。仕事と言えるほどのことはできないが、ナタリアも母を手伝うようになった。

 もちろん使用人たちを始め、母を支える人も多かった。それでもやはり大変は大変だった。


 そのような状況になってから、今まであまり家にいなかった父がよく姿を現すようになった。きっと大変な母を助けるためなんだとナタリアは思った。だけど実際はそうではなかったらしい。

 父と母はしょっちゅう口論になった。最初はナタリアになるべく見せないようにしていたようだったけれど、だんだんとその余裕もなくなり、目の前でも争うようになった。


 ナタリアからすると、父は母の仕事をやろうとし、母はそれに抵抗しているように見えた。父は手伝おうとしていたというよりは、奪おうとしているような感じだった。そして大抵の場合は父が怒って出ていき、また少ししたら戻ってくるのだ。


 日々の忙しさにプラスしてそのような状況が続き、母は日に日に元気をなくしていった。


「ナタリア、ごめんね。お母さまがしっかりしないといけないのにね」


 ナタリアは首を横に振った。母が充分に頑張っているのはわかっていた。


 その頃からだろうか、母が少しずつ体調を崩すようになった。

 医者を呼んでもよくならず、薬を飲めば良くなるどころか悪化した。


「疲れがたまっているのでしょう。ゆっくり休むことです」


 医師はそう言い、なるべく動かないように、仕事も最小限にするようにと告げた。


 そのような状況になってから、父は伯爵邸に居座るようになった。元々伯爵家の一員なのだから、居座るという表現はおかしいかもしれない。でもいままではあまりおらず、どちらかというとお客様のような立場だったのだ。それが当然のように、まるで当主であるかのような振る舞いをするようになった。


「おまえのお母様が動けないのだから、私がやるのは当然だろう? おまえも私に従いなさい」


 父はナタリアに向かってニタリと笑った。

 怖いと思った。


 疲れているだけ、と言われたはずなのに、それから間もなくして母は起き上るのが難しくなった。

 庭の花を摘んで母の寝室に届けるのがナタリアの日課になった。母の体調が良さそうな日は、寝室で一緒に食事をとった。


「ナタリア、雨が降りそうね。窓を閉めてくれる?」


 普段は母の侍女であるエマやほかの使用人がいるけれど、その時は母と二人きり。言われたとおりに窓を閉めると、母はナタリアを枕元に呼んだ。


「ナタリア、お母さまはもう長くないかもしれない」

「……どうしてそんなことを言うの? そんなの嫌。お母様は絶対に良くなるわ」


 ほとんど泣きかけているナタリアを、母はまっすぐに見つめた。


「よく聞きなさい。伯爵家を継ぐのはあなたよ。書庫の奥に隠し部屋があるの。そしてさらにその奥に、もうひとつ隠し部屋があるわ。代々引き継いできた重要な書類や書物がそこにある。代々の当主やそれに近い人の手記も残ってるの」


 ひとつめの隠し部屋の鍵は執事長と侍女長が知っていること、彼らは隠し部屋の場所は知らないこと、ふたつめの隠し部屋の場所と鍵のありか、それからそこに、伯爵家が持つ歴史的に価値のあるものたちのありかなども記されていると、母はナタリアに教えた。


「このことは当主だけに伝わっている話なの。誰にも教えては駄目よ。書き記しても駄目。あなたの頭の中にだけ留めておきなさい。いいわね?」


 涙をこらえて何度も頷く。

 母はふっと緊張の糸が切れたように、柔らかく微笑んだ。そしてナタリアの手を握った。


「ごめんね、ナタリア。弱い母で、ごめんね……ずっと、愛してるわ」


 それが母の最後の言葉だった。


 謝ってほしかったんじゃない。ただ、一緒にいてほしかった。

 だけど母は逝ってしまった。


 その時ナタリアは、まだ八歳だった。

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