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ぼんやりと誰かの顔が見えた。
ここはどこで、何をしていたのだっけ。身体が重くて、熱い気がする。だけど同時に寒い気もして、自分でもよくわからない。
「気が付かれましたか?」
「……エマ?」
「そうです、エマですよ。目が覚めたようでよかった。具合はいかがですか?」
「わたし、どうして、ここ……」
意識がはっきりとしなくて曖昧すぎる質問になる。それでも優秀な侍女であるエマは何が聞きたいのかすぐに理解したらしい。
「お嬢様は書庫で倒れていらしたのですよ。それから丸一日眠っていました」
それを聞いて少しずつ記憶が戻ってきた。セシリオとの再会をしたあと、ミゲラに書庫に閉じ込められていたのだった。
書庫の奥へ行って泣きはらしたあたりから記憶がないが、どうやら手前までは無意識に戻っていたらしい。よかった、とナタリアは思った。書庫の奥は誰にも知らせてはいけない約束だ。閉じ込めたはずのナタリアがいなくなっていたら騒ぎになるところだった。
「エマ、あなたは、なぜ?」
またしても抽象的な質問になってしまったけれど、エマはそれも理解してくれたらしく、安心させるように微笑んだ。
エマは元々母の侍女だった。母が最も信頼し、そしてナタリアも慕っていた侍女だ。
母が亡くなって状況が変わってしまった時、彼女は機転を利かせて父とミゲラに取り入った。
『奥様にはうんざりしていたんですよ。ナタリアもまあ可愛げがない子で!』
父とミゲラに伯爵家の情報を流し、ナタリアと母の悪口をわざと言った。急にナタリアに辛く当たるようになり、きつい仕事を割り振るようになった。そうして父やミゲラ、侍女長たちの信頼を勝ち取った。
そんなエマに、ナタリアでさえ最初は騙された。
エマは父側についたのだと思ったのだ。
実際のところ、エマは父側に回ってなどいなかった。そう見せながら伯爵邸に残った他の使用人たちに根回しを行って取りまとめ、ナタリアを危険から守っていたのだ。
例えば書庫に閉じ込めたことをミゲラがすっかり忘れていたときに忠告したり、執事長や侍女長が度を超えそうになった時にさすがにそれはまずいのではとやんわり窘めたり。自分の代わりに信頼できる使用人をナタリアの側につかせたり、わざとパンを床に転がして汚し、「ナタリアの餌にピッタリだわ」なんて言いながら食事を抜かれていたナタリアに食料を届けたり。
辛かったはずだ。基本的に温厚なナタリアでさえ苛立つくらいの母への暴言を自ら吐き、時には侍女長に代わってナタリアに手を上げた。そのほうがマシだからという理由だとしたって、大事に思っている人を悪く言ったり手を上げなければいけないことが、辛くないわけがないのだ。
そうしてでもナタリアを守ろうと、今でも父やミゲラに取り入っている。
そのエマがここでナタリアの看病をしている。あまりナタリアに近づくと目をつけられてしまうのに。
「私のことはお気になさらず。ここに私を寄こしたのは旦那様ですから」
「お父様が?」
「そうです。介抱するようにと言いつけられてきました。旦那様はお嬢様が倒れたのを知って、ミゲラ夫人に怒ってたんですよ。『どうしようと構わないが死なせるなと言ったはずだ!』ってね。そうなれば困りますものね」
エマは小さい声ながらもわざと明るくおどけたように言い、ナタリアの背を支えて上体を起こす。視界がはっきりしてきて、ここがナタリアの自室だということがわかった。
「まだ熱があるみたいですね。お水は飲めますか?」
小さく頷くと、エマはコップに半分ほどの水を渡してくれた。
「一気に飲んでは駄目ですよ。お腹が驚いてしまいますから。もし何か食べられそうだったら持ってきますけど、どうですか?」
水をゆっくり飲みながら、今度は横に首を振る。気持ちとしても何も食べたくないし、身体が受け付けないだろう。
エマはコップを片付けるために後ろを向く。グスッと鼻をすする音が聞こえた。そのまま少しの間ナタリアに背を向けて、お盆にコップや水差しを置く音でごまかしている。
「エマ?」
振り向いたエマはいつもの柔らかい笑みだった。だけど少し目が赤い。
「お嬢様、ようやくセシリオ様が来てくださいました。もう大丈夫ですよ」
「でも、彼は……」
きっとパウラと婚約して、ゆくゆくは結婚してこの家を二人で継ぐつもりなのだ。
エマは亡き母に仕えていた侍女なので、当然セシリオのことも知っている。いつかセシリオが来てくれて、ナタリアが爵位を継ぐ。だから大丈夫だと、そう励ましてくれたのがエマだった。
「ごめんなさい、エマ。ごめんなさい……」
期待に応えられなくて。
身体の状態が良くないらしい。心も弱ってしまったためか、もう何も考えたくなかった。だんだんと意識が遠のいていく。
「謝ることなどひとつもありませんよ。大丈夫です。きっと上手くやってくださいます。だから今はしっかり身体を休めてください。大丈夫ですよ、大丈夫ですとも……」
ぼんやりとエマの励ましを聞きながら、ナタリアは意識を手放した。
ナタリアはそれから三日間、ほとんどの時間をベッドの上で過ごした。今まで三日も休むことはなかった。どんなに具合が悪くても休ませてなどもらえなかったからだ。
一番長い休みで一日。鼻水を汚く垂らし、侍女長に向かってくしゃみと咳をまき散らした結果、汚物を見る目で一日部屋から出るなと言われた時が最長だ。
それが三日間も何も言われなかった。少しでも休めば「怠けている」と言われていたナタリアが、三日間も、だ。
「エマ、わたしは死んだのかしら?」
「何をおっしゃっているのやら」
エマが苦笑しながら食事を置く。この三日間、エマが食事や着替えなどを運んでくれていた。わずかな時間しか一緒にいられないけれど、エマが励ましてくれるので少しは精神状態も落ち着いた。体調もなんとか、元通りとはいかないけれど動けるまでには回復した。エマにも迷惑をかけているし、さすがに復帰しないといけない。そう思ったところで、どうしてこんなにも放っておいてもらえるのか不思議になった。
「この三日間、誰も何も言ってこなかったから。もしかしたらわたしはすでに死んでいて、エマだけにわたしが見えているのかしら、なんてことを思ったの」
「私より先に死なれては困りますよ。奥様の悪口を言いまくった上にお嬢様まで守れなかったとあっては、私はあちらの世界で奥様に合わせる顔がなくなってしまいます」
ここでエマが言う「奥様」とはナタリアの母のことだ。
エマは平民だが、エマの両親が伯爵家の執事と侍女だったので、母が幼いころから遊び相手として一緒に育ってきたそうだ。ちなみにエマは母の五歳上なので、母はエマを侍女というよりは姉のように思っていたという。
「お嬢様より先にあちらの世界へ行って奥様にお嬢様のお話をするのが私の楽しみなのですから、それを奪うなんていうひどいことは言わないでくださいな。お嬢様はちゃんと生きていらっしゃいますから」
そうか、生きているのか、とナタリアは他人事のように思った。三日間でいろいろ考えてまだ死ねないという結論に達したけれど、寝込んでいたときは死んでしまってもいいかもしれない、もう起きたくない、とも思ってしまったのだ。
「セシリオ様が、しっかり回復するまで充分に休ませてあげてほしい、と言ってくださったのですよ」
「セシー……セシリオ様が?」
「えぇ。旦那様とミゲラ夫人がいる場所でね。それで旦那様も『もちろんそうさせます』と言ってしまったから、さすがにミゲラ夫人も侍女長も手出しできないのでしょう」
セシリオはあれからルシエンテス伯爵家に滞在している。王都から距離があるから、という理由だけではなく、いずれ婿入りすることを前提にこちらでの仕事なども勉強しておきたいから、ということらしく、しばらくこちらにいると聞いた。
伯爵邸にいるのだから、もしかしたらどこかでバッタリ会うこともあるのかもしれない。もしかしたらパウラと並んで歩いているのを見るかもしれない。
それを思うと、ナタリアは心が沈む思いがした。
俯いたナタリアの手を、エマが握った。
「お嬢様、セシリオ様はお嬢様を見捨ててなどいませんよ。絶対に、大丈夫です」
「……エマ?」
「今はまだ身動きが取れないだけです。だから希望を捨てないで、セシリオ様と、このエマを信じてください」
エマの目は真剣だった。だから少しだけ、ほんの少しだけ、最後の希望の細い糸を手放すのを先延ばしにすることにした。




