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いつも一人で書類仕事をしている書庫の隣の部屋は、今日は人で溢れかえっている。
「全員でやれば、きっと早く終わるわね」
そんなことをフランシスカが言ったからだ。
もともと広い部屋ではない。椅子だけ他の部屋から持ち込み、一つの机にフランシスカとマリセラと別の従者二人、もう一つの机にディエゴとミゲラがついた。
ナタリアはいつも使っている机で書類を分類していた。伯爵の書類をディエゴに、女主人の書類をミゲラに、それから伯爵家以外の人に見せても問題ない書類をマリセラたちに渡していく。
マリセラは書類に唸っているが、フランシスカの従者の別の一人が異常に速い。渡した書類がすぐさま終わった状態で戻ってくるので、ナタリアは次の書類の用意にてんてこまいだ。
「彼女ね、書類というものが大好きなの。文官志望だったのだけれど家の事情でなれず、わたくしのところに来てもらったんだけど……、これ、いつものスタイルだから気にしないでね」
その女性は書類を見ながら悦に浸るかのようにニタァと顔を緩ませ、それから猛烈な勢いで書く。そしてまた書類を眺めながらうっとりと頬を赤らめ、また怒涛の勢いで書いていく。
ちょっと、いやけっこう怖い。
「新しい書類を見られて幸せなのだと思うわ。優秀なのは間違いないのよ……」
「そ、そのようですね」
なにせ本当に速いし、戻ってきた書類に間違いがないどころか、書類そのものの不備まで直っている。
対してディエゴとミゲラは署名だけすればいいという簡単なものを終えてからというもの、全然進んでいないようだ。書類の見方も書き方もわからないのだろう。
二人の書類には全く期待していない。変に書かれてやり直しに時間がかかったり面倒なことにならないといいな、と思っていると、フランシスカがそちらの机に飛び入りした。
「伯爵代理、わたくし子供だからよくわからないのだけれど、それはこちらに書くものではなくて? それでは文章の意味がわからないもの」
「う……」
「ミゲラ夫人、その注文数は少ないのではないかしら。どう考えても足りないと思うわ。こちらは逆に多すぎ。伯爵家でそんなに買い占めてしまったら、民が困るわ」
わたくし子供だからわからない、と言いながらも、的確に間違いを衝いていく。もう何年も前にはなるが、フランシスカはアデリナだったころに伯爵家当主の仕事もこなしていたのだ。伯爵家の事情には、少なくとも何もしていなかったディエゴやミゲラよりも詳しい。
途中、不機嫌になって口実を作って逃げ出そうとするディエゴとミゲラをフランシスカが留まらせ続け、ようやく終わりが見えてきたときだった。バンッと勢いよく扉が開いた。
「ナタリア、追加だ…………え?」
現れた恰幅の良い男は伯爵家の執事長だ。いつものようにナタリアが一人で仕事をしているとでも思ったのだろう、彼もまたいつものように威圧的に、上から覆いかぶさるかのような、それでいて楽しそうな声で言い、部屋の状況を見て目を見開いて固まった。
その手には積まれた書類。ここ数日ナタリアができなかった分もあるのだろう、たんまりと持っている。執事長はこうやっていつも自分の仕事をナタリアに押し付けてくるのだ。
それにしても、部屋の前にはフランシスカの護衛もいるはずだ。気が付かなかったのか、と不思議に思ったけれど、後ろにセシリオがチラッと見えたことでなんとなく理解した。セシリオが何か画策したらしい。
子供のフランシスカに間違いを指摘され続けるという屈辱からようやく逃れられると思っていたはずのディエゴとミゲラが執事長を睨む。たじたじしながら退散しようとした執事長だったが、残念ながらそれは叶わなかった。
「あら、追加ですって」
フランシスカが颯爽とその書類を執事長の手から取り、ナタリアに渡したからである。
ナタリアはその書類も分類していく。結果、ディエゴやミゲラに執事長の仕事が回ることになった。
「わたくし子供だからわからないけれど、この書類、ナタリアがやるべきものではない気がするわ」
「そのようにわたくしにも思えます。それに、ナタリア様を呼び捨てにしたように聞こえたのですけれど、わたくしの聞き間違いかしら」
マリセラもフランシスカに同意する。
ディエゴとミゲラまでもが執事長に鋭い目線を送った。執事長がやるべき仕事まで回されて、二人は怒り心頭だ。だけど自分の仕事をナタリアに回しているのはディエゴたちも一緒。これはおまえの仕事だろう、とは言えないらしい。
赤い顔をして書類に向かうディエゴとミゲラ、それに突っ込むフランシスカ。おろおろしながら所在なさげに壁際に控える執事長。書類は苦手なのかひたすら唸り続けているマリセラに、新しい書類が届いて目を輝かせているフランシスカの従者。
部屋の中はだいぶ不思議な状況になっている。
そんな状況の中、人数が多いこともあり、いつもよりずいぶんと早く終わったのだった。
その日の夕方、手伝ってもらったおかげで日課の仕事をいつもよりも格段に早く終えたナタリアは、一人で使用人区域の廊下を歩いていた。ナタリアの私物は少ないが、それでも全くないわけではない。ナタリアが使っていた部屋には少なくともしばらくは戻らないため、取りにきたのだ。
部屋に近付いたところでカツカツという覚えのある靴音が聞こえた。ナタリアが振り返ると、すごい形相をした侍女長がいた。その後ろに二人の使用人を連れている。彼女たちはミゲラの侍女だ。
「ようやく一人になったわね。常に殿下とその護衛の方たちと一緒にいるなんて何様かしら。殿下がいらしているからといって、ずいぶんと好き勝手してくれるじゃないの」
侍女長は一歩ずつナタリアとの距離を詰める。
「殿下が戻られるまでのことだと思って我慢してきたけれど、さすがにやりすぎよ。奥様も困っていらしたではないの。まさか本気で伯爵家を継げるとでも思っていらっしゃるのかしら。馬鹿らしいこと」
「伯爵家の後継者はわたしですよ、侍女長」
「いいえ、パウラ様よ。セシリオ様とご結婚なされば、実質パウラ様が継ぐのと同じこと。おまえはおとなしく伯爵家のために働き続ければいいの。奥様からそう教わったでしょう?」
二人のミゲラの侍女がナタリアの両腕をグッと掴んだ。そしてナタリアが使っていた部屋の方へナタリアを引きずっていく。侍女長からチャリ、という音がした。
「侍女長としてこれ以上の横暴は見過ごせないわ」
侍女長がそう言うと、侍女二人が戸を開けたナタリアの部屋にドンとナタリアを突き飛ばした。
「なにをするの」
「そこで殿下がお帰りになるまで反省なさい。殿下たちには体調を崩したとでも言っておくわ。もし移してしまったら大変だからお会いできないと、そういうことにすればいいでしょう」
侍女長は戸を閉めて、外から鍵をかけた。ガチャ、という音が響く。
ナタリアは内側から戸を叩いた。
「開けて! ここを開けなさい、侍女長」
「開けなさいですって? 私に命令するつもり? 身の程を弁えたらどうなの。出過ぎた真似をしたと反省して謝れば食事を出してあげなくもないわよ」
ふふふ、と侍女長が笑う声がする。
「あなたたちは旦那様と奥様に報告してきてちょうだい」
「かしこまりま……なっ」
ナタリアは部屋に閉じ込められてしまったので、外の様子はわからない。だけどドンという音がしたり、靴音がしたり、ミゲラの侍女らしきうめき声が聞こえたりした。
「な、なにを」
「何って、ナタリアに危害を加えた使用人を捕えただけよ。貴族に乱暴したのだもの、当然よね」
フランシスカの声がする。どうやら予定通りにことが進んでいるらしい。
ナタリアが一人になれば、絶対に侍女長はナタリアを狙ってくる。そう言ったのはフランシスカだった。
「マリセラ、見たわね、聞いたわね?」
「はい。ばっちり見ましたし聞きました。侍女というのは主の意向に沿わないことは基本的にしませんのよ。それが主に向かって暴言を吐いた挙句、監禁。あなたは本当に伯爵家の侍女長なんですの? どう見ても侍女長どころか侍女失格ですわ」
「なっ……。私の主は奥様よ!」
「あぁ、なるほど。あの平民に仕えている、と。主があれでは仕方ありませんわね」
侍女長の赤い顔が見えるような気がした。
フランシスカが「マリセラ」と呼ぶ声と「はい」という楽し気な返事が聞こえた。それからいくつかの物音と共に「放しなさい!」という侍女長の声が聞こえた。
しばらくしてガチャと戸が開いた。
「ナタリア、怪我はない?」
「問題ありません」
ナタリアが見た光景は、侍女長と侍女二人が床に押さえつけられている姿だった。侍女長だけは猿轡を噛ませられてしゃべれないようにされており、その状態でもナタリアを睨んでくる。
「さて、ナタリア。この人たちをどうしましょうか。貴族であり家の主であるナタリアに暴言を吐いた上で監禁。この場で切り捨ててもいいくらいだと思うけれど。王女として許可しましょうか?」
フランシスカがにっこりと物騒なことを言う。それと同時に護衛の力が強くなる。
侍女二人は真っ青な顔になった。
「牢へ入れておいてください」
「あら、ナタリアは優しいのね。いえ逆かしら。余罪がたくさんありそうだもの」
ふふふ、と笑ったフランシスカの目は全く笑っておらず、ナタリアでさえ怖いと思うほどに怒りを携えていた。
 




