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 ルシエンテス家は、由緒ある伯爵家だ。

 王家からの信頼も厚く、領地は広くて農業も商業も栄え、活気がある。

 そしてその中心部にある伯爵邸は非常に大きく立派な建物で、邸宅というよりも城といったほうがしっくりくるくらいだ。


 そんなルシエンテス伯爵家の長女であるナタリアは、伯爵邸の広くて明るい優雅なエントランスホール……ではなく、その壁を一枚隔てた隣、昼なのにやや薄暗い使用人の通路を進んでいた。汚れだらけの使用人服をまとったナタリアを見て、この伯爵家の令嬢だと思う人はいないだろう。


「急がなくちゃ」


 ナタリアが足を早めると、腕に抱えた桶の中の灰色の水がちゃぷりと跳ねて服や顔にかかる。ご令嬢と呼ばれる身分の女性であれば、盛大に顔をしかめるところかもしれない。だけどナタリアは気にしない。いつものことだからだ。


 今日は「大事なお客様」が伯爵邸に来るため、伯爵家は皆忙しい。

 そのお客様とは公爵家のご令息で、ナタリアの異母妹であるパウラが王都に滞在していたときに親しくなった方らしい。パウラによれば、


『わたくしのことを気に入ってくださって』

『婚約の話をしにくる』


 のだそうだ。忙しいナタリアを呼び出し、自慢げに長々と語られた内容をまとめるとそうなる。

 ナタリアとしてはパウラがさっさと嫁に行ってくれるのはありがたいのだが、そのお相手については気になるところがある。名前を聞いたけど、もったいぶって教えてくれなかったのだ。だけど今気にしていても仕方がない。


 向かいから数人が急ぎ足でやってくるのが見え、ナタリアは端に避けた。玄関の方へ向かっているので、どうやらそのお客様が到着するらしい。使用人とはいえピシッとした装いをしている彼らは、執事や侍女たちだ。使用人にも序列があって、客前に出られるのは上位の者。彼らはその使用人の中の上位者だ。


 何人かはすれ違いざまに侮蔑の目を向けてくる。ナタリアを見下す人もいれば、単純にナタリアの運んでいる汚れた水がかかるのが嫌なだけの人もいる。笑顔を向けてくれる人はいない。ナタリアの味方であっても、それを表に出すと叱られるからだ。


 ふぅ、と小さく肩を落として、ナタリアはまた通路を進む。使用人の使う裏口から建物の外に出ると、桶の水を捨てた。それから干していた布類を取り込んで、そこに洗った雑巾などをかける。


 ようやく一段落して食堂に向かう。もちろん使用人のための食堂だ。来客前にいろいろな場所の掃除を終えなければいけなかったので、もう昼を過ぎているというのに今朝から何も食べていない。お客様の対応で人が少ない間に、少しでも何かお腹に入れておきたかった。


 食堂にはパンがいくつか残されていた。ナタリアはホッとしてそのパンを手に取った。今日は他の使用人たちも落ち着いては食べられないので、各自で時間のある時に食べられるように置かれていたらしい。チーズなどの具材のかけらも残っている。その隣の何も乗っていないお皿は、何かがあったけれど売り切れなのだろう。

 パンも形が悪かったり一部が焦げているものが残っている。美味しそうなものからなくなったのだろう。だけど食べそびれることも、わざと抜かれることも頻繁にあるナタリアにとって、パンの形などどうでもいいことだった。


 そのパンを口に入れようとした時だった。

 わざとらしい大きなため息が聞こえたと思ったら、カツカツという靴音が近づいてきた。


「皆が忙しく働いているというのに一人だけ食事をしているとは、さすがお嬢様。優雅なものね」


 嫌味たっぷりに言うのは侍女長だ。

 そう言う彼女はおそらく食事の時間にしっかり食べたのだろうと思う。だけど文句を言うことも、ましてや抗議することなどしない。したところで無駄なばかりか、生意気だと怒られたり、言いつけられてひどい目に遭うのは自分なのだ。


「わたしに何かご用でしょうか?」


 静かに問う。何か言っても怒られるが、何も言わなければもっと怒られる。侍女長の機嫌が悪くなると困るのはナタリアだ。


「奥様がお呼びよ。ついていらっしゃい」


 ついていかない、という選択肢はない。ナタリアは肩を落とし、目の前のパンをむぎゅっと口に詰め込んだ。少し硬くなっているので少しずつ食べたいところだけれど、この状況ではそれは許されない。それならば少しでも口に入れておくに限る。


「まあ、お行儀が悪いこと。あなたのお母様はいったいどんな躾けをなさったのかしら。パウラ様とは大違いだわ」


 口がパンで詰まっていたのが幸いだった。母の悪口を言われてもなにも返せないから。もっとも、詰まっていなくても何も言わなかっただろう。何を言っても無駄なことはわかっている。

 顔をしかめた侍女長はまたカツカツと靴音を立てて歩いていく。ナタリアは仕方がなくその後に続いた。


 使用人区域を出ると、景色は一気に貴族の邸宅に切り替わる。ナタリアはその中の一室に入れられ、侍女長ともう一人の侍女に着ていた服を剥ぎ取られた。そして趣味の悪い派手なドレスを着付けられていく。サイズも合わず、少し裾が短くて長さが足りない。だけどこの服は「ナタリアが気に入っていて」「昔からこれしか着ようとしない」ドレスなのだそうだ。

 そんなはずはないけれど、そういうことになっている。


「いらしている公爵家のご令息様が、あなたにも挨拶したいのですって。さすがパウラ様の婚約者となられる方ですわね。奥様とパウラ様にご迷惑が掛からないようにすることね」


 侍女長はフンと鼻を鳴らしながら、ナタリアの髪を引っ張る。整えているようでいて、そうではない。まるで自分でやって失敗したような、十六歳という成人一歩手前の年齢にそぐわない子供らしい髪型だ。やろうと思ってそれを作れるのはすごいなと、変なところで感心してしまう。


 どうやら侍女長の中では、公爵家のご令息がパウラの婚約者となることが決定のようだ。その彼がナタリアを呼んだらしい。一応パウラの姉だから挨拶をしておこう、ということなのだろうとナタリアは理解した。


 使用人ではない姿に作り変えられたナタリアは、応接室の扉の前に連れてこられた。侍女長が扉をノックすると、中からパウラの母であるミゲラが出てくる。彼女はナタリアの父の再婚相手なので、ナタリアの継母という関係になる。


「遅いじゃないの、何をしていたの」


 ミゲラは腕を組んでナタリアを睨んでくる。元々予定になかったのだから、遅いと言われても仕方がない。だけどそれを言ったところでさらに睨まれるだけだ。

 ミゲラは心から嫌そうな顔をナタリアに向けた。


「わかっているわね?」


 ミゲラがナタリアに念を押す。

 ナタリアは本来ならば伯爵家の長女である。生きていることをアピールするため、ごく稀に公の場所に姿を見せることもあった。その時にナタリアに求められるのは、なにも話さず、ただ俯いていることだ。


 ナタリアはどうしようもない我儘娘で、少しでも気に入らない事があると癇癪を起こして手に負えないため、とてもではないが外には出せない、という設定になっているらしい。それを崩すと、あとが大変なのだ。だから従わざるを得ない。


「セシリオ様があなたにもご挨拶を、と言ってくださったのよ。挨拶など必要ないというのに……」


 その名前を聞いて、ドキリと心臓が嫌な音を立てる。

 そんなナタリアの様子などお構いなしにミゲラが外向きの笑顔を作ると、扉が開かれた。


 そこにいた彼の姿を見て、ナタリアは全身が冷たくなった感じがした。違うと信じたかったけれど、見間違えるはずもない。

 見覚えのある赤毛に金の瞳。成長して凛々しくなったけれど、面影は変わらない。


『ナタリアに相応しい男になって戻ってくるから、僕のことを待ってて』


 そう言ったはずの彼が、異母妹の隣の席に座っていた。

連載始めました。楽しんでいただけると幸いです。

感想などいただけますと小躍りして喜びますが、お返事は完結後になります。

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