奴隷ちゃんが頑張って泣いちゃうの巻。
そうして愚者が一つも喜んでも居ない歓声の中、満足気に先程私が出てきた屋敷へと歩を進めて行くのを後ろから見つめています。
この不条理な暴力の塊が、真っ先に狙った先は私の生家でした。
あの暖かな思い出の詰まった私達の屋敷は、この街で一番立派な建物ですから、ご主人様は当然のように狙うだろうと考えてましたし、私だって覚悟はしていました。
ですが、これから起こる惨劇で変わり果てるであろう姿を想像すると、私の全身を言い様のない寒気が支配して、恐怖と絶望で少しだけ体が震えてしまいますが、それをご主人様悟られてはいけないと、私は母から受け継いだ表情筋を酷使して誤魔化します。
それなのに決めたはずの覚悟は屋敷に近づくほどに重くなり、心の中に無罪の罪で処刑台に吊るされる様に酷く物悲しい虚しさが、冬の雪のように静かに折り重なっていきます。
そんな私の気持ちに気が付いたのでしょう、沿道に居た乳母のマルガレーテは膝から崩れ落ち、私の抱える悲しみを堪え切れないとばかりに、もう二度と家族の為に泣くことの許されない私の代わりに、大きな声で泣きだしました。
「ああっ!なんて傷ましくて悲しいのでしょう、老い先短いこの老婆が浅ましく生き残り、若い人があのような目に……」
マルガレーテはご主人様にわからぬよう、私にだけ分かるように嘆いた声は、他の民の歓喜のように聞こえる声に掻き消されますが、一人嘆き悲しむその姿は目立ってしまったようで、私の前を歩く背中が立ち止まってしまいました。
「今日は俺様が街を開放するいい日なのに、なんであのババア泣いてるんだ?ああ言うの、めっちゃ萎えるからマジでやめろよな……」
愛しい私の乳母は人型の災厄に目を付けられてしまったと、はっきりと分かる言葉が苛立ちとともに、ご主人様の口から呟かれます。
このままじゃマルガレーテが殺されてしまう、どうにかしないといけないと考える私の頭は、全く答が導き出せず、考える程に思考は千々に乱れ、混乱の度を増してゆき、私は一向に答えを導き出せずに焦ってゆきます。
そんな私の目の前で、人の形を模した不条理が、少しづつ彼女の側に近づいていくの止めることが出来ずにいると、ご主人様はマルガレーテに苛立ちをぶつけてゆきます。
「おい、そこのきったねーババァ、なんでこんなめでたい日に泣いているんだよ?貴族の『アッセー』から『テンセイシャ』の俺が開放してやったんだぞ?どうして喜ばないんだ?」
事実と乖離した発言を聞いて、周囲の民は直ぐに小太りの男が吐き出した言葉で静まり返り、剥き出しの殺意を向けられたマルガレーテは、濃厚な死の気配に歯の根が合わないのでしょう、ご主人様の言葉に対し何も言えずに固まってしまいます。
「チッ、この糞がっ、なんにも言わねーんならもういいわ。お前みたいなのは俺は一番ウザいって感じるからもう消えちまえよ……」
年老いた老婆に対して投げかけられた言葉、ご主人様の余りに身勝手で理不尽な言い分を聞いて義憤にかられてたのでしょう、一人の私より幼い少年がご主人様向かって石を投げます。
「おばあちゃんを虐めるなっ、お前がそんなに立派っだって言うんなら、俺のとうちゃんを返せテンセイシャ!」
いけないわっ、石を投げるなんて明確な敵対行為をしたら、この子は絶対に殺される!
そう思った私の身体は自然と動き、ご主人様と少年の間に割って入って、投げられた石を頭に受けてしまい、私の額から一筋の血が流れ出します。
「ご主人様を傷付ける事、私は絶対に許しません! 石を投げるなら私が盾になります!」
これがご主人様への敵対行為なのならば、私が石を受ければいい。
この身は既に地獄の業火で焼かれることを覚悟しているから、これ以上の流血は貴族だけで十分だと、私やその家族だけでいいと、少年に思いを視線に込めて語りかけます。
「ご主人様は新しい生活を作ってくれて、みんなは新しい国で幸せになるんです、だからもう、これ以上は争っちゃいけないんです、どうしてそれが分からないんですか!」
だから今は耐え難い苦痛を耐えて欲しい、きっと私がなんとか皆の思いを叶えるからと、彼に向かって、民に向かって語りかけます。
「本当に悪いのは、皆さんにこんな悲しい思いをさせる貴族です、決してご主人様ではありません! 皆さんはもう、貴族の支配から離れて変わらなきゃいけないんです!」
石の当たった頭が痛くて視界が滲む、でも胸はもっと痛くて視界がもっと滲む、どうしてこんな事を愛する人を失った少年に言わなくちゃいけないのかと、胸が痛くて仕方がなくて余計に辛く感じます。
でもこう言わないと、ご主人様は納得しないだろうし、私の姿を見た皆も、昨日私達が語った話を思い出してくれる、そう信じて私は声を精一杯張り上げてここに居る皆に語りかけます。
「もうこれ以上、血を流すのは止めましょう? だってどんなに血を流しても、失った命は帰ってこないし、ご主人様はきっと素晴らしい未来を私達に見せてくれるはずですから……」
私が復讐の決意を瞳に宿して叫んだ言葉は、どうやら民の心に届いたらしく、彼らは感動したように大きな声を上げて万歳をしてくれた。
「テンセイシャ様ばんざーい!」「新しい世界ばんざーい!」「異世界の救世主ばんざーい!」
そうして路端から鳴り響いた万歳の唱和は、我が家で長年勤めてくれていた奴隷たち、彼らは不甲斐ない私を見つめ、質素ながらも穏やかだった屋敷の暮らしを喪う悲しみに、必死になって堪えながら、それでも私のために精一杯の作り笑いで喉が枯れそうな程に声を上げてくれたおかげで、先程までの毒気が抜けたのか、少し呆れたような顔をして小太りのだらしない身体が、へたり込んでしまった私の元に近づいてきます。
「おい、大丈夫か?今から治してやるからな、ヒール!」
ご主人様がそう言うと、私の額の怪我はまるで最初から無かったように消えてしまいますが、この胸に刻まれた痛みは消えることがありません。
ですが、冬の天気を思わせる気まぐれな愚者の前で、マルガレーテの様に不興を買っては不味いので、私は急いで涙を拭いてしまいます。
「ごめんなさい……、私ってば、街の皆にご主人様を否定されたと思って、つい気持ちが高ぶっちゃって……。でも私もあのお婆さんみたいに泣いちゃいましたから、ご主人様は嫌になっちゃいますか……?」
ご主人様がマルガレーテや、あの少年にこれ以上の無体を働かぬように、私は自分を引き合いに出して、精一杯の媚を売りながら訴えてゆきます。
少なくともこの醜い男が喜ぶ発言を心掛け、自らはご主人様の真の理解者であるフリをして、上手く手綱を握らなければならないのですから、この程度の苦境などはこれから何度も起こるでしょうし、耐え切れない程の絶望に、これからも私は何度も涙を流してしまうでしょう。
だから、今ここで泣き虫であると、ご主人様楔を打ち込んでしまうのは、どうしても必要な事だと思いますし、自分の好ましい相手が泣くのであれば、殿方はそれを愛らしいと感じてくれるはずでしょう。
私がそう思い、上目使いで瞳を潤ませながら発した言葉は、上手くこの厄災の保護欲と支配欲を刺激したようで、再びその獣臭い腕の中に閉じ込められてしまいます。
「ばっか、そんなことねーよ、俺さ、この世界に来て初めて自分のことを分かってくれる人に出会ったて思った。やっぱり神様ってさ……、俺みたいな苦労した人間のこと、きちんと見てくれるもんだなって改めて感じたよ……」
そんな心から理解できない言葉を聞きながら、私はそのぶよぶよして気持ち悪い身体を抱きしめ返します。
「はい!私はっ、メリーは貴方と出会うために、ご主人様の為に生まれてきたんです! だから絶対に絶対に放さないでくださいね?」
私が今、ご主人様に言った言葉には、何一つ嘘は混ざっていません。
なにも出来なかった貴族の末娘のメアリーは、もうこの世に存在しません、彼女はこの恐ろしい人型の悪夢を滅ぼすため、自らを慈しんで育ててくれた民のため、身体と心、その魂すらもメリーという存在を作るため、全てを贄として捧げて死にました。
今ご主人様の胸に収まっているのは、昨日の夕方、民の集まる広場で世界に生まれ落ちた存在で、自らの掲げた偽りを心の底から信じ、いつか来る復讐の時まで戦うと決めた奴隷の少女メリー。
私はそんな存在に自らを貶めてきたのですから、どうかご主人様はこのまま騙されてください。
そして貴方が私達を絶望へと導いたように、貴方の最後は私が必ず失意の下で迎えさせてあげますから……。