第84話 劣等Ⅱ 変わり果てた賢帝
わたしの感情がある程度収まってきてから。わたしは転生者――村上明日奈にいろいろと質問をした。彼女の言っている殆どは理解できなかったけれど、彼女は学校を卒業したばかりのOLで、職場では女性の先輩にいつも叱られていたらしい。
「で、でも、それも私が全ていけないんです。どんくさくて、仕事ができないから……あの日も先輩に一杯叱られて、もう逃げたくなっちゃってふらっと電車が入りかけの踏切に立ち入ったら目の前が真っ白になって……次に気づいた時は私、ここにいて……」
ここにいるはずのない『厳しい上司』に怯えるかのように縮こまりながら言う明日奈。明日奈は転生してきてからずっとそうだ。常にこの場にいる人、いない人の目を気にして怯えて、震えている。そこにいるのは他ならないエマの体なのに、いつも自由奔放で能天気で悩みなんてなさそうなエマの対極にあるその態度に、わたしのおさまりかけた神経は余計に逆なでされた。
――転生者って【呪詛】の代わりにあの漆国七雲客すらをも上回る【祝福】を持っているって話じゃないの? なら、なんでこいつはわたしなんかに怯えているのよ 。なによりもそれ以前に、あのエマのことを取り込み、存在を消すだけの実力がある訳でしょ。そんな相手がこんなにおどおどしてるなんて、存在が消されたエマが浮かばれなすぎるよ……。
そう思うとつい睨むように明日奈を見てしまう。するとそれを敏感に察知した明日奈が余計に身を縮こまらせる明日奈にはっとして、わたしは反省しちゃう。ほんと、この女とはやりにくい。
「まあいいわ。とにかくあなたがエマに成り代わってしまった以上、少なくとも暫くは賢帝としての仕事を引き継いでもらわないといけない。賢帝の体が転生者に乗っ取られて別人格になっちゃいました、なんて理由て譲位なんかしたら他の国民や賢帝に示しがつかないし、他国に弱みを見せることになるからね。だから、絶対にエマが転生者に体を乗っ取られたことは隠し通すこと。そのために、あなたには究極で完璧な賢帝を演じてもらわないといけない」
「あ、あの。そもそも賢帝って何ですか……? 」
そこからか。そう思うとまたため息が出てきちゃう。
「この国のトップ3の1人、と思っていてくれればいいわ。この地区で最も優秀で最も頭脳聡明で、最もリーダーシップのある人だけがなれる、この国の最高主導者よ」
わたしの説明を聞いた途端。明日奈の顔は青ざめる。
「むむむむ無理です、そんなの! だ、だって私、どんくさくって先輩や上司に怒られてばかりだったんですよぉ。平社員の仕事すらまともにこなせなかったのに国のトップなんて、そんなの無理に決まってます……」
つらつらと弱音を並べ立てる明日奈に、そろそろ堪忍袋の緒が切れてきた。わたしがバンッと勢いよく執務机をたたくと明日奈は「ひぃっ」なんて情けない声を上げて口を噤む。
「すべこべ言わないっ! 元はと言えば、あんたがこの国の三賢帝の一人、エマの体を乗っ取ったのが原因でしょうが。何が何でも、あなたに賢帝の代役を務めてもらうから。あなたに拒否権はない」
そこでわたしは思いっきり明日奈のことを睨みつけて、それからふっと表情を和らげる。
「ま、別に大丈夫でしょ。転生者といっても、ベースは腐ってもあの憎たらしいくらい優秀なエマなんだし。そんなに気負いすぎることはないわよ」
そう、わたしは甘く考えていた。そう、その時のわたしはまだわかっていなかった。明日奈がどれだけポンコツなのかと言うことに……。
「なんでこの程度のことがまだ処理できてないの! 」
「ご、ごめんなさい……」
次の日から。賢帝の執務室ではわたしの怒号が常に飛び交うようになった。エマの人格がこの世から消え去り明日奈がエマの体を奪った日から今日で3日。この3日間、わたしと明日奈はずっとこんな調子だった。
賢帝の体が転生者に奪われたからと言って国の仕事は待ってくれるわけがない。わたしは自分の日々の仕事をこなしながら明日奈に賢帝としての仕事を早急に教えて行こうとした。でもその計画はすぐに頓挫。なぜなら、明日奈はわたし達からは考えられないくらい物覚えが悪かったのだ。
何度注意しても同じミスを繰り返す。1度教えられただけでは絶対に仕事を覚えてくれない。1つ1つの動作がとにかくトロい。そんな明日奈がこの国で最も優秀な者だけがなれる賢帝の仕事なんて、最初から務まるはずがなかった。それでいて、わたしが強い調子で指摘すると明日奈は常にわたしよりも先を進んでいたあのエマの顔で、泣きそうになりながら
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
と呪文でも唱えるかのように小さくなりながら謝り始める。わたしにとって常に越えられない『1番』のエマの顔は絶対にそんなみっともないことをしない。エマがそんな風にわたしに謝ることなんてありえない。そう思うと、ものすごく虚しい気持ちになる。
エマを奪ったのは百歩譲って許すとしても、これ以上エマの体でこれ以上エマのイメージを落とすようなことをしないでほしかった。そう思ったけれど、本人に言えるわけない。だから、わたしは明日奈を見る度に傷つき、その悲しみは1人の時に思いっきり泣くことでしか清算できなかった。
――エマのために、今のわたしができることは何なんだろう。
最近。寝る前になるとふとそんなことを考える。
――転生者に体を乗っ取られたこの世界の人間の意識が蘇った、なんて聞いたことがない。だからエマを直接助けることはわたしにはできない。できないけどせめて明日奈を外に出してもみっともなくないレベルまで育てて、明日奈を全力でサポートして、エマのイメージを落とさないようにしないと。変わりはてたエマを見て傷つき、落胆するのはわたし1人で十分よ。
毎晩、そうベッドの中でわたしは誓った。
言葉では強く叱責しながらも、わたしは明日奈が仕事ができるようになるまで根気よく教え、彼女をサポートした。そしてその結果溜まっていく自分の仕事や明日奈がやりきれなかった賢帝の仕事はわたしが睡眠時間を削って捌いて行くことになった。決して楽ではない道のり。その厳しい過程の中で何度明日奈のことを殺して自分が賢帝に成り代わってしまおうかと思ったかわからない。でもわたしは必死に耐え続けた。何より、エマの体を傷つけることなんてエマへの気持ちを自覚してしまったわたしに、出来るはずがなかった。
そうこうしているうちに、わたしはわたしを見る明日奈の視線が変化しているのに気づいた。
「く、クレアさんって口では厳しいですけど優しいですよね」
ある時。明日奈からぽつりとそう言われてわたしは戸惑ってしまう。明日奈からそんなことを言われるなんて思ってなかったから。
「そんなことないと思うわよ。わたし、出来の悪い人を甘やかしたり容赦したりできない質だもの」
何言ってるんだ、と思いながらそっけなく答えるわたしに、明日奈は首をゆっくりと横に振る。
「そんなことありません。私が元の世界にいた時、職場の先輩は私が失敗するとすぐに手を上げてくるか、失望してもう仕事を振らないかの二択でした。そんな会社の人達が私は怖くて、どうにかして認めてほしくて、常に人の目を気にするようになっちゃったんです。見捨てられるくらいならパワハラをされる方がマシで、謝って謝って、でも許しを乞うて縋る癖がついちゃったんです。
でも、クレアさんは違う。出来の悪い私に一切手を上げないで、なかなかできるようにならない私のことを見捨てないでくれた。だから、クレアさんは優しいです」
「それは明日奈のいたところがおかしかっただけだと思うけれど……」
「クレアさんってなんとなく元居た世界の会社での先輩に雰囲気が似てるんです。でも、先輩と違って凄く優しい。ずっと、こんな先輩だったらいいのになと思っていた理想の先輩像がクレアさんなんです。だから、これからクレアさんのことを『先輩』って呼んでもいいですか? 」
いつになく積極的な明日奈にわたしはたじろぐ。
「せ、先輩っておかしくない? 明日奈の方がわたしよりも年上だし、それに……」
なにより、わたしよりも優秀だったエマの姿形をした女性から『先輩』なんて呼ばれるのは気持ち悪い。でも、それをわたしはそれを強く言えなかった。そんなわたしの手を明日奈は徐にとって懇願するような目でわたしのことを見つめてくる。
「そんなことありません! 賢帝のお仕事としてはクレアさんの方が『先輩』ですし……ダメ、ですか? 」
この時の明日奈はよく見ると虚勢を張っているように見えたからちょっと押してしまえば諦めてくれたと思う。でも、わたしは結局、流されるままその呼び方を受け入れてしまった。
後から思うと、わたしはもうこの時には既に明日奈を見る目が少しずつ変わってきていたのかもしれなかった。