風の向こう
草原。
いつの間にか、風は止んでいた。
「そっちに行ったぞ、バナレン!」
凛とした少女の声が響く。
弓を携えた、勇ましい表情の少女が指差す先。
そちらの方向から、激しく音を立てて草を踏み散らしながら、屈強な蜥蜴人の戦士が走ってきた。
鈍重そうな体格からは想像もつかない速さだった。
戦士の行く手に立ちふさがったのは、一人の少年。
「分かってるよ、ネーザ!」
先ほど声を上げた少女に乱暴に叫び返す少年は、勝気な目で蜥蜴人を睨み、長い剣を構えていた。
「来い、俺が相手だ!」
その声に呼応したように、蜥蜴人の戦士は持っていた手斧を無造作に振り上げた。
速度をまるで落とすことなく駆け寄りながら、少年の頭目がけて手斧を振り下ろす。
体重を乗せた一撃。
鋭い金属音とともに、剣で受け止めた少年が、「いってえ!」と叫び声をあげた。
強烈な一撃に手が痺れたのだろう。だが、まるで体格の違う相手の、それも勢いを乗せた攻撃を、少年はまともに受け止めてみせた。
蜥蜴人の戦士は表情の分かりづらい顔を、それでも一瞬意外そうに歪めたが、そのまま身体をぶつけるようにして少年の脇を駆け抜ける。
とっさに巨体をかわした少年の腹を、一拍遅れて襲ってきた蜥蜴人の尻尾がしたたかに打った。
「ぐっ」
苦しそうに顔を歪めて、少年が草原に転がる。
「バナレン!」
少女が叫んだ。そこに、黒いローブの小柄な少年が駆け寄る。
「言わんこっちゃない」
鼻筋にしわを寄せてそう言うと、ローブの少年はバナレンを助け起こすでもなく、走り去ろうとする蜥蜴人の背中に向けて杖を振るった。
蜥蜴人の目の前で草が渦を巻くように伸びて立ち上がり、高い緑の壁を作った。
行く手を塞がれた蜥蜴人は手斧を振るって草を切り裂くが、緑の壁はそれ以上の速度で厚みを増していく。
「捕まえるときは、こうやるんだよ」
得意げにバナレンを見下ろした魔術師の少年に、バナレンは何か言い返そうとしたが、前を見て顔色を変えた。
「ばか、ファルード!」
「ばかだと?」
ファルードと呼ばれたローブの少年もバナレンの指さした方に目を戻す。
「なっ」
ファルードも驚愕の表情で絶句した。
草の壁を突破することを諦めた蜥蜴人が、また猛然と自分たちの方に駆け戻ってきていたからだ。
「ファルード、どけ」
素早く立ち上がったバナレンが、剣を構えて叫ぶ。
「踏み潰されるぞ」
「うわわ」
ファルードは慌てて蜥蜴人の突進から逃れようと、転がるようにバナレンから離れた。
だが、その無様な姿に、与しやすしと判断されたのだろう。蜥蜴人は不意に方向を変え、ファルードに向かって突進してきた。
「どうしてこっちに来るんだよ!」
絶望的な表情でファルードが叫ぶ。
「ちっ」
バナレンは剣を振り上げて蜥蜴人に向かって声を張り上げた。
「おい、逃げる気か。相手はこっちだ!」
だが無論、そんな言葉に反応する蜥蜴人ではなかった。そのまま速度を落とすことなく、手斧を構えてファルードに迫る。
「うわあ!」
ファルードが自分を守るように杖を身体の前に突き出す。
「ばか、そんなんじゃ」
バナレンが遅ればせながらそちらに駆け寄るが、到底間に合うタイミングではなかった。
蜥蜴人の巨体がファルードの小柄な体の目前まで迫った、その瞬間。
突如飛来した矢を、蜥蜴人は手斧で叩き落とした。
立て続けに襲ってきた二の矢、三の矢を煩そうに叩き落とす。
「早く離れろ、ファルード!」
弓を構えたままでそう言って駆け寄ってきたのは、最初に声を上げた少女だった。
「助かったぜ、ネーザ」
ファルードは杖を蜥蜴人に向けながら、距離を取る。
弓を構えたネーザと、剣を構えたバナレン、杖を構えたファルード。
三人に囲まれた蜥蜴人の戦士は、ようやく足を止めて低く唸った。
「観念しなさい。“裂創”のギルガム」
ネーザが矢の狙いをぴたりと蜥蜴人の頭部につけたまま、言う。
「私たちはあなたを捕らえる。命までは奪わないわ」
その言葉に、蜥蜴人の賞金首“裂創”のギルガムは、喉を鳴らした。
表情に変化はないが、どうやら、笑ったようだった。
「同じだろウ」
ざらついた蜥蜴人訛りで、ギルガムは言った。
「捕まれバ、結局は首を斬られル」
「それは、私たちが決めることではないわ」
ネーザは答える。
「私たちはあなたを捕らえるだけ。けれど、あなたが抵抗を続けるのなら、命を奪うこともやむを得ない」
その声は、あくまでも冷静だった。
「だって、あなたはそれだけのことをしたのだから」
「ふん、人間の勝手な理屈デ」
ギルガムは鼻息を吹いた。その勢いに、足元の草が揺れる。
「所詮、殺し合う関係なのダ、我らと人間ハ」
「降伏しろ」
ネーザは鋭い声を発した。
「勝ち目はないぞ、ギルガム」
「降伏だト」
ギルガムの目がぎょろりと動いて殺気を孕んだ。あだ名の由来となった、右の頬に走る古傷がぐにゃりと歪む。
「誰にものを言っていル」
ギルガムが大きく踏み込むのと、バナレンが剣を突き出すのは同時だった。
手斧を一閃してバナレンの剣を弾くと、ギルガムはネーザに向かって突っこんだ。
剣を持ったうるさい小僧と、奇妙な魔法を使う小さい小僧。そのどちらよりも、弓を構えた小娘の方が弱そうに見えた。
ネーザの弓から放たれた矢がギルガムの肩に突き刺さったが、その程度でギルガムは止まらない。
「ネーザ!」
バナレンが叫ぶ。
ネーザはとっさに弓を捨て、腰の剣を抜き放った。
簡素な彼らの服装とは不釣り合いな、精緻な細工の施された細身の剣だった。
その磨かれた刀身が、ギルガムの手斧と交差する。
と、手斧がネーザの刀身の上できしむような音を立てて滑った。
ネーザが身体をさばきながらギルガムの斬撃を受け流したのだ。
ギルガムは体勢を崩してたたらを踏む。
「小癪ナ」
吐き捨ててネーザに向き直ったギルガムに、脇からバナレンの剣が突き出された。
それをまた手斧で弾き返そうとしたギルガムは、先ほどまでとはまるで違うその突きの重さに目を見開いた。
剣は、ギルガムの肩口にぶすりと突き刺さる。
「てめえ、ネーザに触るんじゃねえ」
バナレンが殺気のこもった眼をギルガムに向けた。
「相手は俺だって言ってんだろうが」
「小賢しイ」
ギルガムは手斧を一閃する。バナレンは素早く剣を抜いて間合いを取った。
肩からのわずかな出血。
だが、強固な鱗を持つ蜥蜴人にとっては、矢の傷も剣の傷も致命傷とは程遠かった。
まるで効いていないかのように手斧を、ぐい、と振り上げる。
その時だった。
ギルガムの顔の直近で、熱が渦を巻いた。
とっさに顔を伏せるが間に合わなかった。魔術師の放った炎に焼かれ、ギルガムは唸り声を上げた。
「おのレ」
ギルガムは怒りの声を上げて、一番近くにいたバナレンに突っ込むと、力任せに手斧を叩きつけた。
だが、再び激しい金属音。バナレンの剣がその攻撃をしっかりと受け止める。
この小僧の、どこにそんな力が。
ギルガムがそう考えた時には、ネーザが細身の剣を振り上げて飛びかかってきていた。
「私が斬る」
切れ長の美しい目を吊り上げてネーザが叫ぶ。
その細腕で、俺を斬るだと。
ギルガムはバナレンの腹を蹴り飛ばすとネーザに向き直った。
ネーザの剣はもうそこまで迫っていた。
一撃は、受けてやる。だが、次の瞬間に、首を斬り飛ばす。
それは、強固な鱗に守られた蜥蜴人ならではの戦法だった。
ネーザの剣が、ギルガムの肩に食い込む。
鱗に阻まれ、剣はそこで止まるはずだった。
だが、細身の剣は易々と鱗を切り裂いた。
鱗だけではない。まるで、泥か何かのように己の身体が切り裂かれていく。
自分の青い血が噴き上がるのを、ギルガムは信じられない思いで眺めた。
「ばかナ」
美しい装飾の施された、まるで実戦用とは思えない細身の剣。
厳しい目でギルガムを見すえた少女が、もう一度その剣を振り上げる。
それが、一人で人間の村を三つも潰し、多くの村人の命を奪った蜥蜴人の戦士“裂創”のギルガムが最期に見た光景だった。
「結局、殺すしかなかったな」
バナレンがギルガムの死体を見下ろして、ぼやくように言った。
「くそ。強かった」
そう言って、蹴られた自分の腹をさする。
「いてえ」
「仕方ないだろ」
ファルードが肩をすくめた。
「異種族同士、どうせ分かり合える関係じゃないんだ。最初から命を取るつもりでやればよかったのさ。そうすれば逃げられそうになることもなかった」
「必要な手続きだ」
ギルガムの死体の脇に屈みこんでいたネーザが、顔を上げてそう言った。
その整った顔が、青ざめていた。
「私たちはただの賞金稼ぎじゃない。筋は通す」
その言葉に、ファルードは目を逸らして肩をすくめる。
草原に、風が戻り始めていた。
「街へ戻ろう。衛兵隊を呼んで、確認してもらわないと」
そう言って立ち上がったネーザが、ふらりとよろけた。
「ほら、無理すっから」
バナレンがその肩を支える。
「少し休んでから帰ろうぜ。ギルガムの死体は逃げやしねえよ」
「すまない、バナレン」
ネーザはバナレンに身体を預けて手で口を押さえる。
「だめだな、私は。こんなことでは」
そう言って、腰の剣に手を触れた。
「ギルガムを討てたのも、この剣の力を知られていなかったからだ。それでも、このざまだ」
その口調に悔しさがにじむ。
「自分の国を取り戻すことなんて、とても」
「荒くれ者の蜥蜴人を殺すために無理したことと、お前の国を裏切者の手から取り戻すこととは何の関係もねえよ」
ネーザの言葉を遮るように、バナレンがぶっきらぼうに言った。
「俺たちは旅の資金を稼ぐためにこいつを討った。それだけだ」
バナレンはネーザを支える腕に力を込めて、ギルガムの死体から彼女を引き離す。
「苦戦したのは確かだが、それ以上でもそれ以下でもねえ。お前の国を取り返すのは、これからの話だ」
「ああ。バナレンの言う通りだ」
ネーザは頷いて、草の上に腰を下ろした。
「だが、どうしても、自分が強くなっている実感がないんだ。全部、この剣のおかげだという気がして」
「強くなってるよ、お前は」
バナレンはその傍らにしゃがみこむと、語気を和らげた。
「威嚇の矢もよかったし、最後に飛び込んできてくれたのだって、最高のタイミングだった」
ネーザが救われたような顔でバナレンを見ると、ファルードがバナレンの後ろで白けた声を上げた。
「まあ、それでももっと強くなってもらうに越したことはないけどね」
顔を上げた二人を見て、ファルードは肩をすくめる。
「ネーザも見ただろ、バナレンだけじゃ、あの体たらくだからさ。おちおち魔法も使えないよ。ネーザがしっかりしてくれないと困るんだよね」
「お前が言うんじゃねえよ」
バナレンが顔をしかめる。
「魔法を使った後で、思い切り油断しやがって」
「ああ。いい風が吹いているな」
聞こえないふりをしたファルードは、澄ました顔で自分もネーザの隣に腰を下ろした。
「僕らは近付いてるよ、ネーザ」
ファルードはそう言ってネーザの顔を見る。
「小さな一歩だけど。君と、僕たちの夢に」
「ありがとう、ファルード」
ネーザは微笑んだ。その髪が、汗に濡れた頬から離れ、風にそよぐ。
「そう願うよ、私も」
草原の草が、音を立てて揺れた。
三人は、風の吹いてくる先を無言で見つめる。
目指すまだ見ぬ敵は、その遥か向こうにいるように思えた。
「この風がどんなに強くなったとしても」
ネーザが呟いた。
「たどり着く。そこまで、必ず」