第108話 和解Ⅵ それぞれの家族観
体を洗い終えたぼく達3人は3人並んで湯船に浸かる。
「そういえば、アリエルちゃんはご家族と会ったんですぅ?」
丁度いい温度のお湯につかって一日の疲れで凝り固まった身体をほぐしていた時。これまで全く霊園であったことについて触れてこなかったレムさんが急にそんなことを聞いて来る。そうだ、レムさんやソラ先輩とのお風呂で忘れかけていたけれど、お母さんのことは何一つ解決していなかった。
「アリエルちゃんはご家族と、どうなりたいと思ってるのですぅ?」
レムさんのいつものつぶらな瞳で問われ、ぼくは考える。
――今はミレーヌ様に面倒ごとを押し付けて、逃げ出しちゃってるだけだ。このままじゃいけないって言うことはわかってる、わかってるけど……。
全く心の準備なんてできていない状況で出会ったお母さんはぼくの記憶にあるお母さんよりも遥かに怖かった。プロムを彷彿とさせる怒り狂ったお母さんのことを思い出しただけで体の震えが止まらなくなる。そんなぼくを見てソラ先輩が心配してぼくの肩に手を置こうとして、ふとその手を止める。ソラ先輩の気遣いは痛いほどわかるけれど、男装を完全に解いていて『女の子』であるソラ先輩に素手で肩を叩かれたり抱き締められてもぼくにとっては逆効果。そんな大切な好意も素直に受け取れない自分が自分で情けなくなる。
そんなソラ先輩はぼくを物理的に安心させる試みを諦めて、ちょっときつめな視線でレムさんのことを睨みつける。
「……そのくらいにしときなさいよ、レム。母親なんて、家族なんてどうせどうしようもないものよ。勝手に娘に欲情して、勝手に娘に嫉妬して。家族間の愛なんてこの世には存在しないの。そんなの自分から願い下げすべきなのよ」
そう言うソラ先輩の言葉には力があった。ソラ先輩は望んだわけでもない【呪詛】に振り回されたせいで家庭崩壊を引き起こし、母親に捨てられた経験があるから。そんなソラ先輩の言葉にレムさんは
「ソラ先輩はちょっと黙っていてほしいのですぅ」
と珍しく口答えする。レムさんのその言葉にぼくは正直驚いていた。だってレムさんは普段、あれだけソラ先輩のことを慕っていたから、そんなレムさんがソラ先輩に構ってほしいとかじゃなくって反論するところなんて想像もつかなかった。
「レムは家族の愛がないなんてそうは思わないのですぅ」
「……そう言っても、レムだって孤児なんだからボクとそんなに境遇は変わらないでしょ」
想定外のレムさんの反論に動揺したのを誤魔化すかのようにソラ先輩は言う。でもそれに対してもレムさんはきっぱりと首を横に振った。
「確かにレムは孤児ですぅ。血の繋がった本当の家族の顔さえ覚えてません。でも、だからこそ家族の愛に憧れ、家族の愛に飢えてるのですぅ。そして家族愛に飢えているからこそ、そんないるのが当たり前の『家族』はほんの些細なきっかけでもう二度と修復不可能になってしまうことを、取り戻そうとした時にはもう二度と取り戻せなくなることを、レムは知ってる気がするのですぅ。アリエルちゃんがソラちゃんみたいに、本当に割り切れるならレムはそれ以上言えることはありません。
でも、本当にそれでいいのですぅ? 家族のことを、お母さんのことを怖いと思ったままでいるのはきっと不健全なのですぅ。そしてそのことを後から振り返って後悔しても、その時にはもう家族とは会えなくなっているかもしれない。そんな後悔を、よりにも寄ってレムにとっては『家族』みたいに思っているアリエルちゃんにしてほしくないのですぅ」
レムさんには家族と過ごした記憶なんてないはず。なのにレムさんの『いるのが当たり前の『家族』はほんの些細なきっかけでもう二度と修復不可能になってしまう』と言う言葉は何故か実感がこもっているように感じられた。
「……」
「まあいずれにしても、最後に決めるのはアリエルちゃん自身なのですぅ。アリエルちゃんにとって女の人がトラウマで、実の母親だってその例外じゃないことくらい、レムだってわかってるつもりなのですぅ。でも、アリエルちゃんには後悔しない選択をしてほしいのですぅ。だってアリエルちゃん達はまだやり直せるところにいるのですから」
それだけ言って、レムさんは先に湯船から出ていった。
◇◇◇◇◇◇◇
翌朝まで考えても、お母さんとどう向き合うかの答えなんて出なかった。というか、1人でお母さんのことを考えようとするだけで過呼吸気味になるから、正直殆ど考えられなかったというのが本音。ともかく何も進展しないまま朝を迎え、「今日はアリエルがお屋敷で働くのは難しそうだし、レムの手伝いでもして過ごしたら。ミレーヌ様も昨日、そう言ってたし」と言ってソラ先輩は1人でお屋敷へと出勤していった。
ーーミレーヌ様やソラ先輩には申し訳ないけど、ソラ先輩の言う通りかも。
そう思ったぼくは燕尾服ではなくこれまた久しぶりのギルド受付嬢の制服に袖を通し、レムさんに言われてギルドの外で開店準備に勤しむ。と、その時。
「この地方にもラミリルド聖教の教会はないのね。聖教を信仰するかどうかは各国・各個人の自由だけれど、ここまでない神の信徒としては心に来るものがあるわ〜。あと、頼れる施設がないのは地味にきつい……って、あら」
聞き覚えのある声にぼくが振り向くと、ぼくと視線のあったシスターの笑顔がぱっと明るくなる。そう、そこにいたのはつい先週に自由都市ラインベルトで出会ったラミリルド皇国のシスター・ロックさんだった。
「アリエルじゃない。久しぶりねっ!」
「ろ、ロックさん……どうしてここに?」
「あの後、近くを通る予定があったからミレーヌの領地でも見ておこうと思って。それにしても今日のあなた、浮かない香りしてるわね。なんか嫌なことでもあった?」
「わかりますか?」
「それくらいわかるわよ。わたしは皇国法王庁の剣で、アリエル様の大ファンだけど、それ以前に迷える子羊を教え導くシスターなのだから」
優しい口調でそう言ってくれるロックさんについぼくは絆されそうになっちゃう。ロックさんの語り口にはそんな魅惑があった。これが聖職者、ってやつなのかな。そんな風に驚かされつつも
「で、でもぼく、別にラミリルド聖教の信者でもなんでもありませんよ……」
と言っちゃう。それでもロックさんはぼくの手を取って言う。
「信仰なんて関係ない。確かにアタシがシスターを目指したのはもっと邪な考えからだったわよ? でもシスターを目指してちゃんと神様の教えを学んでアタシはその教えに感化されたの。この地球上のすべての人が、人として見合った幸せを手に入れられるようにする教え、それがラミリルドの教えであり、アタシ達聖職者の一番のミッションなの。そんなささやかな幸せを手にすべきなのは別に信者だけじゃない。だから、もし良かったらアリエルの相談に乗らせてもらえないかしら。こんなガサツなシスターで良ければ、だけど」
国にまで言われたらもう我慢なんてできなかった。ぼくは堰き止めていた水を一気に押し出すように、お母さんのことについて話しちゃった。
ぼくの話を一通り聞き終えると。
「そっか、アリエルにはまだお母さんがいるんだ。ちょっと羨ましい」
ぽつり、と独り言のようにロックさんは言う。そんなロックさんが見せた一面はシスターとかの社会的な身分を脱ぎ捨てた素のロックさんのような気がした。
「あ、ごめんごめん。今のはシスターとしての仕事に関係がない、アタシ個人の感想を話しちゃったわね。反省反省」
とおちゃらけて誤魔化そうとしてくるロックさん。でも、一度言いかけられると気になってくるもので。
「ロックさんとお母さんの話、もし良ければ聞かせでもらえませんか? その、な、何かの参考になるかもしれないので!」
ずるいなぁ、と思いながらもねだって見ると、ロックさんは「あんまり楽しい話じゃないよ」と前置きしてから話し出してくれた。
「……今のアリエルの話に引き付けて言うなら、アタシの母親もものすごい武力を持つ人だったんだよね。それはもう、人には過ぎた力を生まれもっちゃった人だった。そのせいでお母さんは殺されちゃって、アタシだって死にかけた。でも、今でもアタシは力を持った、持ってしまったお母さんのことを責めたいとは思わない。今でも会えるならお母さんに会って話したいことがたくさんある。あはははは、人に過ぎた力を持ったお母さんにまた会えるなら会いたいなんて、立場上、絶対シスター仲間には言えないわ。だから、この話はここだけの秘密ね」
そう言ってロックさんは芝居がかった調子で口元に人差し指を添える。
「でも……アタシは概念魔法をこの世にあってはいけないものだと考えるようになった今でも、お母さんのことを敵としてみたり、ましてやお母さんのことを『怖い』と思うことはできないんだと思う。生前、お母さんがアタシを守るために「力』を振るってくれたのは知ってるから。その力には親としての優しさが乗っていたことをアタシは知ってるから。それはアリエルのお母さんだってそうなんじゃないのかな?」
「……理屈ではわかります。わかりますけど……やっぱりぼくは、自分のためにぼくが過去にされたことを誰かにされるのは怖いです」
「そっか。なら、今はそれでいい。でも、お母さんが誰かに殺されたりする前にちゃんと向き合っておきなさいよ。そうじゃないとあなたはきっと後悔する。そんな気がする。だから、せいぜい頑張りなさいよ」
そこまで言うと、ロックさんはギルドに入ることなく去っていった。