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「なんだかスッキリしないわ」
「スッキリしない?」
ディエゴとミゲラ、それから元執事長と侍女長が伯爵家を去り、辺境の地へ向かってから一月。
ナタリアはフランシスカとセシリオと一緒に食後のお茶を飲んでいた。ようやく食事がゆっくり取れるようになり、お茶をする時間もできた。まだ落ち着かないけれど、伯爵家は少しずつアデリナが当主であったころのように回り始めた。
「あの男を追いやったら、心がスカッとするかなと思っていたの。雲一つない青空みたいな気持ちになれるんじゃないかって。だけど実際は、晴れてはいるけど雲がけっこうあるな、みたいな気持ち」
「その例え、よくわからないんだけど。まぁ晴れてるならいいんじゃないの?」
フランシスカはムッとした表情でセシリオを睨む。それからふぅと溜息を吐いた。
「あの人もね、結婚したときはあそこまでひどくなかったのよ。立場は一応弁えている感じだったし、わたくしが口を出さなければあちらもうるさく言ってくることはなかった」
ディエゴに別の女性、つまりミゲラがいることを、アデリナは最初から知っていた。だけど決められた結婚で、ディエゴにもアデリナにもどうしようもなかった。
ディエゴにミゲラがいたことについては、アデリナは良くは思っていないものの、ある程度諦めていた。元々愛し合って結婚したというわけでは全くない。だから嫉妬することもない。責務さえ果たすのであれば、あとは好きにしていいとも思っていた。
「実際はその責務さえ果たさなかったけどね」
仕事もせずに伯爵家に戻ってこない。さすがにアデリナの両親さえ苦言を呈するほどではあった。
それでも害にならないのであれば仕方がない、とアデリナは思っていた。仕事はしないが、だからといって伯爵家の資産を持ち出したり無駄に使ったりということは、当時はなかったらしい。
「わたくしの……アデリナの両親が二人そろって亡くなって、彼に都合のいい状況ができてしまったの。そこで欲が出たのでしょうね。これで伯爵家は自分のものだ、って。だけど結局全てを失った。馬鹿よね」
ナタリアもそう思う。
もし自分が上に立とうとせずにアデリナを当主として支えていれば、アデリナはミゲラの存在があったとしてもディエゴを夫として尊重しただろう。
もしナタリアを次期当主として正しく導いていれば、ナタリアは父として慕っていただろう。
もしミゲラが継母として寄り添ってくれ、パウラが妹として仲良くしてくれていれば、身分など関係なく家族として今もここで共にお茶を飲んでいたかもしれない。
すべて壊したのは、ディエゴとミゲラ自身だ。
「人は変わるものね」
フランシスカはしんみりと言う。
セシリオが飲んでいたお茶を皿に置いた。カチャというごく小さな音が鳴る。そして少し揶揄うような目でフランシスカを見た。
「フランもな」
「わたくしはもう別人になっちゃってるんだから、変わるもなにもないわよ」
ナタリアの知る限り、アデリナはどちらかというと静かな人だった。いつもよく考えて行動し、何か問題があってもまずは動かずに耐えるタイプ。良くも悪くも我慢強いところはナタリアと似ていると思う。
だけどフランシスカは我慢をしない。言いたいことは言うし、やりたいと思えばすぐやる。もちろんアデリナの経験からもきているのかもしれない。だけど元々フランシスカがもっている性格なのかな、とも思う。
そしてフランシスカ本人も、そう言っていた。アデリナとしての記憶はあるし、アデリナとしての気持ちもあるけれど、フランシスカという別人なのだと思う、と。フランシスカ自身もそのあたりはよくわからないらしい。
「そういえばナタリア、パウラについては聞いている?」
「今のところ修道院にいるみたいなんですけど、相変わらずなところもあって、周りを困らせているみたいです」
伯爵家で少しは仕事をするようになっていたパウラだったが、ディエゴとミゲラが辺境に送られたことを知って、伯爵家を飛び出してしまった。パウラの元侍女たちが付き添っていたことと、すぐにナタリアにも連絡が入ったので、幸いにも危ないことにはならなかったが、今は伯爵家に戻らずに修道院で保護してもらっている。
ナタリアは自ら修道院に足を運び、修道院長であるシスターに事情を話してきた。
パウラには伯爵家に戻る意志がないため、ひとまず修道女を目指す方向になった。シスターは理解のある方で、できる限りのことはしてみましょう、と言ってくれた。
ナタリアは修道院への寄付としてパウラの服飾品を渡した。パウラには資産がない。だからこれがナタリアからの慈悲だ。きっと有効活用してくれるだろう。
ナタリアたちがパウラに手を貸すのはここまでだ。
パウラがナタリアを姉だと思わなかったように、ナタリアもパウラを妹だとは思っていない。それでも血を分けた姉妹なのは事実だ。
できれば更生してほしいとナタリアは思っている。だけどそれはパウラ次第だ。ナタリアはこの先関わるつもりはない。
一月滞在したフランシスカはまた王宮へと戻っていった。
セシリオは引き続き伯爵家にいてくれる。
ナタリアはセシリオとほとんど三食を共にした。
食事をしながら、セシリオはいつも楽しそうに隣国オグバーンのことや、そこでの出来事、学んだことを話してくれた。
明るい話し方とは裏腹に、セシリオのオグバーンでの生活は楽しいものではなかったと聞いている。冷戦が始まってしまったから、この国テジェリアの貴族であるセシリオとその母のビセンテ公爵夫人は常に監視が付いていたらしい。
「だけど学校にも通ったよ。中には嫌なやつもいたけど、でも友人になった人だっている。楽しいことばかりではなかったけど、嫌な事ばかりでもなかったんだ。ちゃんと脱走せずに勉強してきたんだから」
よく一緒に脱走したことを思い出して、ナタリアはクスッと笑った。そういえば、脱走しちゃダメだよと、別れるときに言った気がする。
「セシリオ様」
「様はいらない。前みたいにセシーって呼んで」
「でも」
ね、というようにセシリオは首を少しだけ傾ける。
ナタリアが怖々と「セシー」と呼ぶと、セシリオは自然に「なに?」と微笑んだ。子どもの頃に戻ったわけじゃない。だけど一瞬そう錯覚してしまった。
「わたし、あまりセシーに話せることがないの」
セシリオと別れたあとのナタリアの世界は狭い。特に母が亡くなってからは外に出ることはほとんどなく、閉じこもって毎日動き回っていた。話したとしてもセシリオに気を使わせてしまうようなことばかりで、楽しい話があまりないのだ。
セシリオがたくさんのことを教えてくれるたび、なんだか申し訳ない気持ちになる。話を聞くのは楽しい。だけどナタリアは聞くばかりで返せない。
セシリオはそんなナタリアを見て、手に持っていたフォークを皿に置いた。
「ナタリア、もし話したい気持ちになったら、僕はいくらでも聞く。どんな話でもいい。楽しい話じゃなくても、辛かったことでもいい。だけど、無理に言わなくてもいい」
「でも、セシーはつまらないでしょう?」
「楽しいよ?」
セシリオはごく自然にそう言ってからパンを口に入れ、サラダに手をつけた。所作が綺麗だな、とナタリアは思った。
「ナタリアは覚えてる? オグバーンに行く前、僕は君にこっちの国にないものとかをいっぱい見て教えてあげる、って約束をしたの」
「うん」
「向こうについてから、僕は目にしたものとか経験とか、ナタリアにどうやって伝えようかっていつも考えながら過ごしてた。手紙に書ければよかったのにそれもできなかったから、言いたいことが溜まってる」
ナタリアは自分の鼓動がゆるやかに、それでも少し速くなるのを感じた。
ずっとセシリオがいつか戻ってきてくれると信じていた。ずっとセシリオのことを考えていた。だけどもう無理なのかもしれないと考えたことも、もちろんあった。
その頃セシリオもまた、ナタリアのことを考えてくれていたのだと思ったら、なにか温かいものが心に入ってきたような、そんな感じがした。
「九年分の話が溜まってる。だからいくらしゃべっても足りない気がする」
「セシー……」
「聞いてほしいってずっと思ってた。だけどそこにナタリアはいなくて、せっかく戻ってきても話せるような状態じゃなかった。だから今、とても楽しい」
セシリオは本当に楽しそうに笑う。
「いつか余裕ができたら、オグバーンに旅行に行こう。見せたい場所もたくさんあるんだ。頑張っても言葉だけじゃ伝わらないこともあるじゃない?」
いつか本当に、そんな未来が来たらいいなと思った。ナタリアは自然と微笑んで、首を縦に振った。
空虚になっていた心が、少しずつ満たされていくような感覚がした。




