第64話 幻想Ⅲ 森での生活
それから。わたしとお母さんとの共同生活が幕を開けました。お母さんは蒼弓の魔女と呼ばれる強大な魔法使いで、その強すぎる力ゆえに一人、森に引きこもって暮らしているようでした。
「殆ど自給自足の生活だから快適、ってことはないと思うけれど、そこは我慢してね」
お母さんはそう言っていましたが、お母さんとの森での生活は、これまで教会の冷たいコンクリートに這いつくばって生きていたわたしにとっては天国のようなものでした。ここでは毎日、ぶっ倒れるほど魔法を酷使することを強いられたりしません。一日3回以上、温かい食事を出してもらえます。固いコンクリートとは違う、ふかふかのベッドで寝られます。これまでの生活と違いすぎて、わたしはこんな贅沢な生活が許されていいのかと最初の頃は不安になりっぱなしでした。
そんな不安をわたしが口にするとお母さんはくすくすと笑います。
「ここでの生活でそんなに幸せそうなんて、レモンは安上がりな子ね。クラリゼナ王都の貴族社会なんて、こことは比べ物にならないくらい豪勢なんだから。まあその分、面倒くさい付き合いも多いからどっちがいいのかは分からないけれどね」
温かくて、お母さんに殴られたり蹴られたりすることがない生活。そんな夢のような毎日でしたが、数週間経つとわたしの中で段々と『日常』になっていきました。
そして衣食足りて礼節を知る、とでも言うのでしょうか。お母さんとの森での生活に慣れてくると、わたしはこれまでは生活に慣れるのに必死で気づいていなかった自分の中の物足りなさに気付くようになりました。それは、『人から殴られないことの不安』。もちろんわたしはマゾじゃないですから、痛いのも苦しいのも嫌いです。でも、ずっとわたしは『暴力』で人とのつながりを感じてきました。それがいきなりなくなると不安になってくるのです。
――お母さんがわたしに手を上げないのは本当はわたしのことがどうでもいいからじゃないのか。わたしはお母さんから愛されてないんじゃないか。
そう考えると不安で不安で仕方なくなります。そしてある日。遂にわたしは
「お母さん。もしお母さんがわたしのことを好きなら、わたしのことを一発殴ってよ」
と言ってしまいました。それを聞いた途端、お母さんははっとし、それからわたしをかわいそうな子を見つめるような目になって見つめ、ぎゅっとわたしのことを抱き寄せてきました。そこでわたしはそのことを口にし出してしまったことを強く後悔しました。お母さんにこんな表情をさせたくなんてわたしはなかったのですから。
そんなちょっとしたハプニングがあった翌日。
「ねえレモン。今日はちょっとお出かけしない? 」
お母さんは唐突にそんなことを持ち掛けてきました。昨日の今日でのこの提案だったのでわたしは少し警戒しちゃいます。
――お母さん、わたしに愛想を尽かしちゃったのかな。わたしのことをどこかに棄てるつもりなのかな……。
そう不安に思っているとそれが伝わったのでしょうか。お母さんは屈んでわたしと目の高さをあわせるとにこり、と笑い、優しくわたしの頭を撫でてくれます。
「こんなに可愛いレモンのことを棄てたりしないわよ。――今日はレモンに、もっともっとこの世界には楽しいことがある、ってことを知って欲しいの。そしてこんな風に楽しいことを共有したくなるくらい、わたしがレモンのことを愛してるんだ、ってことを知って欲しいの。昨日のレモンの言葉を聞いて、まだまだレモンを不安にさせちゃってるんだ、って気づいたから」
「ご、ごめんなさい……」
「別に謝ることじゃないのよ。だってレモンは、つい数週間前までは『暴力』でしか人の愛を感じられない境遇にいたんだもの。人の愛を勝ち取るために誰かを『壊す』ことを強いられる、生き地獄みたいな環境にいたんだもの。だからそんなレモンに、すぐに考えを改めろなんてわたしには言えない。寧ろゆっくりと、時間をかけてレモンに"本当の愛"を知ってもらう努力をしなくちゃいけないのは、お母さんであるわたしの役目なのよ」
そこまで言ってもらって、わたしの中の「お母さんに愛されてないんじゃないか」って言う不安は少しだけ晴れました
それからと言うものの、お母さんはあの手この手でわたしに"家族の愛"を教えてくれるようになりました。時間を作って出かけたりして楽しい時間を共有してくれたり、おやすみのキスをしてくれたり、毎日恥ずかしげもなく『大好き』と言ってくれたり。そこまでしてくれるってことは本当にお母さんがわたしのことを愛してくれてるんだな、って思うと、わたしは無性に嬉しくなりました。
そんなお母さんの献身があって私がお母さんに拾われてから3ヶ月たつ頃には、わたしはお母さんのことを本物のお母さんだと思えるようになっていました。もうお母さんからの愛を疑うことはない。本当の愛って言うのは暴力でも何かを求めるリターンでもなく、無償のものなんだ。愛って言うのはもっともっと、素直に受け取っていいんだ。普通に育った子供が当たり前のように知っていたそんなことを、わたしは6歳になってようやく受け入れることができたのです。
お母さんがいてくれたから、わたしは人の愛を素直に受け取れる『人』になれた。お母さんの愛が、わたしを『人』にしてくれた。そう考える度ににやけちゃいます。そしてお母さんの子であるわたしはこれからもお母さんの愛を遠慮せずに受け取っていいんだ。そう思っていました。でも。
――とことん苦しんだ人にはやっぱり幸せになって欲しい。そうじゃないとこの世界は理不尽すぎてやりきれなさすぎる。
そう、実際のこの世界はとことん理不尽で、苦しんだ人が更に苦しむようにできている。絶対に報われるハッピーエンドなんて、悲しいかな、ありえない。わたしの望んだ細やかな『永遠の家族愛』すら、この世界は叶えてくれるはずがありませんでした。
わたしがお母さんに拾われてから3ヶ月後。
「実はわたしの概念魔法【原素】ってね、とある人――お師匠様から引き継いだ力なんだ」
唐突に話を切り出したお母さんにわたしは面食らいます。そんなわたしにお構いなく、お母さんはしみじみとした調子で言葉を続けました。
「わたしはお師匠様から力も、生き様も、世界の秩序を守るっていう使命も、いろんなものを受け継いだ。それをお師匠様は、わたしが『私の力を託したい、と思えるような『弟子』に出会うその日まで』持っていてほしい、って言ってくれたんだ。その時のわたしはメロン――お師匠様のことが大好きでね。お師匠様の遺品とも言える概念魔法・生き様・理念、その全てを誰かに受け渡すことなんて考えもできなかった。お師匠様から引き継いだものは全て、わたしが息絶えるその日まで、何だったら墓場まで自分の手で持って行くつもりだった。力を託したい人・『弟子』にしたい人なんて現れるわけがない、そう思っていた」
「な、なんでそんな話をわたしにするんですか……? 」
震える声で尋ねるわたしのことを、お母さんはまっすぐ見つめてきます。
「それはもちろん、『レモンにだったら託してもいい』って今、本気でそう思っているからよ」
お母さんの目はとても、冗談を言っているようには見えませんでした。
「な、なんでレモンなんですか……? 」
「それは、レモンがわたしにとっての可愛い娘だからよ。娘に自分の力を引き継ぎたい、と思うのは珍しいことじゃないでしょ」
可愛い娘。そう言われると、わたしの中から強大な力を引きつぐことへの不安なんてすぐにどこかに消えてしまいます。
――そっか、お母さんはわたしのことを『家族』として、力を引き継ぎたいと言ってくれてるんだ。
そう思うと小躍りしたくなっちゃうくらい嬉しくなります。
「まあ今すぐってわけじゃないけれどレモンがどれだけ魔法適正が高いのかとか、引き継ぐにあたっていろいろと確かめなくちゃいけないことがあるから。だから――レモンはわたし達の【原素】を引き継いでくれる? 」
「お母さんがそう言ってくれるなら! 」
わたしはそう、大きくうなずきました。――その頷きが後にあんな結末に続いていることなんて露ほども知らずに。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
幕間では本編主人公カプではできない関係性を中心に据えて描くことが多いのですが、幻想編のテーマである関係性はずばり『家族愛』、もっと言うと母娘の関係です。今回、投稿直前の校正作業で軽く読み返してみましたが個人的には書きたいと思っていた関係性を書けたのではないかな、と思います。また、キャロの台詞は幾つか2章幕間が直接響いてくるものがありました。そういう所も含めて楽しんで読んでいただけたらいいなぁ、と思う次第です。
さて。次回は2章幕間よろしく雲行きが怪しくなってきましたが、まだまだ幻想編は続きます。とある魔女の話編とはまた違った展開を用意しているので、引き続きお付き合いいただけたら幸いです。