自分を好きに
自分がどのように生まれ、どのように育ったにせよ、今の自分を作っているのは過去の自分とその自分に関わってきた人々やものである。
自分は今の自分を嘆いてはいけない。いや、正確には誇るとはいかなくても貶すものではないのだ。
生まれつきの才能の差、体質、病気、環境などなど。それら全てがいまの自分を作っている。
それらがあったからこそ、今の自分とこれからの自分がある。
だから、過去の自分を嘆いてはいけない。
間違っていたのならば反省をする。そして、改善して、また反省して死ぬまでその繰り返し。
けれど、それを過去のせいにして、今の自分を少しで認めないで変えようとするのは今までの自分や関わってきた人、物に対する侮辱だ。それは自分が生まれる前であっても変わらない。
ある一例をあげる。
もし、自分がいじめられたことがあったとしよう。
いじめられたら、先ず理解するのは痛みだ。悲しみだ。
また、理不尽な周りに対する憎しみや嘆きを抱くだろう。
そして、最後には諦念による生き様だけが残る。
だけどだ。だけどだよ。
その自分は必ず弱さを知っているのだ。弱さによって味わう理不尽を知っているのだ。
だから、必ずその知識、経験による思考が伴うのだ。本人の意思、気持ち、心理的状態に関わらず。
だから、行動になるのだ。思考をし、それを積み重ねれば行動になる。必ず行動になる。
故にそれは生き様になる。自らの糧となる。
要は使いようだ。活かし方だ。
それをただ諦念による惰性で終わらせるのか、自らの武器として揮うのか。
膏薬と言葉はどこにでもくっつく。物はいいようだ。それは有為な言葉だ。
屁理屈は、どんな経験でも自分の誇りになるという考えが作り出す理屈だ。
だから、そこには泥臭さが混じる。卑屈さが混じるのだ。
何故なら、それはどう足掻いても屁理屈でしかなく、正論ではないからだ。
しかし、だけれども、だからこそ、そこには人らしさがある。自分がある。
考えて、考えて、考えて、自分を作り出そうと、過去の自分を糧にしようと「努力」という言葉では表せない意地汚い積み重ねが自分を作るのだ。
大抵、自分の信条なんぞ他人に理解できるものではない。言葉だけ見れば理解したと思ってしまうが、そこには実感が伴っていない。本人しかわからない経験と思考によって生み出されたものなのだ。
だから、自分にたいして誇りをもつのだ。今までの自分が生み出したものだと、自信を持って示すのだ。
他者は今までの自分がどのような経験をし、どのような思考をしてきたか理解できない。だから、批判する。否定する。ボロクソ言いまくる。
しかし、それ故に、誇ればいい。他者には理解できない経験と思考を過去の自分が、今の自分がしてきたいたのだという証なのだから。
結論。今の自分を嫌いにならないでください。一つでもいいから好きなところを見つけて褒めてあげてください。
どうでしたか。
少しでも何かになったら嬉しいです。