第114話 回想Ⅳ すれ違い続けた母娘の行く先 前編
今回、◇◆◇◆◇◆◇の前後でミレーヌ視点→アリエル視点に変わります。第111話の続きからです。
それから暫くして。アリスさんとケインさんは自分達のことを誰も知らない、王都から遠く離れた農村に移住した。そこでアリスさんは無事にお腹の中の子供――アリエルのことを出産した。
自分で選んだ出産だったけれど、最初、アリスさんはアリエルにどう接していいかわからなかったと言う。殆ど家族の愛を知らないままできたアリエル。それでなくとも裏切られ、徹底的に搾りつくされ、極度の人間不信に陥っていたアリスさんのことだったから、最初の頃はアリエルを見る度に何度も犯され続けた日々の記憶がフラッシュバックし、アリエルのことを殺めてしまいかけたという。それでも、時にケインさんに支えてもらいながらもアリスさんは自分のトラウマと、そしてようやくできた自分の小さな『家族』に向き合った。そしてその甲斐もあってアリエルが4歳になる頃には、アリスさんにとってアリエルはかげがえのない『娘』になっていた。
「わたしが頑張ったわけじゃないんです。アリエルちゃんがすごくいい子で、天使みたいだったから、人間不信で、ヒステリーでどうしようもなくなっていたわたしでも立ち直って、『母親』にさせてもらえたんです。そんなアリエルちゃんは大きくなるにつれてどんどん太陽みたいに元気が眩しくて、優しい子に育ってくれました。アリエルちゃんがそんな子に育ってくれたのは身の回りに優しすぎるくらいのあの人――ケインがいてくれたのもあったのかもしれませんね。とにかく、アリエルちゃんはわたしに勿体ないくらいの子に育ってくれたんです」
自分の娘のことを語る時だけはいつもどこか俯きがちなアリスさんでも慈しむような、それでいてちょっと誇らしげなように見えた。そんなアリスさんを見てると、本当にアリエルのことが好きなんだな、って言うことが伝わってくる。
「わたしにとってたった一人だけの血の繋がった『家族』。わたしの生き甲斐で、目に入れても痛くないくらいの天使。それがわたしにとってのアリエルちゃんなんです。アリエルちゃんさえ元気に生きていてくれたら他に何も要らない、それだけ可愛かったアリエルちゃんに対して、今から思うとわたしはちょっと甘すぎたんでしょうね。結局、『もっと多くの人の役に立てるようになるために王都で学びたい』なんてまっすぐな眼差しでアリエルちゃんに懇願されたら、わたしも強く反対はできませんでした。王都がどれだけ危険なところかなんて、そこでこの国の底辺を見てきたわたしは誰よりも知っていたはずなのに」
心底悔いているようにアリスさんが顔を歪める。そんな彼女に何か声をかけようとして口を開くけれど、肝心の言葉は何も出てこない。アリスさんがこの世で一番不幸だ、なんて思ってあげる気はない。あたしだってあたしなりに、これまでの18年間苦しみぬいて生きてきた。でも、アリスさんとあたしが潜り抜けてきた苦痛は種類が違う。そんな違う種類の苦しみを生きていない『赤の他人』であるあたしが掛けられる言葉は、どれも薄っぺらいものでしかなくって、口にしようとするとつい躊躇っちゃう。
今、目の前の彼女を本当の意味で救ってあげられるとしたら、やっぱりあの娘しかいない。その時。
音を立てて勢いよく扉が開け放たれ、あたしもアリスさんも思わず扉の方に視線が奪われる。そこにいたのは。
「――お母さん!」
やっぱりとうか、アリエルだった。そんなアリエルは急いでここまでやってきたのか、肩で息をしたている。そんなアリエルに付き添うように、後ろにはレムとソラ、そしておまけに魔女様まで控えていた。
「あ、アリエルちゃん、どうしてここにいるんですか……」
アリエルと顔を合わせる心の準備ができていないのか震えた声で言うアリスさん。また大事に思っている娘に拒絶されるのが怖い、そんなアリスさんの気持ちは手に取るようにわかちゃった。きっとアリスさんとあたしのアリエルに対する気持ちは同じくらい大きい。それだけアリエルのことが好きなあたしだからこそ、この世で一番好きな人に一度拒絶されたら簡単に立ち直れなくて、次のアリエルと顔を合わせる時に相当の勇気が必要なことは痛いほどわかっちゃう。
でも。
「そんなの――お母さんとちゃんと仲直りしたいからに決まってるよ!」
そうはっきり言いきったアリエルだけれど、その体は小刻みに震えているのにもまた、あたしは気づいちゃった。
アリエルの女性恐怖症はそんなに都合よく回復するものじゃない。一撃必殺の魔法を扱う女性魔術師なんて目の当たりにしたら猶更トラウマになっていることはずっとアリエルを見てきたあたしにはよくわかる。それでも。そんなトラウマを押さえつけてまで、母親と仲直りしに来たってことはアリエルの覚悟は本物だってこともまた、生まれ変わったアリエルをずっと見てきたあたしにはわかった。そんなあたしがこの母娘のためにしてあげられることは彼女の覚悟を無駄にさせないこと。
「アリスさんだけじゃない、アリエルの方だってなけなしの勇気を振り絞ってここまで来てくれたんです。だから、あなたもそれを真正面から受け止めてあげてください」
あたしがそう耳打ちした途端。アリスさんははっとし、瞳を不安に潤ませながらもゆっくりと顔を上げた。すると彼女の揺れるレモン色の瞳に、他ならない彼女の面影のある少女が映る。
ここからは、母娘2人の問題だ。部外者が立ち入っていい領域じゃ、ない。
◇◆◇◆◇◆◇
――お母さんと仲直りしなくちゃ。
いろんな人に背中を押してもらって、何より自分自身が心の底から、このままじゃ嫌だと思ってここまでやってきたものの。いざお母さんと向き合った途端、目の前のお母さんがプロムに重なって見えて、これまで平常だった心臓の鼓動がいきなり早くなって、息が苦しくなる。無理やり水の中に沈められ、酸素を求めて藻掻いて藻掻いて、浮上したいのに、藻掻けば藻掻くほど沈んでいくような感覚。と、その時。
「想像の中の彼女じゃなくて、今、目の前にいるお母様のことを見てあげないとかわいそうなのですぅ。――今のお母さんは、アリエルちゃんそっくりなのですぅ。そんな彼女のことを、本当にアリエルちゃんは怖がる必要があるのですぅ?」
レムさんの言葉でぼくは現実に引き戻される息苦しさはいつの間にか収まっていた。心臓の鼓動はまだちょっと早い。けれど、耐えられないほどじゃない。
言われるまで気づかなかった。ミレーヌ様を殺そうとした時の印象が脳裏に焼き付きすぎていて、いつの間にかぼくは、お母さんのその時々の表情なんてちゃんと見れていなかった。レムさんに言われて瞬きして、改めて目の前にいる女性をまっすぐ見つめる。そこには、檸檬色の瞳を不安げに揺らしながらもぼくに向き合おうとしてくれている、髪さえ短く切り揃えばぼくにそっくりな女性――ぼくのお母さんがいた。
――お母さんとぼくってこんなに似てたんだ。そして、怖いのはぼくだけじゃなくって、お母さんも同じなんだ。
その事実に気付いた瞬間。さっきまで確かにあったはずの恐怖心が更に薄らぐ。そうすると、続きの言葉は自分でも驚くほど滑らかに滑り出た。
「お母さん――ほんとごめんね。お母さんはぼくのことを本気で心配してくれたのに、ぼくはそんなお母さんのことを怖がって、逃げちゃった」