第62話 幻想Ⅰ 使い潰された【幻想】
今回、全編レモン視点です。レモンは8〜10歳程度の、紫髪の女の子を想定しています。
本当に幼い時の記憶なんて、わたしにはありませんでした。物心ついた時にはわたしには強力な魔法である【幻想】があり、"お父さん"はわたしに【幻想】の力を使うことを望みました。そう、この日もそうでした。
【術式定立_強制覚醒_対象選択_PKB_再現開始】
今日に入ってからもう数百回は唱えている、相手の痛覚の敏感さを無理やり引き上げ、より強い苦痛を味合わせる魔法。気絶や狂い死ぬといった、ある種の"解放"を一切許さない魔法。そんな魔法を酷使しすぎたわたしは肩で息をしていてうなじにはびっしょりと汗が浮かんでいました。そして。
「…………――――」
24時間にわたる苦役の末。遂に目の前の男は意味をなさない声を漏らしたかと思うと、泡を吹いてその場に倒れます。鈍い音、舞い上がる埃。コンクリートのひんやりとした地面にダイブした彼の体はぴく、ぴく、と小刻みに痙攣しています。とうに人間が許容できる痛覚の許容範囲を超えて痛めつけられた彼が『壊され』、廃人になったのは誰の目から見ても明らかでした。そしてそれは、人間の理に反して彼の意識をはっきりとさせたまま苦痛を与え続けたわたしのせい。わたしが目の前にいる『人間だった彼』を壊したのです。
そう思っても、わたしの心の中には罪悪感なんてものは芽生えませんでした。物心ついた時から"お父さん"に求められるまま、強力な魔法である【幻想】を振るい、人を『壊す』ことがわたしにとっての『日常』でしたから。むしろ。
「やった、やったよ! 」
そんな喜びの感情がわたしの胸にはこみ上げてきます。今日も私は頑張った。頑張って"お父さん"に歯向かう愚か者を『壊した』。お父さんの期待に応えられれば、わたしは"お父さん"から褒めてもらえる。"お父さん"から家族の愛を注いでもらえる。そう期待して、わたしはすぐ近くでわたしのことを見守っていたお父さんの方を向きます。
わたしのことを見ていたお父さんは腕組をして難しそうな表情をしていました。その瞳の奥には冷たい光が宿っていることに気付いた途端。さっきまでわたしの中にあったはずの高揚感は一瞬にして消え失せました。その冷たい目の光、それはお父さんが起こっている証拠でした。
――痛いことをされる!
そう怖くなって頭を抱えて目をぎゅっと瞑った次の瞬間。魔法を酷使しすぎてふらふらしていたわたしの下腹部に"お父さん"の強烈な膝蹴りが命中しました。思わずその場に倒れ込んじゃうわたし。そんなわたしのことを、お父さんは容赦なく蹴り続け、踏みつけてきます。
「レモン、いつまで経ったら君は"お父さん"の期待に応えてくれるのですかねぇ。今日もたった23時間15分で愚かな異教徒を『狂う』という救済に導いてしまって。主を冒涜した彼らは本来なら、もっともっと苦しんで死ななくちゃいけない。なのに、1日も経たず彼らを解放してしまうなんて、なんと嘆かわしい」
ぐちゃ、ぐちゃというわたしの内蔵が潰れる音が響き渡ります。わたしの体を痛め続ける"お父さん"に地面に這いつくばったわたしは呼吸が困難になっても
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
と謝ることしかできません。でも、そんな必死に嘆願に"お父さん"が耳を傾けてくれないこともまた、わたしにとって日常茶飯事でした。
そして。永遠かとも思われた虐待の時間は唐突に終わりを告げます。
「次の啓蒙の時間は今から5時間後です。せいぜい、次はもう少し"お父さん"の期待に応えてくださいよ」
"お父さん"は冷たい口調でそれだけ言って処刑部屋を立ち去っていきます。後に残されたのはぐったりとなって虫の息となったわたしと、廃人となって意味をなさない言葉を漏らしながら痙攣する元人間の男だけ。
どんなに頑張って、どんなに努力しても最後には"お父さん"からの"教育"が待っている。いくら頑張ってもとっても厳しい"お父さん"は愛なんてわたしに注いでくれない。それもまた、物心ついた時からの私にとっての日常茶飯事でした。でも、わたしはこんな生活から抜け出したいなんて思ったことはありませんでした。暴力を奮ってくるお父さんのことは正直怖いです。でもそれと同じくらい、わたしは既に"お父さん"に依存して、"お父さん"がいないと生きられない体になってしまっていたのです。"お父さん"がわたしに厳しくするのは愛の裏返し。むしろ何もしてくれないくらいなら蹴りつけて、殴りつけてくれた方がまだ"お父さん"に見捨てられてないんだ、愛されてるんだ、って感じられました。
――今はまだわたしが未熟なだけだから"お父さん"を怒らせちゃってばかりだけど、もっとうまくできるようになったらきっと、"お父さん"は喜んでくれる。"お父さん"は家族としての本物の愛情をくれる。
わたしはそんなことを信じて疑いませんでした。それが傍目から見たら『異常』な共依存であると思われることなんて、もちろん知りません。わたしには"お父さん"がいて、"お父さん"はわたしのことを見捨てないでいてくれる。これはごく普通の家族の在り方で、"お父さん"から見捨てられていないわたしは幸せ者。そう、信じて疑いませんでした。
そんな偽物の幸せが崩れ去るのは呆気ありませんでした。
その日の夜。まだ次の異教徒に対する拷問・処刑まで時間がある、そんな折。魔法を使いすぎて疲れ果てていたわたしがひんやりとしたコンクリートの上でぐったりとしていると。
突如、外から派手な爆発音が轟きました。続いて聞こえてくる"聖職者"達の怒声や嗚咽の声。しかしそれもまた、新たな爆発音にかき消されます。
――何が起こったんだろう。
そう思った時。いつもは冷静で瞳に冷たい光を湛えた"お父さん"が珍しく慌てた様子でわたしのいる処刑部屋に入り込んできました。わたしのことを視止めた"お父さん"は開口一番
「レモン、"お父さん"からの命令です。教会に入り込んできた異教徒の【魔女】と戦いなさい。戦って"お父さん"達を護りなさい」
戦え。聞いたことがないその命令の意味が、わたしはすぐには飲み込めませんでした。
「戦うって……むしろ"お父さん"がわたしを護ってくれるものじゃないの……」
純粋にわたしの中の"家族"のイメージから出てきてしまった疑問。それを"お父さん"はわたしが口答えしているとでも思ったのでしょうか。怒りで顔を真っ赤にした"お父さん"はわたしの胸ぐらを掴んで持ち上げ、勢いよくコンクリート造りの固い地面に、容赦なくわたしの脆い体を叩きつけます。
飛び散る自分の血液。叩きつけられた衝撃で軽い脳震盪すら起こしています。でもパニックになったらしい"お父さん"は一切容赦がありませんでした。
「戦え、戦え。その【幻想】で異教徒の魔女を殺せ! 」
"お父さん"はそう、うわ言のように言いながら、立ち上がることのできないわたしのことをメタメタに蹴りつけてきます。
――痛い、痛い! そんないきなり戦え、って言われても戦い方なんて知らないよ。
痛みに耐えかねて目をぎゅっと瞑った時でした。
いきなり壁が吹き飛ばされ、あまりの出来事にわたしを蹴り続けてきた"お父さん"の足が止まります。何が起きたの? そう思ってわたしも力を振り絞って顔を上げると、そこには燃え盛る教会をバックに立った、弓を携えた青髪の女の人がいました。そんな見知らぬ彼女のことを、わたしはつい『綺麗だな』と思って嘆息をついてしまいます。
"お父さん"に蹴りつけられ続けるわたしを視止めた途端。女の人は驚いたようにかっと目を見開き、次の瞬間、"お父さん"のことを鋭く睨みつけます。
「あなた、これはどういうことかしら」
睨みつけられた"お父さん"はライオンに睨みつけられた草食動物のように体を竦めた後。女の人から視線を逸らすようにわたしに視線を落とし、再びわたしのことを踏み始めます。
「レモン、さっさと立て、立て! 立って、あの化物と戦え! お前達化物同士でなんとかしろよぉ」
そう言われても戦い方なんて知らないし、そもそも踏みつけられたままじゃ戦うことなんてできないよぉ。そんなことを思いながらもわたしは吐血し、痛みに顔を歪めます。そんなわたしから女の人は辛そうな表情になって目を背け、そして。
「ほんと、ここの教会の連中はろくでなししかいないわね。その罪、死んで贖いなさい」
そう言ったかと思うと。女の人は"お父さん"に向かって躊躇なく弓を引きます。そして矢が命中した瞬間。お父さんの体は一瞬にして炎に包まれ、骨まで燃え尽きたお父さんの灰と、唯一燃え尽きることがなかったお父さんの勾玉のネックレスがわたしの全身に降り注ぎます。
僅か一瞬の出来事。そのたった一瞬で、わたしの"お父さん"はこの世界から完全消滅したのでした。それを認識した瞬間。
「―――――――――――――――――――――」
真夜中の教会に、わたしの絶叫が響き渡りました。