払暁
色盲、赤い瞳に関する知識はほぼゼロなので、ファンタジーだと思ってください
誤字脱字ございましたらご一報お願いします
海といえば、それは私にとって漣の音だった。木々といえば葉擦れの音だった。光はただの明暗で、私の中にはただ、色彩だけが欠けていた。
その中で、赤だけが鮮やかだった。
それだけが、私が知っている色彩だった。
ざざーん、と海鳴りが響いて、薄く陰る色の地面に波が這いずった。
暗記用の赤シートを目の前に翳して、海に重ね合わせてみる。でも、これは私が求めているものではない。
海は、どんな色彩をしているのだろう。
私はただ、それが知りたかった。
掲示板に、額に入れられた大きな写真が飾られているのだ。
海、という題名だった。生徒がそれを出品して、コンクールで賞を取ったとか、でかでかと飾られていた。
すぐ、近くの海だ。
いつもと変わらない風景が私には見えているはずなのに、どうしようもなく魅力的に見えてしまった。
「すっごくきれいな海の色ね」
友人達も、通りすがりの写真の色の美しさに足を止めて、感嘆の溜め息をついた。美しい青。それは、私が見ている景色にはないのだろうか。私には、それすら分からない。
赤とは、どう違うのだろうか。
知りたい。今まで求めたことなんてなかったのに。
「瞳が、赤いのね」
私が唯一知る色彩に引き付けられて、初対面の青年とも少年ともつかないような彼に私は言っていた。
海の写真を撮った、茨木雪斗。私の隣のクラスの人。細身で、薄い肌をした、濃い髪の人。
放課後、私は彼を呼び出していた。人気のない空き教室。机に掘られた落書きを、後ろ手になぞる。
眼鏡をしていても私はその色を見つけられた。透き通るようなきらきらした色で、気がついた時に言葉はもう、溢れ落ちていた。
「瞳が、赤いのね」
深い意味はなく、ただ、称賛。
「だから?気持ち悪い、とでも言う?それとも綺麗だとか?」
茨木くんは、怒りを湛えた瞳でそういった。私は拒絶されているようだった。それでも、あの写真を撮ったその人に聞きたかったのだ。出鼻を挫かれながらも、用件を告げる。
「あのね、海の色を私に、教えてほしいの」
「そんなもん、海に行きゃわかるだろ」
怒鳴り声より恐ろしい、凍えるように冷たい声だった。
教室を出ていくとき、彼は、ドアを思いきり蹴りつけた。
××××
俺はずっと、赤っていう色が大嫌いだ。だから、自分の目が嫌いだ。
突然変異の赤目持ち。体に不自由があったり視力に問題があったりはしなくて、ただ目が赤いだけ。ただの人間だ。誰かより圧倒的に劣っているわけでも、優れているわけでもない、凡人。
それでも他人はそう思わないわけで。
俺の瞳は、「化け物」とか「美しい」とか、そういう感想をもって常に見られていた。他の人のように、ただ見えている、という機能以上の感情が付随して回った。
よくも悪くも俺の瞳は異質だった。
それが嫌だった。
写真を撮るとき、俺の瞳は、レンズに隠れる。レンズが俺の眼になる。それだけが気に入って始めた写真が上達して、気まぐれに応募したコンクールで賞を取った。俺の周囲はさらに騒がしくなった。
将来性があるとでも思ったのか、告白されることが増えて、瞳の色が美しいと誰からも言われる。断った時「化け物のくせに」と罵られたこともあった。
自分の異質さを知る度、俺は自分が、赤が大嫌いになった。
赤いものは撮らない。
俺の世界に、赤は要らない。
海の色を教えろ。馬鹿馬鹿しくて相手にする気すら起きなかった。そんな言葉でしか気を引けない少女に憐れみすら覚える。
時間をとられたことにも、無遠慮に眼の色彩を指摘したことも、腹がたった。
少女は不安そうな顔をして、その弱さに腹がたった。そしてそれがフリであることが殆どなのも分かっていたから、弱さを装うしたたかさにも腸が煮えくり返る。
教室に戻れば友人がのし掛かってきた。
「おい!お前また呼び出されてただろ。しかもあれ、早見さんだったじゃん。いいなー!」
気のいい友人だ。人との距離を取るのが上手くて、深くならない辺りが特に。
「別によくねえし。てか、お前知ってんの?」
地味な見た目の少女だった。長い黒髪は二つに括って、制服は着崩さず。今思えば顔立ちも整っていたが、とにかく地味である。華やかさが足りないし、本人の自信がなさそうな挙動も俺の趣味じゃない
どうやら友人はわりと琴線に触れるようで、こいつは清純派だったと要らんことを思い出した。
少し気になって尋ねた俺に、噂程度だけど、と前置きして友人は話してくれた。
「ま、そこそこ有名だし。
確か、全色盲なんだって」
色盲ってなんだっけ。生物の授業の小噺をぼんやりと思い出して、何となく理解した。
彼女は色を認識できないのか。
―――赤いのね。
じゃあ何で、赤いと?
友人が言葉を繋いだ。
「あーでも、ちょっと特殊で一色だけは認識できるとかできないとか。えっと…何色って話だったっけなあ……」
「あか」
手を叩いている。
「ああ、そうだそうだ。赤だけ見えるんだって。色盲なんて大変なもんだよ。それにしたって女子の色盲って珍しいし」
その後の友人の言葉は聞いていなかった。
―――赤いのね。
彼女は言った。それはきっと
「赤しか、見えないのか…」
海の色を知らないのか。空の色を知らないのか。あの美しい、濃い深い青を。だから、知りたい、と。
「わりぃ。俺ちょっと先帰るわ」
「はあ。別にいいけど。あ、今度早見さんとどうなったのか教えてくれよ?」
「………」
どこまで読まれているのだろう。
沈黙して手を振った。
××××
潮風の臭いは独特で、私は結構好き。
お母さんは危険が多いと言って嫌うから、あまり海にはいかせてもらえないけれど。
赤シートは見える。色が、綺麗。たぶん。海は、色がない。ただ、斑に影が落ちている。
私には世界の美しさが分からないのだろう。
レジャーシートの上に座って、ずっと海を眺めている。冬だからとても寒くて、きつく巻いたマフラーに頬を埋めた。
暫くそうやって海を眺めていると、ばたばたと足音がして、不思議なことに私の真横で止まった。
「あれ?茨木くん?」
さっき、怒っていたはずの茨木くんは、どうしてか酷くばつの悪いような顔をしていて、見下ろされるこちらの方が気まずいぐらいだった。
慌てて立ち上がるけれど、やっぱり茨木くんの方が背が高いから、見下ろされる。
覗き込んだ瞳に思う。やっぱりこの赤は、私が知る限りで一番美しい。
「さっきは、ごめんな。あんたが全色盲だって知らないで、きついことを言っただろう」
「…ごめんなさい。私も茨木くんに目の事を話していなかったのに、初対面で変なことを言って」
私は、少し考えて、茨木くんの赤い目を見つめた。まっすぐ。
「はじめまして。私は早見桜花です。色盲なんだけど、ちょっと特殊で赤色だけ見えます」
伸ばした手は、握手を求めて。私の手を見下ろした茨木くんは、私の目を見つめ返した。
「…初めまして。俺は茨木雪斗です。目が赤いのは、突然変異だそうです」
「そうなの。私、目が赤い人は初めて見ました。とってもきれい…」
「………俺は、この目が嫌いだ。赤も」
だから何も言うな、と茨木くんは言って、握手した。
私は少し寂しかった。
赤シートの鮮やかさが急にくすんだものに見えて、やっぱり、色彩の美しさというものを知りたいと、強く強く願った。
茨木くんは、出来ることなど殆ど無いと思うと言ったけれど、それでも協力したいとも言ってくれた。
「とりあえず、海を眺めてみようか」
固い言葉遣い。私は頷いて、レジャーシートに座るように茨木くんを促した。
ざざーんざざーんと海鳴り。潮風の臭い。冷たい風。
白、という色なのだ、とお母さんが買ってくれたマフラーに顔を埋める。光と同じ色だと思う。
眺める。
でも、私には、色など分からない。
きらめいて、翳って、揺れる。波が打ち付け、引いて、また打ち付け。砂を浚って押し戻し、嘗めるように誰かの足跡を消し去る。
いくら見ても、変わらない。
やるせなくて、抱えた膝に顔を埋めた。
次の日、茨木くんは幾つもの布を持ってきていた
「これは何色?」
「赤色?」
「それは?」
「ええと…オレンジ、かな」
「どうしてわかるの?」
「赤の色みっていうか…」
感覚を説明するのは難しい。私は赤の色素しか認識できない。全色盲ではないのだが、レアケースで如何せん分かりにくいのだ。
「これは何色?」
「………ごめんなさい、分かんないです」
「謝らなくていいから」
ただの確認だと言う。私は首をかしげる。
「これは緑。んじゃ、こっちは?」
「緑?同じぐらいの濃さに見えるけど……こっちも分からない、です」
「敬語とかいいから。めんどくさい。で、これは青。じゃ、ちょっと待ってろよ」
首をかしげる。
茨木くんは、私が分からないと言った2枚の布を隠して、混ぜるような動作をしてから、もう一度私に見せた。
「じゃ、どっちがどっちだかわかるか?」
私は指をさして答える。
「こっちが青でこっちが緑」
茨木くんが首をかしげた。こっちもかしげた。
「どうかしたの?」
「いや、どうして分かったのか解らなくて。サイズも質感も会わせたつもりなんだけど…」
「……全然違うよ?光沢とか、あと、織目が違うもの」
ああ、と茨木くんは頷いた。何かに納得したみたいだけど、何だかさっぱり。
「なにかあるの?」
「色盲の人って、光の明度なんかに敏感だって聞いたけど、こういうことなんだと思って。俺にはこの布の目とか光の違いなんか分からないからな」
「分からないの?」
「ああ。さっぱりだな」
こんな風に誰かと、ひとつひとつの認識を擦り合わせたことなんてなかったから新鮮。私は自分の色盲を、ただの事実として受け入れられるような気がした。
私の周囲にはずっと、腫れ物にさわるように私の色盲を忌避した。お母さんがその筆頭で、学校や友人との間で、色盲のしの字、色の名前が出ただけで、かっと怒って相手の子供を叱りつけた。だから自ずと私の目や色彩の話は、タブーになった。
悪くはない。
それがタブーだったお陰で、私は今まで色彩に対する欲求を持つことがなかったのだと思うから。
青を知りたい。
青の色素を認識できない私が、それをするのは不可能なのに。
何て不毛。私は恋をしている。叶わない恋だ。青色に恋をしているのだと、嘯いた。
××××
数週間が過ぎたが、一向に成果はなかった。
そもそも青を見れない人に青を見せるのが不可能なのかもしれない。ぐっと唇を噛み締めて俯けば、赤い髪止めが目に入った。
「………それ、初めて見た。早見は赤が好きなのか?」
真っ赤なハートの小さなピンは、早見によく似合っていた。言えば、早見は恥ずかしそうに俯いてはにかむ。こういうところ、素直でかわいい。
「赤は好きだよ。とってもきれいだと思うの。でも……」
何か言い淀んだように見えて促せば、首を振ってまた笑う。二つに分けて結わえられた髪が揺れる。
「お母さんがね、私の色って言って買ってくるの。せっかく見える色なんだからって」
静かに笑う。
ときどきその笑顔に酷く腹がたった。
その日は帰るのが少し遅くなって、俺は男らしく早見を送って帰ることにした。男らしく、とは友人の受け売りだ。色盲って不便なんだから、とも言っていた。確かに、色が分からない、というのはかなり不便に思えるが、今まで普通に過ごしているのだからそれほど困る事態ではないと思う。
「もうすっかり暗いな」
さらに言えば、寒い。無くしてしまったマフラーを恋しがりながら首をすぼめた。
「そうだね。こんな時間まで出歩くなんて久しぶり」
早見は楽しそうに笑った。
「お母さんは、心配性だから」
過保護すぎるんじゃないか、と思ったが、口に出すのは控えた。
「じゃあ、こんなところまでありがとうね」
角のところで、と言われて別れる挨拶をする。
「ああ。また明日な。…それに全然成果が出なくて、ご……」
「桜花!こんな時間までどこに行ってたの!」
遮られた言葉は怒鳴り声で忘れ去られる。黒髪の痩せた女性はショートカットを振り乱して俺に掴みかかった。
「お母さん……?帰ってくるのは遅いって……」
「お母さん?早見の?」
全然似てない。
背はスッキリと高かったし、気の強そうな赤い口紅なんて正反対だ。髪が綺麗なのは似てるだろうか。
ぼんやりと二人を観察しているうちに、俺は胸ぐらを捕まれて頬を平手で叩かれた。それほど痛みはないが、かなり衝撃的で瞬きをする。
「こんな時間までつれ回して、桜花に何かあったらどうするつもりなの!」
「お母さん、やめて」
か細い声で早見が彼女を止めるが、きっと逆上している早見の母親に、効果はないのだろう。早見の腕を振りほどいてさらに俺の首を締め上げる。
……痛みより迫力がすごい。
まだ19時にもなっていないというのに、ずいぶん過保護だ。女子の親というのはそういうものだろうか、と呑気に考えていたのだが、次の台詞に、考えは霧散した。
「あんたね!うちの子に変なこと吹き込んだのは!どうしてこの子に海の色なんてことを話すのっ?桜花は色盲なの。青なんて分からないの!そうやって桜花を馬鹿にするつもり?」
早見が気になって目を遣れば、俯いて泣きそうな顔をしていた。
きっと、その顔をさせたのは俺だ。
これは、早見が決して言おうとしなかったことで、隠したかったことなんだろう。
「…馬鹿にしているつもりは、ありません。今後、遅くならないように気を付けますので」
冷静に、冷静に。言い聞かせながら彼女の腕をはずす。不安そうな早見にまたなと告げて、足早に立ち去った。
家に帰れば、すでに両親共に揃っていた。テーブルの上には赤いバラの花束が置いてあって、そういえば結婚記念日だったな、と思う。
「ただいま」
「お帰りなさい!今日はごちそうだから、早く帰ってきてって言ったじゃない」
遅くなったことを咎められて、軽く謝ってから、すでに準備された食事を見る。
「ごちそうっつったってハンバーグじゃねえか」
「言葉遣いきたない。
だって、お父さんがいつもハンバーグがいいって言うんだもの。仕方がないでしょ」
ぷりぷりと怒ったふりをする母親は、少女趣味且つ若作りだ。全体的にふとましく、なのに何だか可愛らしい。
ちんまりしてるからかな…と、また怒らせそうなことを考えていると、着替えを済ませたらしい父親がリビングに来た。
「ああ、雪斗帰ってたのか」
「ただいま。とっとと飯食おうぜ」
「ゆーきーと、言葉遣い!」
「はいはい」
「それで?二人何周年だっけ?」
「…聞きたい?馴れ初めとかプロポーズとか聞きたい?聞いちゃう?」
「遠慮しとく。耳タコだし」
ワインを開けて上機嫌な母親を軽くあしらいながら、ハンバーグを平らげる。母親が新たに皿に取り分けてくれた。
社内恋愛だったとか、プロポーズは赤いバラの花束だったとか、もう耳タコだ。暗唱できそうな辺りが恐ろしい。
「……20年だ」
仄かに顔を赤くした父親が言う。
ああこっちも酔ってるし…。
顔にはでないがめっぽうアルコールに弱いのが父親だ。
「そっか。おめでと」
「ありがとう!きっとあなたの目が赤いのは、お父さんがバラをくれたからね!お母さんとお父さんの愛の色なのよ!!」
ああそう。
すでに耳タコである。
いつもとは雰囲気の違う食事を楽しんで、疲れた体でベッドに寝転がる。
ピコンと携帯が鳴った。早見だった。
『今日は私のお母さんがほんとうにごめんなさい』
慌てて画面をタップする。
『気にすんなって。早見のこと、心配してたんだろ』
そして思う。
苦しんでもいるのだ、と。
中学の頃、俺は一番自分の目が嫌いだった。視力の悪さに託つけて、カラーコンタクトを買って貰おうとして、両親に話をすれば、母親は泣いた。
―――ごめんね、普通の子に産んであげられなくて、ごめんね。ごめんなさい―――
ただ、呆然と立ち竦んでいたのを覚えている。
母親はいつも、俺の瞳を命の色、情熱の色、愛の色などなんだかんだと誉めていてばかりで、ともすれば、俺はこの瞳が望まれてなったものだと勘違いするほどだった。
だから、俺ばかりが悩んで、苦しんでいるのだと思っていた。
知らなかった。両親の気持ちなど分からなかったのだ。
母親はずっと、俺の瞳が赤いことを気にしていた。誉め続けたのも、どうか俺が、この瞳を嫌いにならないでくれ、という一心だったのだ。
俺の瞳が赤いのは、原因不明の突然変異。
多くの他人は、五体満足で視力もあるのなら良いと思うのかもしれない。
だが、母親、というのは違ったらしい。
俺の母親は、理由の分からない俺の赤い瞳を、未だに自分のせいかもしれないと思い詰めることがあるのだから。
だからきっと、早見の母親もそうなのだろう。
健常者と同じような子供を産めなかったことに責任を感じているのだろう。それでも、健常者と同じ生活をさせられるようにと思っていたのだろう。
全て、憶測でしかない。
―――どうしてこの子に海の色なんてことを話すのっ?桜花は色盲なの。青なんて分からないの!
彼女の言葉は確かに早見を傷つけていた。
それでも、思うのだ。
彼女の言葉は、必死に娘を守る母親のもので、彼女自身がその言葉に傷ついていた、と。
似ている。
俺の母親も、早見の母親も。
子供を愛していて、ずっと自分を責めている。
××××
茨木くんが、私と関わることが嫌になってしまうのではないか、心配だった。
―――そうやって桜花を馬鹿にするつもり?
お母さんはとても神経質だ。でも、それは私を助けるためのもの。私は解ってる。
私の目はお母さんのせいだとかそうじゃないとか、小さい頃親族の集まりに行く度様々言われた。私はお母さんのせいだと言う人が大嫌いだ。お母さんのせいだと責める人が大嫌いだ。
『気にすんなって。早見のこと、心配してたんだろ』
「……うん。そうだね」
泣きそうになった。お母さんのことをおかしいと言う人ばっかりだったから。
お母さんは私が傷つかないために必死な人。昔私の目について色々言われている私を見たことがあるから、傷つけられる前に、攻撃するような人。
―――どうしてこの子に海の色なんてことを話すのっ?桜花は色盲なの。青なんて分からないの!
私はこの言葉が苦手。胸が痛くなる。でも、それをいっているお母さんの方が苦しんでいるのも知ってる。血を吐くようにその言葉で自分を傷つけているから。
それでも、私を健常者に産めなかったお母さんが責任を感じても、当て付けのように思ってしまっても。
知りたい。ただ、それだけを。
『まだ、私に海の色を教えてくれる?』
返信はいくら待ってもなかった。
もう真っ暗な空を見て、これは何色なんだろうかと思う。眠れない。携帯を握りしめて、ずっと待ってるのに。
ベランダで空を見ていた。風は冷たく、空には雲がかかって飛行機の光ばかり。
「いなくなっちゃったのかな」
また、友達が一人、いなくなった。お母さんと関わった人はいつも静かに離れていく。どうして。あのメッセージは、口先だけだったのだろうか。
「どうして……お母さんを嫌いになっちゃいそうだよ…っ」
しゃがみこんで絞り出すように泣いた。
茨木くんのことが好きだったのか、と今さら気がついた。
自嘲して笑う。今更気がついたって遅いのに。もう、全部終わってしまったのに。
―――私は恋をしている。叶わない恋だ。あの青色の写真を撮った彼に、恋をしているのだ。
胸が苦しい。冷たい風も気にならなくなって、ずっとそうやって泣いていた。
次の日は学校を休んだ。私はうとうとと一日中微睡んで過ごした。
お母さんはとても心配してお粥を作ってくれて、やっぱりこの人を嫌いになることなんてできないと思う。
食欲がないという私に、下手くそな卵粥をつくって笑いかける。昔私が喜んだのを忘れず、繰り返すように、そればかり。
うとうととまた眠りについて、私は夢を見た。
青い海鳴りと、灰色の風。煌めく海の深い深い青。空の爽やかに掠れるような水色。
海を見た。海の色を見た。風が顔面に吹き付けて、眩く鮮烈な顔を逸らせば、気づけば隣に人が立っていた。
瞳の色が、鮮やかで――――
「………茨木、くん」
伸ばした手がパタリと落ちて、目が覚めた。ひどく鮮やかな夢を見たように思う。もう、海の深い青も、空の軽やかな青も、分からない。
呟きながら、腕で顔の上半分を隠した。
鮮やかに記憶に残るのは、彼の赤い瞳ばかり。
私は、誰より茨木くんの瞳がきれいだと思う。どんな赤よりも、茨木くんの赤がきれいだと思う。
でも、けれど、それじゃ駄目なのだ。
嫌なのだ。
私は茨木くんの赤が知りたいんじゃない。赤はもう、いっぱいいっぱいだ。窒息しそうなぐらい、包まれている。
別の色を知りたい。
海の色を、知りたい。
昼間眠りすぎたせいで、夜になるとすっかり目が覚めてしまった。
手持ちぶさたにベッドに座り込んでぼんやりと物思いをしていたら、片手に握り込んだ携帯が音を立てた。
友人だろうか。訝しむ。もう4時は回っている。静まり返った辺りの寂しさと、時折走り去る車の音以外、何も聞こえない夜だ。淋しい。
そろそろ眠るべきなのはわかっているのだけれど、どうもその気持ちにはなれないのだった。茨木くんへの甘い気持ちを捨てきれないせいか、それとも失恋の辛さが身に染みているせいだろうか。どこか捨て鉢な気持ちになっていることは確かだった。
明日は休日だから、とそんな言い訳をして、冷気の触れる肌を守るように、膝を抱えて丸くなった。
冷たい、冷たい夜だ。
そして朝が迫っていると憂鬱な気持ちになる。ぽすっと体を横に転がした。
メッセージの差出人の名前を見て、私は慌てて起き上がる。何となく居住まいを整えて名前を呟いた。
「……茨木、くん…」
なんだかもう泣きそうだった。視界の下半分がぼやけ始める。
たとえこれがお別れの言葉だったとしても良い。
そう思ったのに、内容は簡潔で、酷く不可思議なものだった。
「いま出れるかって……いま?」
ぴこん、とメッセージが増える。
「……外にいる…?うちの前!?」
勢い良くカーテンと窓を開けてベランダに出れば、外気の冷たさが全身を襲う。でもそんなもの気にならないで、私の目は自転車を押した人影に釘付けになった。
「…っ茨木くんっなんっ」
「しー!しー!まだ朝!」
ジェスチャーで遮られて、握った携帯を通話に切り替えた。
「どうしたの!こんな時間に」
「見せたいものがあるんだ。いま、出てこれるか?」
戸惑った。こんな時間に外出したことはなかったし、お母さんの反応だって想像に容易い。出会ったばかりの茨木くんにだって分かっているはずだ。
躊躇する時間も惜しいと言うように、茨木くんは私の疑念を遮った。
「いましか、見られないんだ」
その言葉と、赤い瞳の真っ直ぐさに心を決めた。
「すぐに、いくね」
××××
俺が早見に見せたかったのは、海だ。
早見は赤が嫌いなのかもしれないと思うことがある。早見の持ち物は赤いものばかりだったし、俺の瞳をきれいだと言うが、時折見せる絞り出したような笑顔が、その言葉を額面通りに受け取らせなかった。
赤しか知らないから、きっとそれを美しいと思えないことを許せないのか。
俺は、自分の赤い瞳が嫌いだ。
―――だから俺は、赤いもの全てを嫌わなくてはいけないのか。
「これを、早見に見せたかったんだ」
魅せるのは、一面の赤。暁時の空と、水平線の奥で、燃える海。
冷たい潮風が、鮮烈な臨場感を誘う。
その美しさに、心が震えた。
―――違うだろう。そうじゃないだろう。
苦しかった。認めるのは、とても。
けれど、いい加減俺は笑いたかった。
瞳の赤を美しいと言う早見に、そうだろうと。
夕焼けと朝焼けが美しいと言う友人に、その通りだと。
黒い瞳に産んであげられなくてごめんなさい、と泣いた母親に、この瞳は美しいだろう、と笑いかけたかった。朗らかに、何の衒いもなく。
赤い瞳を気持ち悪いと言う人に、俺は笑いたかった。俺は、この赤目が好きなのだ、と。
光が目を焼いている、と思った。これは浄化だ。
きっと俺は、赤を好きになれる。だってずっと、心のどこかでそう思っていたのだから。
この時間は一瞬だ。
すぐに暁の紅は取り払われて、拭い去ったかのように青が姿を表すだろう。早見はきっと、その青を知ることはできない。けれど、その色の無い景色を愛して、この美しい払暁を嫌っても良いのだ。
「………払暁だ」
俺は、早見に笑いかける。
早見は、茫洋とした瞳で海を見つめていた。
××××
私は黎明の海を見ていた。ああ、と仄かな落胆を吐息に含む。
赤に包まれた景色。私は、青が知りたかったと言うのに。
「………青じゃ、無いんだね」
詰るように声は響いて、茨木くんはそんなこと気にしないで笑った。
「早見は、青を知れない。本当の青なんて、あったってなかったって大したことはない。なあ、早見、お前はさ、別に青が知りたい訳じゃないだろ?」
「……結局私には分からないものね」
「違う」
茨木くんは逡巡してから言った。
「そうじゃなくてさ、……早見は、嫌いなんだろ、赤色が」
初めてそんなことを言われたから、私はすぐには否定できなかった。
「そんなことないよ」
「うそ。赤が嫌いだから、青の方が綺麗だって思いたいんだ。だから青を知りたいんだ」
茨木くんの事じゃないのに、彼は自嘲するみたいに笑う。
「一つしかない選択肢を拒否しようとする人がいるだなんて、誰も思い付きやしないんだ。馬鹿みたいだろ」
それは痛みを伴って私の胸に響いた。ささくれから血が出ているのを自覚してから痛みを感じるみたいに。
「私、赤が嫌いだったの?」
口に出すとそれはすんなりと胸に落ちる。ああ、私は赤が嫌いなのかもしれないと、認めるしかなくて、どうしても否定したかった。
だって、それではあんまりだ。
私にはこの色しかないのに。
「私には……赤しかないのに」
震える息を衝くように、呟いた言葉が真実だったのだろう。
それしかないと、唯一の色だからと執着していた。与えられるものはみんな赤が入っていたし、それは私が見える色だからという大人たちの気遣いだった。
色って綺麗なのよ。それが見えないだなんて可哀想に。
ずっとそう思われてきたのを知っている。だから、私自身そう思っていたのかもしれない。
赤が私に唯一与えられた色だった。
だから、嫌うことなんて、唯一の選択肢を拒否することなんて思い付かなかった。でももう、いっぱいいっぱいだ。もう、赤だけにこだわるのは嫌だ。
青を知れたなら、青の方が美しかったと赤を捨てられたのだろう。でもそれはできない。だって私には赤しか無いのだから。
「どうしたって、私には赤しかないのに」
虚しくて、涙が滲んだ顔を、手袋をした指先で隠そうとした。けれど明るすぎる声がそれを遮った。
「なあ、この景色は美しいか?」
茨木くんだ。尋ねておきながら答えを求めてはいないらしい。いつもより柔らかい顔をして、話し始めた。
「はじめ、あの海の写真を撮ろうと思ったとき、これを撮るべきなんだろうって思ったんだ。でも、嫌だった」
だって俺は赤が嫌いだったんだから。
事も無げに言う表情は、最初に赤を嫌いだと言ったときとは全然違う。穏やかで慈しむような顔。
どうしてそんな表情をするのかと思う。
「だから赤を絶対に入れないで写真を撮った。でもさ、やっぱりそれは俺の僻み。人と違う色だからってこじつけて、何も見ようとしなかっただけ。
今俺はそう思ってる」
私は茨木くんが言いたいことがわからなくてぽかんとする。
「それと同じで、早見も赤しか見えないからってそれに拘ることはないんだよ」
ここには何が見えるか?
そう聞いてきた茨木くんはいつになく饒舌だった。
水平線、波のきらめき、空、雲、砂浜の斑、水飛沫、打ち寄せる波の泡立ち。
「きりがないほどのものが見えているだろ?それに何より、一面の光だ」
私に見せびらかすみたいに茨木くんは両手を広げた。
「色が大事だからってそれに拘ることはないんだ。青が見えないからって赤が好きでいなきゃいけない決まりなんかない。
これから夜が開けて、暁が取り払われて、一面の青が広がる。
見えなくても、払暁より青空が好きでいいんだ。海が好きでいい。だって早見は海が美しいと思うだろ?
色が見えなくても、輝きがある。波のうねりを見れる。匂いや風を、全部で感じるんだから」
慰めなんかではなく、茨木くんはそう言っていた。私と茨木くんは似ていたのかもしれない。私たちは赤に拘りすぎていた。
「………やっぱりね、私、もう赤はいっぱいっぱい。赤赤赤赤って私の今まではそればっかりだったから、赤はちょっと嫌いかも。でもね、茨木くん、連れてきてくれてありがとう」
茨木くんは微笑んで、それから背中を向けて海の方を見つめた。私は数歩歩いてその隣に立つ。
「ここは、見なきゃ勿体ないと思うくらいに綺麗だよ」
一面が赤だった。けれどそれ以上に光に満ちていた。私は光に身を委ねながら、満足げな微笑みを浮かべる。
「茨木くん、私ね、茨木くんの写真が好き。あの海が好きで、私は海の色を知りたいって思ったの」
「それはありがとう。嬉しい」
茨木くんは照れたようにはにかんだ。執拗に赤を排除された海の写真を思い出して、ふと訊ねる。
「今度からは、赤色のものも撮るの?」
「多分な。きれいだと思ったものが赤いなら」
あっけらかんと言い放った茨木くんは変わったなと思う。とげとげしたところがなくなって、優しくなった。
赤を嫌いではなくなってそうなったと言うならば、赤が嫌いだ、ということを受け止めた私も少し優しくなったかもしれないと考えた。
「私、茨木くんが見ているものをもっと知りたい。茨木くんの世界を見てみたい」
あの海はとてもきれいだった。色が分からなくたってそう思う。私は茨木くんの世界をもっと知りたいと思った。
彼の世界はどんなに美しいもので溢れているだろう。
私もその世界にいられたらいいのに。
願望に近い要求に、茨木くんは躊躇いもせずに頷いた。私はこっそりと瞠目する。
「ああ。俺も早見に見せたいな。俺がどんなものを見ているのか、一緒に知れたらどんなな楽しいか」
私はそれに勇気付けられてまた言葉を紡ぐ。
「ねえ、いつか……」
「なに?」
「ううん、なんでもない」
厚かましすぎると思って止めた。
彼に私の写真を撮って欲しいと言うだなんて、それは茨木くんを困らせてしまうだろう。
彼はきれいだと思ったものを撮ると言ったのだから。
赤が薄れて行く空に、光だけは相変わらず鮮烈だった。
「ああ、そうだ。頼みがあるんだけど、良いか?」
「うん。良いけど…なに?」
「今度、早見を撮らせて貰っても良いか?」
私は顔を赤くした。光のせいだとは言えないほど。
茨木くんも顔を赤くしていた。
多分、私が考えたのと同じ意味。
私たちは光のなか、みっともないぐらい顔を赤くして立ち尽くしていただろう。なんたって私たちは、さっきやっと色の好き嫌いを認められるようになったばかりの子供なのだ。
有難うございました
あとがきを活動報告に書く予定です。今日中には上がっていると思います。書き損ねた設定など暴露する予定です




