【キスの日特別編】 番外Ⅰ 絶対に付き合わない2人にとっての、特別な日
ご無沙汰しております。連載再開はもう少し先ですが、単話完結のエピソードを更新します。
ソラとレムのお話です。よろしければお付き合いください。1週間近く遅れのキスの日特別編です。
夜の繁華街の路地裏。気づくとボクの目の前には怯えたように立ちすくむ小柄な女の子がいた。彼女を見て、ボクだけどボクじゃないボクはニタリと表情を歪める。そして。
「今日はキスの日だから、おじさんとキスしないとなぁ」
気持ち悪い声を出したかと思うと、ボクだけどボクじゃないその男は無理やり彼女の唇を奪った――。
そこでボクは目を覚ます。
「はあ、はあ、はあ、はあ」
呼吸が荒い。鼓動は激しく波打ち、毛穴と言う毛穴から嫌な汗が噴き出している。怖くなって窓硝子で自分の顔を映す。すると、そこには気持ち悪い中年の強姦魔の顔――ではなく、水色の髪をショートカットに切りそろえた、中性的な顔立ちの少女の顔がそこにあった。そこまできて、ボクの心はようやく落ち着いてくる。
最近はかなり減ってきたけれど、今でもたまに転生前の記憶を夢で見る。自分じゃない、でも確かに自分のものとして脳裏に刻まれた記憶。それを夢で見ることがボクは大嫌いだった。ボクの中には体験としての実感を伴わない、でも確かに自分のものとしてそこにある記憶。それだけでも気持ち悪いというのに、しかもその記憶の数々は凌辱魔が抵抗する女の子を襲うものが殆どだった。それを追体験として見せられるたびに、自分もそんな強姦魔になってしまったんじゃないか、と怖くなる。
時計を見ると針は午前4時50分をさしていた。起きるにはまだ1時間近くある。でも、二度寝する気にはなれなかった。二度寝したらあの最悪な夢の続きを見せられそうな気がして怖かったから。
「……もう起きちゃお」
そう呟いて、ボクはベッドから出た。
「ソーラちゃんっ! 今日は何の日だか知っているですぅ? 」
お昼過ぎ。アリエルもご主人様も出かけていたその日。悪夢のせいで不安になっちゃったボクは、話し相手としてレムを屋敷に呼んでいた。そんなレムが、いつものように明るい調子で尋ねてくる。でも、ボクにはその質問の答えがぱっと出てこなかった。
「今日? 別にご主人様の誕生日でもなければ、レムの誕生日でもないでしょ」
ボクがそう答えると、レムはチッチッチ、と芝居がかった調子で人差し指を振る。
「特定の個人の記念日ではないのですぅ。今日は誰にとっても特別な日――キスの日なのですぅ! 」
嬉しそうに言うレムと対照的にボクはげんなりとしちゃう。キスの日。その今朝の悪夢にも出てきたワードが、あの悪夢を思い出させたから。
「大体なんなのよ、そのキスの日って言うのは」
レムに余計な心配を掛けないようにしよう、と思いながらもどうしても言葉に棘が含まれちゃう。けれどレムは気にした様子もなく楽しそうに説明を続ける。
「レムも今朝、ギルドに冒険者登録している【転生者】のお兄さんから聞いたのですぅ。なんでも異世界ではこの日、はじめてキスシーンがある演劇が公開されたそうなのですぅ。それを記念して今日はキスの日らしいのですぅ。【転生者】であるソラちゃんは知ってたんじゃないのですぅ? 」
「【転生者】といってもボクの場合は前世の記憶を物語で呼んだ知識のように知っている状態に近い形で持っているにすぎないから、知らないこともあるのよ」
「へぇっ、そうなんですぅ……。まあ、そんなことはどうでもいいのですぅ。今日はキスの日だから、ラブラブなレムとソラちゃんは愛の籠った熱いキスをしても許されるのですぅ! 」
「いや、それはないから」
即答するボクにレムはがっくりと肩を落とす。こんなやりとりはボクとレムの間じゃ珍しいことじゃない。レムの言葉は本気だけど、レムは無理やりボクに迫ってきたりはしなかった。ボクがご主人様のことをまだ思い続けていることを知っていて、その気持ちを尊重してくれているから。
「それにしてもキス、か」
レムがへんな話題をもちだしてきたからかな。ついそんなことを口にしちゃう。キス、というと真っ先に思い浮かぶ相手はご主人様だった。ご主人様とキスをしたら、どんな気持ちになるんだろう。ご主人様の艶のある唇、きっと気持ちいい感触だろうな。
ついご主人様とボクがキスをするところを想像してしまってはっとする。想像の中で、ミレーヌ様はボクと唇を重ねることを嫌がって抵抗していた。でも対女性特効を持つボクは腕力でねじ伏せ、無理矢理ご主人様の唇を奪う。そんな自分の姿は、悪夢で見たあの男と重なった。
――これまでずっとボクはあの男とは違うと思い込んできたけれど、ボクの心の中には好きな人を無理やり屈服させて好意を迫りたいとか、そう言う情動が眠っているんじゃないの? 全くの別人だと思いたいのはボクだけで、本質的には何も変わってないんじゃないの?
そのことに気付くと怖くなってくる。悪寒が襲ってくる。と、その時。
いきなり唇に柔らかいものが押し当てられたかと思うと、誰かの温もりが伝わってきて冷え切ったボクの体がじんわりと熱くなってくる。……って!
「ぷはっ! な、何やってるのよレム! 」
無理矢理レムを引きはがして、裏返った声で叫んでしまうボク。そう。気づいたら何を血迷ったのか、レムはボクの唇に口づけをしてきていた。でも、少し上気したレムの表情はいつものようにふざけた調子じゃなく、いたって真面目にボクのことを見据えていた。
「許可もなくソラちゃんの唇を奪っちゃったのは謝るのですぅ。でも、レムはそれ以外の方法を思いつかなかったのですぅ。だって今のソラちゃんは『キス』に対して嫌な思い出を持っていて、そのせいで震えるくらい怖い思いをしちゃっていたように見えたから」
その言葉にボクは唖然とする。今のボク、レムの目から見てもそんな風に映ってたんだ……。
「だから、どうしたら『キス』のイメージの上書きをしてあげられるんだろう、どうしたら『キス』に優しいイメージを持ってもらえるんだろう、って、そう、頭が悪いレムなりに考えてみた結果があれだったのですぅ。ソラちゃんはイヤ、でしたか? 余計にキスが嫌いになっちゃいましたか……? 」
らしくもなく不安げに瞳を揺らすレム。確かにいきなりキスをしてきたレムに驚きはした。でも、それは無理やりだったけれどイヤなものじゃなかった。それは、レムがボクにとって恋人じゃないけれども大切な人だったから。そしてレムのキスは自分の欲望と言うよりも、ボクのことを気遣っていることが伝わってくる優しいものだったから。現に、レムとのキスは不安で震えていたボクを包み込んでくれるような温かみがあった。
「イヤ、なわけがない。だって、さっきのレムはレムの優しさや温かみを感じられるものだったから。――キスって怖いものじゃなくて、こんなにも人を幸せにできるものだったんだね」
そう言っているうちに、ボクの頬に一筋の涙が流れる。そんなボクを見て、レムはいつもの向日葵のように明るい笑顔を向けてくる。
「じゃあ今日は、ソラちゃんが『キスの素晴らしさを知った記念日』になったのですぅ」
レムのその言葉が心にじんわりと染み入ってくる。今日は世間がどうだとかじゃなくてボクにとっての『キスの日』になったんだ。今日という平凡だった1日が、ボクとレムだけにとっては忘れがたい記念日になったんだ。
――そんな記念日をくれたレムに、何か恩返しはできないかな。
ふとそんな考えが頭に浮かぶ。今のボクがレムに何をあげられるんだろう。きっと一番いいのはレムの求める通りにレムの『彼女』になってあげること。でも、それはできない。ボクはどうやったってご主人様のことを忘れられないから。じゃあ代わりに何かできないかな。
そう悩んだ末。ボクは徐にレムの手を取ってレムの手の甲に軽く口づけをする。めちゃくちゃ恥ずかしい。恐る恐るレムの方を見ると、レムは驚いた表情で固まっていた。
「きょ、今日はキスの日なんでしょ。だ、だから! さっきのお礼と、いつも仲良くしてくれるレムに対する親愛を込めたキスくらいしたっていいでしょ。か、勘違いしないでね! 別にレムを恋愛対象として見てるわけじゃないんだから! 」
ツンデレさんみたいになっちゃったな、ボク。そんなボクを見て、レムはお腹を抱えて笑い出す。
「そ、ソラちゃん。それ、告白にしか聞こえないですぅ! いや、ちゃんとレムはわかってますけど! 」
それから2分間くらい笑い倒した後。レムはらしくもなく照れくさそうな表情で言う。
「でも、本当に嬉しいですぅ。たとえこれが恋人としてのキスじゃなくても、大好きな人からキスをしてもらえた。今日はレムにとっても最高の『キスの日』になったのですぅ」
いつの間にか日は傾いていて窓から黄金色の日差しが差し込む。黄金色の日差しに照らされたレムの笑顔はものすごく美しかった。