奴隷ちゃんと、おじいちゃんと、メイドさんの巻。
私の懐妊の予兆を聞いたアリサは、しばらくしたある日、ご主人様が惰眠を貪る昼下がりに、我が領地を教区としている、この街の司教様を呼んでくれました。
「メアリー様、お久しゅうございます……」
白いお髭の司教様は、アリサから私の計画を聞いたのでしょう。いつもの優しげな笑顔の代わりに、言い様のない複雑な表情を浮かべて挨拶を口にします。
「私達は出会った事がないのですから、司教様は私を何方かとお間違えです。初めまして司教様、私はこのお屋敷のご主人様に仕える玩具、メリーと申します、どうぞお見知りおきを……」
ご主人様の奴隷のメリーとして、初めましてと挨拶を告げた私を見て、司教様は驚愕の表情を浮かべて見つめてから、深い皺の刻まれた大きな両手で、同様に深く皺の刻まれたお顔を隠されます。
そしてその隙間から、なにかを必死で堪える震える声が微かに溢れてきます。
「申し訳ありません……、やはり年を取ると涙脆くなっていけません……」
今まで何度となく足を運んだ礼拝集会、その中心に立つ司教様はとても大きな方、いつも背筋を真っ直ぐに伸ばし、教会に訪れた全ての人の心へ向け、優しく神の教えを説いてくださる大きな方でした。
そんな心優しいお方ですから、きっと私の事を不憫に思って下ったのでしょう。まるで涙する迷子の様なお姿で、小さく肩と声を震わせて、絞りだすように言葉を返してくださいました。
「いえ……、どうぞお気になさらずに居てください……。そして司教様には、どうしても申し上げねばならない事がございます……」
アリサやガラフ以外にも、この身を案じてくれる方がこの街には沢山居てくれる。
それだけで私は、貴族として身を捧げるに値すると感じますが、もしも私の企みがご主人様に露見した時、この身を案じてくれた司教様に迷惑を掛けてしまわぬ様、更に言葉を重ねてゆきます。
「アリサから伝えられたかもしれませんが、貴族の娘のメアリーという少女は、人の形をした災厄、異界から来た魔王の手によって、家族と共にその短い生涯を終えました」
計画へ司教様が関与した事が露見しないよう、貴族の私は死んだとお伝えすると、目の前の御方は益々苦しむように、ご自分のお顔にやっていた平手を拳に変えて固く握りしめ、まるで何かに堪えるような苦悩が見とれます。
「貴方はっ! 貴方はどうして……、この少女にどこまでの試練を与えると仰るのですか……」
司教様はご主人様の理不尽、それに対抗する為に憎しみの対象に抱かれ、子を宿し、その子を武器にする浅ましい私に同情してくれたのでしょう。
ですが、この敬虔な神の僕たる御方は、やはり優しすぎるのでしょう。
「貴方の前に居る者はメリーという小娘、この街を支配する魔王の奴隷ですが、そのお優しいお気持ちはきっと、メアリーという貴族の小娘にとって、素晴らしい福音になると思います」
他人の痛みを見て、我が事のように心を痛めてくださる優しい御方、そんな司教様が礼拝集会の場でしてくださったように様に、出来るだけ優しい声で滔々と話を続けますが、目の前の大きな身体は益々小さくなって、空気を震わせるような低い声を室内へ響かせてゆきます。
「メアリー様、私は宗教家として口惜しいのです……。どうして神は老いぼれに試練を与えず、この小さき両肩へと、苦悩の全てを背負わせるのか、神のお気持ちがどうしても理解できないのです……」
決して大きな声ではありませんが、そのお言葉の一つ一つは、司教様の人生を掛けた信仰への問、ご自分の宗教感の全てに対し、否定を投げかける言葉でした。
「今の私は司教などと大層に呼ばれながら、目の前に困難に立ち向かう少女へ掛けるべき言葉を、何一つ持ちあわせておらず、貴方の挺身へ報いる術の一欠片も理解できぬ事が、情けなくて口惜しいのです……」
その全ては司教様のお心を、絞り布で包んで理不尽という力で絞り取り、苦悩という雫を滴せるようなもの、きっと万を超える言葉を弄しても語る事が叶わない、そういう重みで持って心に響き、私の奥底へ降りてきました。
災厄に身を投げ出した小娘を思い、何も悪いことなどしていないのに胸を痛める心優しい司教様。
そんな方に慰めにもならない言葉しか思いつきませんが、それでも何も伝えないよりは良い、そう思って、私は自らの思いを言葉にして伝えます。
「きっと司教様には、司教様のお勤めがあって、私は私の勤めがある、誰もが苦しみ、誰も悪くない。私はそう思っていますから、どうかご自身を責めたりなどしないでください……」
優しい老人の思いに応えたいと、私が自分の精一杯の思いを込めて返事を返すと、司教様は再び両手で顔を隠し、もう一度肩を落としてしまいますが、私の言葉になにかを感じられたのでしょう、司教様は私を涙の滲む瞳で見つめ、震える声で謝罪を紡いでゆきます。
「情けない所を見せてしまい失礼しました……。貴方の姿は私達の敬愛した前領主のご息女、メアリー様に余りに良く似ておりまして、さもしい年寄りはつい、彼女が今も生きているなどと、都合の良い白昼夢を見ておったようです……」
「どうぞお気になさらず、私も時々、そのような優しい夢を見ることもありますし、きっとそれは悪い事ではない、そう思います」
私達はそうして言葉を交わすと最後、互いにまるで言葉が出なくなり、部屋の空気は冬の森のように静かになってしまいました。
そんな静寂を壊したのは、私のことを一番良く知る従者で、彼女は司教様へ要件を伝える為、この重々しい沈黙の中、一番最初に口を開いてくれました。
「お嬢様と司教様のお気持ち、私にも痛い程に理解できます。ですがあの汚物がいつ目を覚ますか分からず、今は時間がございません……。まずは要件を済ませてしまいましょう」
「アリサさんにまで気を使わせて申し訳ない、この老耄者にとって、あなた方のような若者が苦しむ姿は、胸に痛くうございまして、つい時を忘れておりました、申し訳ございません……」
「ありがとうアリサ、本当は私が言うべきことだったわ……」
私達二人が告げた謝罪の言葉を、アリサは昼下がりの日差しの中、穏やかな微笑みを浮かべながら受け取り、深く頭を下げてから先程まで居た部屋の片隅に戻ります。
司教様がこちらにいらして以降、彼女はずっとご主人様が起きてこないか確認するため、部屋の片隅に侍るようにして、廊下へと注意を向けていたのです。
その注意深くアリサの警戒する姿を見て、司教様は自分が魔物の巣の中にいることを思い出したのでしょう。一つ咳払いをしてから、この巣の主がお気に入りの私向けて、いつものようにまっすぐに姿勢を正してから、はっきりとした口調で言葉を紡いでゆきます。
「では懐妊の気配を調べますので、メア……、失敬、メリー様はベッドで横になってくださりますかな」
「横になるのは分かりました、ですが私のような奴隷の小娘に司教様が様などと、敬称を付ける必要などございません。ただのメリー、そう呼び捨てていただければ良いのです」
きっと司教様は、未だ貴族の娘を忘れられないのでしょう、私が未練を断ち切って欲しいと忠言を口にすると、司教様は部屋に入ってから初めて笑顔を浮かべ、楽しそうに言葉を返してくれました。
「何を仰るかと思えばそのような事でしたか。ですがそれはなりませんぞ? メリー様は魔王の寵愛を受ける方、貴方に敬称一つ付けるのは、この老耄が老い先の短い命を惜しんだ行為、どこにも可怪しい所はありませんぞ」
神の教えに従い、このお年まで耄碌という言葉の対局にいる司教様、精力的に奉仕に殉じているご老人が少しおどけた様に語られた言葉は、とってもちぐはぐでした。
「もし、納得できないと仰るのなら、険しい道を進まれる貴方を敬愛している老い先短い耄碌の我儘、そう笑ってお許しくださいませ」
司教様は先程まであんなに苦しんでいたのに、急に吹っ切れた様に明るく仰るものだから、私はその笑顔が嬉しくなって、つい少しだけ夢の中に笑って、軽口を返してしまいます。
「ふふっ、司教様はいつも皆に、嘘を付いていけませんと説法されていた筈。なのに、ちっとも耄碌などしていない方が、そんな嘘を付かれるのは頂けません」
「はははっ、メリー様、これはいわゆる謙遜と言うもの、嘘とは違いますゆえご容赦願いましょう。ではメリー様、魔物に見つかる前に用事をすませましょう、どうぞこちらへ……」
そうして私はご主人様が来て以来の笑顔、心から沸き起こる笑みを浮かべ、司教様の大きな手を取ってベッドに向かって歩を進め、そのまま身体を身体を預けてしまいます。
「では、今から神のお力を借りて調べますゆえ、どうか楽にしていてください」
「分かりました、よろしくお願いします」
掛けられた言葉に私がそう返すと、司教様の低く落ち着きを感じる声で祈りを捧げてゆきます。
「大いなる我らの母よ、この者に新たな生命の芽吹きの兆しの有無を、どうぞ我らにお教え下さい……」
司教様の祈りのお声は、礼拝で拝聴した以上に神聖な気配を纏っていて、全てを囁き終わると、まるで清らかな水に落ちた波紋の様に、部屋の空気に広がって満ちて消え、その余韻が収まったと思うと、私の下腹の辺りが暖かくなって、仄かな光を発し始めました。
「この光は確かに懐妊の兆候を示しておりますから、メア……、いえメリー様はお子を宿しておりますな」
自らがご主人様種を宿している、自分が立てた策が現実の物になったと知った時、私はなぜか涙が止まらなくなりました。
この涙は、きっと計画通りに進んでいる喜びでも、あの汚物の子供を産む悲しみでもない。なのになぜか涙が止まらない。
自身の身に起きている事態が、閉じた瞼の隙間から滔々と流れて落ちていく涙の意味が、安堵とも絶望とも取れぬ感情が全く理解できず、私はただ呆然と湧き起こってくる涙を零しながら、昼下がりのひと時を過ごす事となりました。




