第70話 反転Ⅱ 解れていくお嬢様
*6月10日、話数カウントを間違えていたためそこだけ修正しました。
ミレーヌ様がぼくにメイドとして仕えたがるのは次の日も、その次の日も続いた。お掃除だったり、洗濯だったり、ご飯だったり。普段だったら自分でやっていることをお嬢様はいちいち『お世話』したがってきた。
時には湯あみの手伝いや歯磨き、そして相変わらず着替えを手伝いたがって来たけれど、それは流石に恥ずかしすぎるので毎回ぼくの方から丁重にお断りした。
最初は唐突なミレーヌ様に困惑し、ミレーヌ様のペースに飲まれていたぼくだったけど、それが数日続くうちにだんだんとミレーヌ様が無理していることに気づいてきた。考えてみるとミレーヌ様は生まれながらの貴族で家事なんて殆ど自分でしないはず。なのに今のミレーヌ様は強迫観念に迫られるかのようにぼくには見えた。そんなミレーヌ様にお世話されるのがぼくはだんだん息苦しくて、辛くなってきた。そして、慣れない無理をしたミレーヌ様にぼろが出てくるのは意外と早かった。
ある朝。まだミレーヌ様に給餌されながら食事を摂ることに慣れないながらも食べ終えて、ミレーヌ様に食後の紅茶を注いでもらっていた時だった。
手を滑らせたミレーヌ様の手からティーポットが落ちて熱湯と陶器が辺りに飛び散る。
「ご、ごめんなさいアリエル! 火傷はなかった? 今片付けるから」
この世の終わりのように真っ青にしておろおろするミレーヌ様。そしてパニックに陥ったらミレーヌ様が細く美しい手で陶器の破片を拾おうとしたのが目に入った瞬間。
「素手で触らないでください! 」
自分でも驚くくらい大きな声がぼくの口から出た。
「だいたい、ぼくの心配とかいいですから。ミレーヌ様とか怪我とか火傷とかしてませんか? 」
ミレーヌ様の心配をしながらぼくは【回帰】魔法を使って飛び散ったティーポットと紅茶で濡れたカーペットを元通りにする。
「あたしは大丈夫。大丈夫だけど……やっぱあたし、迷惑かな? 」
瞼に涙をいっぱい溜めながら言うミレーヌ様にぼくは一瞬返す言葉がわからなくなっちゃう。
「って、当たり前だよね。ズブな素人のあたしがメイドの真似事なんて、滑稽で、傍迷惑に決まってる」
「そんなことないですよ。ミレーヌ様はぼくに勿体無いくらいよくしてくれてます。ミレーヌ様が入れてくれる紅茶も素人だと思えないくらい美味しいです……あ」
口走ってしまってから後悔する。よりによって今口にすることじゃないじゃん!
そのあたしの失言をミレーヌ様が都合よく聞き流してくれるわけがなかった。
「やっぱあたしの淹れる紅茶、美味しくないよね。アリエルの淹れてくれるものの足元にも及ばないことくらい、あたしだってわかってた」
「そ、それはぼくが喫茶店で働いていたことがあるからで! ミレーヌ様の紅茶はソラ先輩と同じくらい……というか意外とズボラなソラ先輩より遥かに美味しいですから! 」
「でも、アリエルに満足してもらえなくちゃなんの意味もないじゃん」
「……! 」
もっともな言葉にぼくはまた返す言葉がわからなくなっちゃう。そうするうちにミレーヌ様はどんどんナイーブになっていく。
「あはは。ほんと面倒臭いよね、あたしって。ヘンリエッタの一件があってからあたしの方から動かなくちゃアリエルはどこかにいっちゃうと思って、焦っちゃって、でも何をしたらいいかわからなくて、思いついたアリエルにしてあげられることを一生懸命にやってみて。だけど、全部空回りだったよね」
「そんなことないです! それに何かしてくれなくてもミレーヌ様のところからぼくが離れるわけないじゃないですか! 」
必死に訴えるぼく。でもその声はミレーヌ様には届かない。彼女は目を潤ませたまま寂しそうに笑っただけだった。
「アリエルは優しいからそう言ってくれるってわかってた。でも、いくら言われても安心できないよ。あたしはヘンリエッタや勇者みたいに『特別』じゃないから」
「そんなことないです。ミレーヌ様は最初から、ぼくにとって特別です! 」
そう言いながらも、ぼくの頭にふと疑問が過る。
――あれ、ぼくってミレーヌ様のどんなところに惹かれたんだっけ。
考え出すとわからなくなってくる。確かにメイド服姿のミレーヌ様はお持ち帰りしたいくらい(いや、実際にお持ち帰りするまでもなく終始ぼくのすぐ傍に居てくれるわけだけど)かわいいし、今みたいにミレーヌ様が泣きそうな表情をしてるとぼくまで辛くなってくる。でも、そんなミレーヌ様の表情の数々はぼくが最初に惹かれたミレーヌ様とは違う。今のミレーヌ様はなにかが物足りなくて、もっと欲しくなる。
そうだ。ぼくが惹かれ、好きになったのは辺境伯としてのミレーヌ様だった。一本の軸がしっかり通っていて、いつも積極的にぼくの手を引いてくれる、ある意味『かっこいい』貴族の女の子。
今だってミレーヌ様はぼくに対して積極的で、むしろぼくの方が圧倒されっぱなしなのは変わらない。でも、今のミレーヌ様は『脆い』気がする。常に何かに怯えてぼくの顔色ばかりを窺っている気がする。好きな人のそんな一面が見られるのは嬉しいし、それはそれで愛おしくてたまらなくなる。でも。
――メイドとしてのミレーヌ様も嬉しいけど、そろそろ辺境伯としてかっこいい、ぼくに新しいぼくをくれたミレーヌ様が見たい。
ほんの一瞬、そう思ってしまった。それが顔に出ちゃったんだろう。
「アリエルも、やっぱり『辺境伯としてのあたしが好きなんだ」
ミレーヌ様の頬を1筋の涙が濡らす。そこではぼくははっとする。今の感情は決して抱いちゃいけない類のものだった。だってそれは、ぼくが過去のわたしを求められるのと同じだろうから。
「あ、えっと、違くて! 」
必死に取り繕おうとするぼく。だけど、ミレーヌ様は溢れ出る目元の涙を両手で必死に拭いながら言う。
「いいのよ。作り物かもしれないけどアリエルが好きになってくれたあたしもあたしの大好きなあたしだから。初恋の人に憧れて、自分でなりたくて手に入れたあたしだから。でも、そんなあたしを好きになってくれた、あたしが特別になりたい相手にこんな弱いあたしを見せちゃって、申し訳なくて、恥ずかしくて、自分が惨めでしかないの。でも、今すぐに泣き止んでアリエルが好きになってくれたあたしみたいに微笑みたいのに涙が止まってくれないの。ほんと、みっともないあたしでごめんね。でも、嫌いにならないでよ、見捨てないでよ……」
なんで謝るんですかミレーヌ様。ミレーヌ様は何も悪くないのに。そう声をかけようとした時だった。
勢いよく扉が開かれたかと思うと、騒ぎを聞きつけて駆けつけたらしいソラ先輩が顔を覗かせた。
「この状況、まさかアリエルがご主人様を泣かせたんじゃ……」
「ち、違うの! 全部アリエルに好きになってもらえないあたしが悪いの。だから、あたしの特別になりたい人を悪く言わないで……」
涙で顔をぐちゃぐちゃにしたままソラ先輩に縋り付くミレーヌ様。そんなミレーヌ様にソラ先輩は小さくため息をつく。
「単にご主人様が勝手に自爆しただけ、か。ごめんね、アリエル。でも、ちょっとご主人様が落ち着くまで距離を置いてあげて」
そうぼくの方を見て申し訳なさそうに言ってきたかと思うと。ソラ先輩は「ほら、戻りますよ」とミレーヌ様に声をかけて、支えてないと崩れ落ちちゃいそうなミレーヌ様を肩で支えて部屋を出ていく。
そして。部屋には何もできないぼくだけが取り残された。