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本日二話目です
ルシエンテス伯爵家の広い庭。ナタリアとセシリオは低木の陰に隠れるようにしゃがんでいた。六歳と七歳だった二人が脱走して隠れていたのと同じ場所だ。
散歩をしていたらここにたどり着いた。一応二人きりだ。あの頃は本気で二人だけで隠れていると思っていたけれど、その時と同じように護衛や使用人は声が聞こえない程度遠くに今もいる。
「久しぶりに、アリ、釣る?」
アリの巣を見つけたナタリアが指差しながら聞くと、セシリオは苦笑して首を横に振った。
「釣らない。甘い液がついてないと釣れないから。それより、アリってクッキーが好きだって知ってる?」
ナタリアはふふっと笑う。食べるかなとクッキーを一緒にあげたのだから、知らないはずがない。
どこから出したのか、セシリオがクッキーを割って巣の近くに置いた。大きな欠片もあれば、粉々のものもある。しばらく眺めていると、クッキーに気がついたアリが小さいものからせっせと巣の中に運び始めた。仲間もやってきて大きな欠片を崩しにかかる。
「ナタリア、これ」
セシリオがクッキーの次に取り出したのは、彼が隣国へ行く前に贈ってくれたネックレス。ずっとパウラに取られていたものだ。
「捨てようと思ったんだけどさ、一応ナタリアのものだから勝手に捨てたらダメかなって。だから気持ちの整理がついたらナタリアが捨ててほしい」
「捨てるだなんて……」
「捨てられなかったら持っててもいい。だけど僕は、それをつけてほしくない。パウラがつけていたのを思い出して嫌な気分になるから。これから新しいのをいくらでも贈るよ」
当初パウラはこれがセシリオからの贈り物だとは知らなかったはずだけれど、ナタリアが執着しているのを見て、まるで見せびらかすかのように頻繁に身につけていた。ナタリアが悲しむのを楽しんでいるかのようにも見えた。そうしているうちに気に入ったのか、ナタリアが何の反応もしなくなっても日常的に使っていた。
ナタリアはセシリオにお礼を言ってネックレスを受け取る。ようやく戻ってきたネックレスを手のひらにのせてしばらく眺め、ぎゅっと握りしめた。今はまだ、これを捨てる気にはなれない。
「セシー、ごめんなさい。わたし、せっかくもらったのに守れなかった」
「それは仕方がないでしょう。僕こそ、ナタリアが一番大変だったときに助けられなくてごめん」
ナタリアは首を横に振る。セシリオも大変だったことをナタリアは知っている。そんな中でもナタリアのことを考えてくれていたというだけでも、ナタリアは救われる。
「セシーだって大変だったでしょう。それに、ちゃんと助けてくれた」
「いや、僕じゃなくてだいたいはフランが……」
セシリオはちょっとやるせなさそうにポリポリと頬を掻く。ナタリアはまたふふっと笑った。
「そんなことない。たしかにお母様は強かったけど、セシーも助けてくれたよ。それに大変だったとき、いつかセシーが来てくれるって、そう思ってた。だからずっと支えてもらってた。……ありがとう」
ナタリアが覗き込むと、セシリオの金の瞳と目が合った。その目が驚いていて、それでいて嬉しそうだったから、なんだか急に照れくさくなった。ナタリアは目線を落としてアリを見る。
「ナタリア、結婚したらこれをしようあれをしようって言い合った話は覚えてる?」
「うーん、全部は覚えてない、かな……」
「だよね。僕も全部は覚えてないし、なんだか今思い出すと馬鹿だなぁって思うような話ばっかりだった気がするんだけど、あの時のわくわくした気持ちは今でも覚えてる」
まだ小さかったあの頃、二人で未来に思いを馳せながらいろんな話をした。子どもの妄想だから、全てを覚えているわけではない。くだらないことばかり、いっぱい言い合った気がする。例えば伯爵邸の書庫にある膨大な量の本を全部一緒に読むとか、料理長にでっかいケーキを作ってもらって二人だけで全部食べるとか。
セシリオは少し先にある一本の木のあたりに目線を移した。
「そういえば、あのあたりは鳥小屋になっているはずだったな」
「あー、思い出した。あっちには牛がいるはずだったよね。あと向こうはイチゴ畑。それから果物の木をいっぱい植えるの」
卵とミルク、それから好きなものをとるために、庭を大改造する計画を立てていた。今となってはおかしな話だけど、当時は割と本気で二人で悩んだのだ。
「牛と鳥、飼う?」
「それはここで飼わなくてもいいだろう。ミルクと卵なら届けてもらうほうがいい」
「そうだよね。わたしもそう思う」
お互いになんとなく、将来について話しているのはわかっている。子供だったあの時と違って、それがどういうことか、理解しながら。だからちょっと距離感がぎこちない。
今、セシリオとナタリアは婚約している。ディエゴという後見人を失うにあたって、まだ未成年だったナタリアが一人で伯爵家を背負うことはできなかった。そして親族でもないセシリオが正当な理由なく伯爵家に居続けることもできなかった。
だから婚約という形をとることで、成人しているセシリオが後見人の役割を果たしつつ、伯爵家にもいられるようにした。そう提案して実際に王宮で認めさせてくれたのはフランシスカだ。
ナタリアはそこまでセシリオに負担をかけるわけにはいかないとは思った。だけど実際にナタリアには伯爵としての経験が不足していて、セシリオなしには立ち行かなかった。
いざとなれば婚約は解消できるから、とフランシスカに諭され、セシリオの厚意に甘えることになったのだ。
「ナタリア、フランは人は変わるものだって言ったけど、変わらないものもあると思わない?」
「うん」
「結婚しようって約束したの、覚えてるよね」
「……うん」
「僕、けっこう役に立つと思うよ。隣国にいた時だってちゃんと勉強したし、仕事もそれなりにできるつもり」
けっこう役に立つ、どころではないことをナタリアはよくわかっている。仕事もそれなりに、どころではない。ディエゴたちがいなくなってから、セシリオが有能なことをナタリアは非常に実感した。ガタガタになった伯爵家を立て直してくれたのはフランシスカとセシリオだ。フランシスカはもちろん有能だった。だけどセシリオもその手腕を遺憾なく発揮してくれたのだ。
伯爵家は今、ずいぶんと落ち着きを取り戻した。
威張り散らしていた使用人の多くが伯爵家を去ったが、ナタリアを陰から支えてくれていた使用人たちが生き生きと動いてくれているおかげで、滞りなく仕事は進んでいる。
伯爵家を回す役目だったはずのディエゴたちがいなくなって、仕事も人間関係もスムーズに回るようになったのは皮肉なことだ。
今、伯爵家にとってセシリオは、なくてはならない人になっている。セシリオのいない伯爵家は考えられない、というところまでセシリオは伯爵家に食い込んでいる。そして伯爵家にとって、ということを考えると、図々しいことはわかっているけれど、今後もそうしてくれたら助かるとナタリアは思ってしまう。
だけどそれとこれとは別だ。ずっと甘え続けていいはずがない。
「セシー、わたし、何もできないの。本当は当主になるための勉強をたくさんしなければいけなかった。社交もして周りの貴族と人脈も築かなければいけなかったし、マナーも身に付けなきゃいけなかった。領民に慕われる領主になれるように努力しなきゃいけなかった」
本当だったら教師が付き、たくさん勉強したはずだった。学校に通ったかもしれないし、母に連れられて社交界にも出たはずだった。だけどその期間ナタリアはずっと伯爵家に引きこもって使用人として働いていた。毎日を過ごすことで精いっぱいで、それ以上のことは何もできなかった。
今のナタリアは貴族としては不足しすぎている。
セシリオの隣に立つためには、足りないものが多すぎる。
その自覚がナタリアにはあった。
だけど、それでも……。
「セシー、わたしはいろいろ足りないってわかってる。だけどこれからできる限り勉強するし、セシーに相応しくなれるように頑張るから、だから、少しわたしを待っていてくれない?」
セシリオに追いつくまで、いや、追いつくのは難しいかもしれない。だけど近づけるまで待ってほしい。貴族らしい振る舞いができるようになるまで、それからセシリオに甘えるばかりではなく、ナタリア自身が伯爵として立てるようになるまで。
セシリオと結婚したいと思う人はきっとたくさんいるのだろう。だけどそれでも、ナタリアを待っていてほしい。
ナタリアは願うようにセシリオを見上げた。
だけどセシリオはきょとんとした顔でそれを否定してきた。
「え、待たないけど?」
ナタリアは一瞬鼓動が止まった気がした。
「たしかにナタリアは大変な生活をしていたから、貴族としてということを考えるならば不足している部分もあると思う。それは仕方がない。今後必要になることだと思うから、そんなの勉強しなくていいとは言ってあげられない」
「うん」
「だけど普通の貴族だったら経験しないことをたくさん経験してきたのだから、何もできない、というのは違うと思う。ナタリアが今難しいことは、できる限り僕が支えるから。そのために僕はたくさん勉強してきたんだ。思う存分僕を使ってくれたらいい」
今度はナタリアがきょとんとした顔になった。待たない、と言われてしまったけれど、断られたわけではないような気がする。
どういうことかわからずにセシリオを見ると、彼はとても真面目な顔でナタリアをまっすぐに見た。
「だから待たない。すぐ結婚しよう」
「え?」
「だって待ってたらどこの誰かも知らないような奴がわんさか出てきてナタリアを狙うだろ。ナタリアを知りもせずに伯爵家目当てでやってくるような奴にナタリアを渡す気なんてないんだ」
「……え?」
「あぁ、もちろん僕は伯爵家がほしいわけじゃなくて、ナタリアが伯爵にならないというならそれでもいい。でも今のナタリアにとって、伯爵家を継がないという選択肢はないでしょう?」
ナタリアはコクリと頷く。
セシリオが隣国へ渡った時には、ナタリアに弟が生まれる可能性もあった、とセシリオは言う。そうなれば伯爵家を継ぐのは弟になる。もしそうなった場合でも大丈夫なように、人脈を築いてきたそうだ。ナタリアが伯爵にならなかったとしても、一緒に生きていけるように。
「結婚してからでも勉強はできるよ」
「そうだけど……」
ナタリアが俯くと、セシリオは一度地面を見て、クッキーの破片をいくつか落とした。少しずつまたアリが群がってくる。
「僕はナタリアと結婚するものだと思ってずっと生きてきた。ナタリアに相応しい男になれたかはわからないけど、そうなれるように努力してきたつもりだ。今さら違う生き方なんてできないし、するつもりもない」
「……わたしでいいの?」
ナタリアは祈るような気持ちで問いかける。
「選ぶのはナタリアだよ。この婚約は僕の父上と母上、それから国王陛下が賛成してくれている。解消できるのは、伯爵となったナタリアだけだ。だから、ナタリアには僕を選んでほしいと思ってる」
セシリオは真面目に言った。
それからナタリアをまっすぐに見つめて付け加えた。
「僕はこれからずっと、ナタリアと一緒に生きていきたい」
ナタリアの目から涙があふれる。
途端にセシリオが慌てだした。
「まってまって、ナタリアを泣かせたら潰すってフランに言われたばっかりなんだけど。フランはやると言ったら本当にやる」
「だって……」
止めようと思ったけれど止まらない。どんどん涙はあふれて、零れていく。
悲しいわけじゃない。ただ嬉しくて、安心したのだ。
セシリオはハンカチを取り出してナタリアの顔に押し付ける。ナタリアはそれを受け取って目に当てた。
「セシー、これからずっと一緒にいてくれる?」
「ずっと一緒にいる。だけど、トイレ以外ね」
小さい頃、そんな話をした。その時と同じように、真面目な話をしているはずなのに少しだけ外してくるセシリオに、泣きながらクスッと笑った。
「一緒に住んで、食事してお茶もして、仕事もして、それから今度一緒に舞踏会でダンスもしよう。そういう約束をしたの、ナタリアは覚えてる?」
「覚えてるよ」
「じゃあ約束通り、結婚しよう」
「うん」
セシリオがあの日約束した時のように、小指をナタリアの前に立てた。
ナタリアは笑って自分の小指を出した。
二人の小指は、未来は、絡まった。
これで完結です。
読んで下さってありがとうございました。




