【百合の日特別編 白】 番外Ⅱ あめのひ
*本作は初投稿時に第91話の後(5章の真ん中)に入れていた同名のエピソードを幕間に異動させたものです。内容は一切変わらないのでご了承ください。
◇◆◇◆◇◆◇の前後でミレーヌ視点→アリエル視点に切り替わる、単話完結のショートショートです。少しでも楽しんでいただけるものになっていれば幸いです。
「やっちゃったわね……」
しとしとと降り注ぐ雨を見つめながら、あたしは小さくそう呟いた。
6月、それはランベンドルト辺境伯領でも最も雨の多い季節。こんな月に出かけるなら行き帰りの馬車を押さえておくか、最低でも傘を持参することは必須なはずだった。でもその日は朝から快晴で「今日なら傘無しでも行けるでしょう」と思って歩きで視察に繰り出してきたのが運の尽きだった。
視察先の店主さんや従業員と話しているうちに晴れ渡っていた空はだんだんと曇って行き、そして間も無く雨が降りはじめた。視察を終えた後。店の人は優しいからわたし達を馬車で屋敷まで送ろうかと言ってくれた。でもそれは流石に忍びなかったのであたし達は1時間に1本しかない乗り合い馬車で帰ることにしたのだった。
今、小さな木造の乗り合い馬車待合室にはあたしとお供でついてきたアリエルの2人きりしかいない。こんな雨の日に馬車を使ってまで出かけようとする人もいないと言うことだろう。ひっそりとした小屋の中。聞こえてくるのは屋根に落ちる雨の小気味のいい音だけだった。
不意に隣から若干の重みと、それから温もりが伝わってくる。横を振り向くと、いつの間にか眠ってしまったらしいアリエルがあたしに寄りかかって、微かな寝息を立てていた。
――あたしの彼女は今日もかわいいね。
そう思ってアリエルの柔らかそうなほっぺたを少し弄ってみると、ぷくっとした弾力があった。普段はなかなか寝顔なんて見せてくれないし、当然こんな風に彼女の寝顔をいじるなんていうことはさせてくれないから、雨で帰れなくなっちゃったのは怪我の功名、ってやつかな。こんな風に平日の昼間に2人きりでいちゃつくなんてあんまりできないし……。
そこであたしは改めて気づく。そう、今あたしはアリエルと2人きり。外は雨でおそらく誰もやって来ない。だったら人目を気にせず、もうちょっと恋人らしいことをしてもいいんじゃない?
ごくり、と唾を飲み込む。アリエルの同意なしで何かするなんて。そう、あたしの理性が警告を鳴らしている。それでも、あたしは欲望に飲まれてアリエルの形の良い唇に自分の唇を近づけ、そして――。
「いい雰囲気のところごめんなさい。傘持って来たんで、ここに置いときますね」
不意に入り口から声がしてあたしは飛び上がりそうになる。振り向くとそこには、赤色の傘をさした水色髪の執事――ソラが空いている方の手でもう1本の黄色い傘を持って立っていた。
「あ、ありがと……でも、迎えに来てくれるなら馬車とかでもよかったんじゃない? 」
いいところを邪魔された恨みもあってちょっと棘がある声で言っちゃうあたし。でもソラは涼しい顔をしたままであたしの文句なんてどこ吹く風、と言った様子だった。
「ご主人様は絶対自分で歩きたがるでしょう? 自分の足で歩いて自分の目で領地を見たがる方だって言うことくらい知ってますから、馬車なんてそんな無粋なことはしませんって」
「それにしては傘が1本しかないみたいだけど? 」
「それは……せっかくの梅雨の時期なんだし、2人で1本の傘に入るとか、そういう恋人っぽいシチュエーションも体験しておきたいでしょう? 」
わざわざ言わせないでくださいよ、とでも言いたげな表情で言うソラ。と、その時。
「うーん」
アリエルが声を漏らす。そろそろアリエルが起きそう。
「じゃ、ボクは一足先に帰りますんで。二人きりで帰るのを邪魔したくなかったからさっきも割り込んだんですし。あと――誰にも邪魔されないでキスしたいなら、間違ってもへんな気回した従者が忘れ物を届けに来たりしない時にするべきですね」
そう言ってソラはアリエルが目覚めるよりも一足先に傘を開いて雨の中に繰り出す。そんなソラを見てるとわたしはまた、小さくため息をついちゃう。なんだかんだ言ってソラは本当によくできた、あたしには勿体無いくらいの執事だと思う。あたしがアリエルとお付き合いすること自体、本当は複雑なはずなのに、こんなふうに全力で応援してくれる。そんなソラに対してあたしができることは……。
「ううーん。あれ、ここは……ってぼく、眠っちゃってました!? 」
寝起きでまだまどろんでいるアリエルにあたしは柔らかく微笑みかけて言う。
「おはよう、アリエル。アリエルが寝ている間に水色の妖精さんが傘を届けてくれたのよ」
あたしの言葉にアリエルはぽかんとしていたけれどそれ以上はあたしは何も言わなかった。
ソラのためにあたしができること。それは、ようやく咲きかけたこの百合の花を大切に大切に、アリエルと一緒に2人で育てていって幸せになることなんだろうな。そんなことをふと思った。
◇◆◇◆◇◆◇
今から半年前、わたしがまだ勇者パーティーのメンバーだった頃の話。
その日。傘を差して街を歩いているとわたしは見覚えのある少女が軒下で途方に暮れているのを見かける。
「チェリーちゃん、だよね? 」
「うわあああっ! って、アリエルちゃん!? 」
わたしが話しかけると彼女――チェリーちゃんは派手に驚く。
「ご、ごめん。いきなり話しかけて驚いちゃったよね」
「い、いや、それは別に……」
「って、服、めっちゃ濡れてるじゃん。そんなんだと風邪ひいちゃうよ? 」
そこで慌ててわたしは自分の上着を脱いでチェリーちゃんにかけてあげる。チェリーちゃんは少し戸惑っていたけれど、小さく「ありがとう」って言って受け入れてくれた。
「なんでこんなに濡れて……って、あー、傘忘れちゃったんだね」
「あ、えっと、うん」
わたしの指摘にチェリーちゃんは恥ずかしそうに目を伏せる。
「じゃあ、もし良かったらわたしの傘に入っていく? 」
「ほえっ? 」
何気ないわたしの提案にチェリーちゃんは可愛らしい声をあげる。
「……って、狭い傘の中に2人で入るなんてイヤだよね。ちょっと待って、今傘をもう一本買ってくるから」
そう言ってわたしが雨の中に走り出そうとしたけれど、わたしはチェリーちゃんに服の裾をちょこん、と摘ままれてその場から動けなかった。
「そこまでしなくていいよ。と、いうか、寧ろアリエルちゃんと一緒の傘に入りたいって言うか……」
らしくもなくもじもじしながら言うチェリーちゃん。そんなチェリーちゃんに対してわたしは、『狭い傘の中で一緒に帰りたいだなんて、チェリーちゃんは変わったことを言う女の子だなぁ』程度にしか思っていなかった。
「じゃあ、一緒に入って帰ろうか」
わたしのその提案に、チェリーちゃんの表情はちょっと早い向日葵みたいにぱっと明るくなった。
◇◇◇◇◇◇◇
あれから半年が経った今。
『わたし』だった自分は『ぼく』となり、一本の傘の下で肩を寄せ合っているのはあの時の『仲間』から『彼女』に変わった。あの時は思い至りすらしなかったけれど、今から思うとあの時のチェリーちゃんは『わたし』との相合傘にドキドキしちゃっていたんじゃないかな、なんて思う。他ならない、今のぼくがそうだから。そう思うと、なんだかその時もぼくはチェリーちゃんに酷いことをしちゃってたんだな。
思い返すとそう言うことばっかり。ぼくが鈍感なせいでずっとチェリーちゃんを困らせちゃった。そう思うと、何気なくした自分の罪深さに、頬を一筋の涙が濡らしちゃう。と、その時。不意に傘を支えているぼくの手にミレーヌ様がそっと手を添えてくる。
「み、ミレーヌ様!? 」
いきなりのことに心臓の鼓動が跳ね上がる。そんなぼくに対してミレーヌ様は照れ隠しのように目を伏せながら言う。
「べ、別にいいでしょ。あたし達ってもう彼女同士なんだし、今は雨なんだから、誰も見てないわよ。それに……なんだか今のアリエルは何かを思い悩んでいるように見えたから、こうしてあげたくなっちゃったの」
触れた手からミレーヌ様の温もりを感じる。
――ああ、やっぱりぼくの彼女は目ざといなぁ。ぼくが支えてほしい時に、ちゃんと支えてくれる。
そう思うと、ぼくの口からは自然と言葉が滑り出ていた。
「……ぼく、前にその人が自分のことを好きだなんて知らなくって、相合傘に誘っちゃったことがあるんです」
「うんうん」
相槌を打ちながら真剣に聞いてくれるミレーヌ様。
「その時はその人のことを友達だと思ってたし、女の子同士の相合傘でドキドキするなんて思ってませんでした。でも今、こうして好きな人と一緒の傘を差していて気付いたんです。その時の『わたし』はその子に勘違いさせちゃったんじゃないかな、ってその時の『わたし』はその子の気持ちを知らず知らずの間に弄んじゃってたんじゃないか、って。そう思うと申し訳ない気持ちでいっぱいになっちゃって」
ぼくがそこまで話し終えると。ミレーヌ様はそっとぼくの頭を撫でてくる。
「そっか。やっぱりアリエルは優しい女の子だね」
「えっ? 」
思いもよらないミレーヌ様の言葉にぼくはつい聞き返しちゃう。でもミレーヌ様はぼくの頭を優しく撫でつけながら続ける。
「普通ならそこまで勝手に好きになってきた人のことなんて責任持てないよ。しっかりと口にしていない好意に気付け、なんてわがままもいいところ。だから――あたしはちゃんと言葉にするね」
次の瞬間。いきなりミレーヌ様がぼくに抱き着いてきてぼくは手に持っていた傘を落としちゃう。
「あたしは、アリエルのことが好き。だから今のあたし、好きな人と同じ傘の中に入れて、すっごくドキドキしてる。アリエルと、大好きな人と相合傘できることがこんなに甘美なことなんて、生まれて初めて気づいた。だから、これからも雨の時はこうしてね」
何の臆面もなく『好き』と言い切ってくれるミレーヌ様に、ぼくの後悔は簡単に洗い流される。そして改めて確信する。あー、ぼくはやっぱり目の前にいるこの人が、ぼくをいつも導いてくれる彼女のことが大好きなんだ、って。
頬に更に幾筋もの何かが伝う。それがうれし涙なのか雨なのか、ぼくにはよくわからなかった。