SHOT.8 絆としがらみ
午後遅く、未だ裏路地には強い雨が降っていた。
教えられたとおりに、ドアを三度ノックし、それから少々の間をあけてもう一度ノックする。ぎぎぎ、と蝶番を軋ませながらドアが開かれた。
「……あんた、」
開いたのは、白髪に藍色の目の美少年――――ヒムロであった。ヒムロは、ドアの前に立っていた緝助を見上げて目を見開く。
「久し振りだね……さくな、じゃない、サクサさん居るかい?」
「……何の用だよ。リーダー達とサクサは今会議中」
「そっか……じゃあいいや。これ、この前怖がらせちゃったし、お詫び」
苦笑して、緝助は手に持っていたビニール袋を差し出した。ヒムロは両手でそれを受け取る。覗くと、ファミリーサイズの菓子が色々と入っていた。ヒムロ物珍しそうにそれを見て目を瞬かせる。
「……食べたこと、無いかい?」
「ああ……貰えなかったから」
そう呟いたヒムロの前に屈んで視線を合わせ、緝助は微笑む。
「君は、新人かな?」
「ああ。……どうして、分かるんだよ?」
「ちょっとね。そうか、君が……」
緝助はそして、愛しむように目を細めた。
「……君に、頼みがあるんだ」
「俺に?」
「ああ。サクサさんを……助けて欲しい。一人にしないで欲しいんだ」
「?」
緝助の言葉に、ヒムロは怪訝そうに眉宇を顰める。
「……僕には、もう出来ないことだから」
「助けるも何も……俺は、サクサに救われたんだ。裏切るつもりもないし、あいつの為だったら何だってする。……あ、あいつには秘密だからな!?」
言ってから、慌てたように付け足すヒムロに笑いを返して、緝助は立ち上がった。
「なあ」
だが、ヒムロがその服を掴んで引き留める。
「聞きたいことがあるんだ。あんた……サクサのこと、よく知ってるんだよな?」
「ああ。それが?」
「聞かせてくれ、あいつ、自分のスキルだって俺達に言わねえし……知りたいんだ」
「……でも、それは僕から言う事じゃないよ。サクサさん本人から聞いた方が良い」
「でも、」
「君とサクサさんはよく似てるよ。だからきっと、君が本気で頼んだら、サクサさんは応えてくれるんじゃないかな」
緝助はそう言って、ヒムロの前にしゃがんでその肩を軽く叩いた。
窓枠に肘をついて手に顎を乗せ、サクサは窓から外を見つめていた。重たい雨はなお裏路地を包み込んでいる。空気は雨に洗われて涼やかに澄んできていた。
ドアのノックに応えると、ヒムロが入ってきた。
「ヒムロか、どうした?」
「ちょっと……なあ、サクサ」
「あ?」
「……少し、あんたと話がしたいんだ」
ヒムロはそして、Tシャツの裾を握る。
「……あんたと俺は、よく似てるみたいだから」
「…………鳴上か」
サクサは露骨に溜息を吐く。
「いいだろう。まあ座れ」
サクサはベッドを示した。ヒムロはベッドに座り、それからふと、壁際の机、その上方のコルクボードに気付く。
「あの写真……」
「ああ、昔の俺達だよ」
ヒムロは立ち上がってそれに近付いた。コルクボードに張り付けられているのは、幼いアクシスやゼロ、メイスと、今と寸分も違わないサクサの姿が写っている写真だ。中には、今より若い緝助と思われる青年とサクサのツーショットもある。
「……どうしても捨てられなくてな。俺は引き摺りやすいタチだから」
「ふうん……なあ、サクサ」
ヒムロはそして、一枚だけ妙に古い写真を指差した。他の写真もそれなりに古いが、その一枚は飛び抜けて色褪せている。そこには一人の少年と、白衣を着た女性が写っていた。
「これは? これだけ、サクサも、リーダーも、鳴上さんも居ない」
「……あー、それは……」
サクサは顔を逸らして頬を掻く。
「その人はな、俺が国立科学研究所、第三支部―――スキル研究施設に居たときの、俺の担当だった博士だ」
「え……じゃあこれサクサ!?」
ヒムロは驚いたように、写真の少年とサクサを見比べる。
「ああ。何年も顔かたちが変わらなくても、俺にだって子供時代はあったんだぜ」
サクサは椅子に足を乗せ、立てた膝に腕を乗せて苦笑を零した。それから、懐かしむように目を細める。
「彼女の名前は、作並鈴葉。非人道的な実験も平気でする研究所で、数少ないまともな人だったよ―――まあ、研究内容以外は」
◇ ◇ ◇
検体番号六十二番。そう刻まれたタグを首から鎖で下げ、アクリル板で仕切られた外の世界を見上げる。短く刈られた黒髪と大きな黒い双眸が特徴的で、細い体躯と目鼻立ちは何処か山猫を思わせるものがあった。
白い無機質な部屋には、様々な年齢向けの玩具が散らばっていた。白い検査着のような物を着た、少年、六十二番はじっと、アクリル板の向こう側を見詰めていた。
アクリル板の向こうに立つのは、ボードを手に持った白衣の女性、作並鈴葉である。
「先生」
六十二番が呼びかけると、鈴葉はにっこりと笑う。
「今日はあなたにプレゼントがあるの。本を読みたがっていたでしょう。他の先生には内緒よ?」
鈴葉はそう言って、懐から文庫本を取り出した。それを、アクリル板の下、動物園で檻の中の動物にエサをやるような、小さな隙間から中に押し込む。六十二番はそれを受け取り、嬉しそうに笑った。
「先生、今日も注射するのか?」
「ええ。我慢してね」
六十二番は唇を尖らせる。鈴葉は困ったように笑った。
「明後日には次の検査があるから、その結果が良かったら、もう注射しなくていいから」
もう、何度その言葉を聞いただろうか。そんな言葉はもうとっくに、嘘だと分かっているのに――――
「じゃあ、良かったらご褒美に本を頂戴」
「分かったわ」
鈴葉は手を振ってアクリル板の前を離れる。六十二番は部屋の隅に座り、本を開いた。
その少年は六十二番がいる部屋のアクリル板に両手をついて中を覗いていた。中の六十二番は、じろりと少年を睨む。
「鈴葉せんせー、この人、怖い」
少年は傍らに立つ鈴葉を見上げた。鈴葉は苦笑する。
部屋の中は本で埋め尽くされていた。六十二番は、階段のように積み重なった本の上に座り、虚ろな瞳で少年を見下ろす。
「この人、何歳? 何年くらいここに居るの?」
「そうね……彼は、二十五歳。もう二十年ここに居る」
鈴葉は少年の頭を撫でる。少年は必死に背伸びをして六十二番を見上げた。
「二十年。僕が、生まれるずっと前からなんだ」
「……おい鈴葉、何だその餓鬼は」
六十二番は険のある声で言い、本の上からアクリル板の前へと飛び降りる。既に幼い頃の無邪気さは何処にもなく、すらりとした痩躯はアクリル板の上端にまで手が届く。憔悴した顔に嵌っている双眸は、片方は黒曜石のように黒いが、左目は紅くなっていた。
「緝助君って言うの。私の知人の息子でね。この間小学生になったんだって」
「ここは託児所じゃねえだろ」
「良いでしょう、あなたを見せたかったの。私の自慢だもの」
鈴葉が笑うと、その目尻にはしわが刻まれる。六十二番は少年、緝助を見下ろした。その鋭い視線と色の違う双眸に、緝助はびくりとして鈴葉の背後に隠れる。
「それより、今月は何が欲しい? また本をお願いする?」
「……勝手にしろ」
六十二番は腕を組んでそっぽを向く。
「ね、それだったら、外出許可を願ってみようか。最近ずっと体調も安定してるし。検査での値も良いから、もしかしたら」
「許可が下りたことなんか、ないだろ」
「でもほら、その左目はスキル定着の兆候なんだし」
「っ!」
六十二番の拳が、アクリル板を叩いた。鈴葉はびくりとして笑みを引っ込める。
「スキル……? そんなもん俺は要らねぇんだよ、あんただってもう分かってんだろ!?」
六十二番はそう吐き出し、両の拳をアクリル板に当てて俯く。
「……ごめんね。また新しい本持ってきてあげるから。あなたのスキルが完成したら、きっと、外に出してあげるから」
鈴葉は緝助の手を引いて去って行った。六十二番は、積み上げられた本を見上げて唇を噛む。
白い検査着と、日焼けを知らない肌。白に埋め尽くされていた部屋は、今は雑多な色の本で彩られていた。積み上げた本に寄りかかって、何度も読み返した本をまた開く。
鈴葉や、他の研究者、そしてその『上』が幾ら機嫌を取ろうと本を与えても、六十二番は昔のように無邪気に笑えはしなかった。
投薬により、本来持ちえない力――――スキルを強制的に付加されるための実験体。失敗すれば死に、成功すれば死よりも残酷な永久の退屈と拘束が待っている。この研究所から出たことは無いが、自分ほど長くこの中に居る検体はもう居ないそうだ。
「……?」
本の向こうから音がし、六十二番は本の間を縫ってそちらに向かった。その向こうには、ここしばらく使われていない、部屋への扉がある。二重扉のそれは、二月に一度の検査の時以外は開かない。普段は、アクリル板の横の小さな扉から採血や注射を行うのが常である。次の検査まではまだ日にちがあった筈だ。
「……お前」
扉を押し開けて現れた人影に、六十二番は呆れたような顔になった。
「えへ、帰る前に、ちょっと会いたくて」
そこには、ランドセルを背負った緝助が居た。緝助は扉を閉めて床に正座する。
「改めて、初めまして。鳴上緝助といいます」
そして、深々と礼をする。その前にしゃがみ、六十二番は目を細めた。
「よく躾けられた子供だな」
「? えへへ。あなたのお名前は、何ですか?」
「……名前……名前は、無い。六十二番。そう呼ばれている」
「ええー? ろくじゅうに、じゃ人の名前っぽくないですー」
「じゃあ好きに呼べ」
「えっ……うーん、えーと……ああ、それじゃあ、あなたの担当の先生が鈴葉先生だから、さくなみさん、でどうですか?」
「……さくなみ」
六十二番は繰り返して呟いて、目を驚いたように瞬かせる。
「あっ……嫌、ですか?」
「…………さあ」
六十二番はそして、じっ、と緝助を見下ろした。緝助は不思議そうに首を捻る。
「……あっ! 僕、もうすぐ塾なんです。それじゃあ!」
緝助はランドセルに吊るしていた時計を見て言い、ばたばたと部屋から出て行った。
「……さくなみ……俺の、名前、か」
六十二番は胸元を握って俯いた。
金属の扉をノックする音が響き、既に聞き慣れた足音と声が入ってくる。
「さくなみさーん! さくなみさん、来ましたよー!」
本の山の向こうに立っているのは、小さい訪問者だ。六十二番は緝助に近付き、緝助は六十二番を見付けると顔を輝かせた。
「えへへ、今日も、先週の続きを聞かせてくださいねー?」
緝助はランドセルを降ろして六十二番に駆け寄り、座った六十二番の足の間に座って背中を預ける。六十二番は本を開いて緝助の前に出した。丁度、親が子供に読み聞かせをするような格好である。
「……お前は、本が好きだな」
「さくなみさんもでしょう?」
「俺は……どう、かな」
「僕は好きですよ、本! 読んでいる間は、世界中の何処にだって行けるし、魔法だって何だって使えると思えますから!」
屈託なく笑う緝助を見下ろし、そうか、と六十二番は呟いた。
自分が本をこれ程まで求めたのは、或いはその為だったのだろう。始めは勉強や知識欲の為だった。だが、次第に自分の立場を理解できるようになり――――ありもしない希望と外の世界を渇望して、本に逃げた。本の中の、綺麗なままで閉じ込められた世界に溺れようとした。
だが、所詮それは幻想なのだと気付いてしまえば、いくら本を読んでも満たされることは無くなる。自分が求めているのは本では無い。外の世界なのだ。
「……おい?」
気付けば、緝助は六十二番の足の間で眠っていた。六十二番は本にしおりを挟み、溜息を吐く。白い検査着を握ったまま緝助は体を丸め、穏やかな寝息を立てていた。
「……俺も、無知に戻れたら幸せなのだろうな」
六十二番は、その指先をそっと、緝助の頬に触れさせた。
鈴葉が研究していたスキルは、不完全ではあるが既に六十二番に強い影響を与えていた。曰く、それは人類の夢である不老不死を目指したものらしい。
「……人は成長して、老いるから、儚くてヒトらしいのに」
やわな肌は初めての感触であった。六十二番は本を置き、そのまま横になる。緝助を腕に抱えるように体を丸め、目を閉じた。
そうして、嗚呼、と六十二番は小さく笑う。
存外自分は、この生に絶望していないらしい。
◇ ◇ ◇
手に持った茶碗がすっかり冷えても、まだヒムロは黙っていた。サクサは冷えた茶を啜り、椅子に座る。閉めた窓を雨が叩き、廊下ではまたアクシスとゼロが日常茶飯事の喧嘩をしている声が聞こえる。
「……ここから先は、お子様にはきっつい内容だ。つまり俺は、お前達と違う、天性のスキルを持っていなかった……後から無理矢理に、この不老のスキルを植え付けられた」
サクサが言って、ヒムロは俯いたまま微かに口元を震わせる。
「それじゃ……あんたは、ずっとその姿のままなのか? もう、何年も?」
「ああ。俺のスキルは単純に、『老いないこと』。お前のスキルが『拒絶』なら俺は『生存』だ。人間の最も単純な本能――――だから恐らく、後天的なものでも定着しやすかったんだろうよ」
サクサは空になった茶碗を机に置く。
「……どうしてそんな、あっけらかんとして話せるんだよ」
「何で暗くなる必要がある。どれだけ不幸だろうと、乗り越えた過去は所詮過去に過ぎないだろう」
「でも……俺とは、まるで桁が違う」
視線を床に落とし、ヒムロは呟くように言う。
「俺はまだ何処かで……自分を、特別扱いして欲しかったのかも知れない」
「……誰かの悲劇を聞いて、自分の悲劇と比べるのはやめておけ。それが本当に悲劇かどうかなんて、本人にしか分からない。他人にとっては本に描かれた物語に過ぎない」
「でも実際、俺は、あんたみたいに強くなれない……どんな形だろうと、家族も、まともな生活も、力も、俺は全部持ってた、なのに」
「ヒムロ」
サクサはヒムロの隣に座った。そしてヒムロの肩を叩き、宥めるような口調で言う。
「お前が成長するのはまだまだこれからだ。お前には未来がある。悲劇だろうが何だろうが、何だって乗り越えて、強くなれ」
「……強く」
サクサの言葉に、ヒムロはぐっと唇を噛んだ。
「なあ、サクサ、俺にも、何かできることは無いかな」
ヒムロはサクサの胸元を掴み、ぐっ、とサクサに詰め寄る。
「俺はまだ弱いけど、スキルだったら強い。今のアザレア団の為に、何かできること、無いか?」
ヒムロの言葉に、サクサはしばし黙り――――それから、にやっ、と笑った。
傘の代わりにスキルを使い、ヒムロは路地を歩いていた。金属工場のフェンス沿いに、倉庫街とは逆へ、十分ほど歩く。フェンスに沿って折れると、片面が白い壁に変わった。今度はその壁に沿ってしばらく歩く。やがて、アスファルトの地面に白い雫が飛んでいる場所があった。ヒムロはその前で足を止め、白く塗り潰された壁を見上げる。
「……進まなきゃいけないんだ」
ヒムロはその壁に指先を当てる。指先で軽く壁を引っ掻くと、白い壁材が剥がれ、鮮やかな落書きの痕跡が現れた。
「……何度塗り潰されたって」
ヒムロは腕を降ろし、振り返る。周囲にはいつの間にか、黒い服を着た男達がヒムロを囲んでいた。皆一様に黒一色の背広にサングラスで、差している傘も黒い。
「旦那様がお呼びです」
男の一人が言い、傘を差し出す。ヒムロは俯いて目を閉じた。
このしがらみは、いつだって自分が道を外れる邪魔をする。自分はもうこの牢獄から逃げ出したというのに。
やっと手に入れたのだ。自分が自分のままで笑える場所を。望んだ愛情を貰える場所を。恋焦がれても諦めていた、そんな場所を。
「――――悪いな」
ヒムロがゆっくりと手を挙げて、男達が一斉に構える。恐らく父親が新たに雇った用心棒だろう。自分のことを知らされている可能性は高い。
「俺はあの場所を守る為なら、何だってしてやる」
ヒムロの左手が、水平まで上がった。男達は警戒するようにゆっくりと、しかし着実に距離を詰め―――――
「残念、そこはもう、俺の領域だぜ」
暴風が吹き荒れた。
否、それは正確に言えば、自然現象の風では無い。ヒムロが自分の領域内に巻き起こした空気の奔流だ。
男達が怯み、ヒムロはその場で跳躍する。隙間なく詰めていた男達は、その行為を見るや一斉に飛びかかってきた。
ヒムロはスキルで壁を掴み、そのまま自分の体を空中に放り投げる。そうして高い壁の上部、有刺鉄線の上に着地した。
分厚いゴム底の靴が有刺鉄線を踏み、ヒムロはそのまま塀の上を走り出す。スキルが無ければ不可能な行為である。戸惑ったように塀の横を追いかけてくる男達を引き離そうと、ヒムロは手を振った。断ち切られた有刺鉄線が、男達の行く手に垂れ下る。
サクサの御下がりである黒いロングコートは、ヒムロには少々丈が長い。走っている間は気にならなかったが、足を止めると足首近くまでをすっぽりと覆っていた。ヒムロはフードを被って夜闇に浮かぶ白髪を隠し、ポケットから折り畳んだ紙を取り出す。
「ええと……どっちだ」
そこには、簡易の地図が書かれていた。ヒムロは高い場所を探して屋根の上を走り出した。一帯で一番近場のビルの屋上に上ると、大都市の灯りと、その中にぽっかりと開いた穴のような裏路地が一望できた。
金属工場と、その周辺の大通りは裏路地と言えど多少灯りはある。だがそれ以外の住宅地は闇に閉ざされ、傍らの歓楽街の光が余計にそれを際立たせていた。地上に立ったときは、裏路地から出た瞬間の景色の鮮やかさに圧倒される。だが俯瞰から見るとその光は、傍らの闇を闇として成立させ、切り離す為だけのものにしか思えなかった。
ブーツの踵をビルの端に引っ掛けて体を揺らす。風にコートが翻るその姿は、夜闇に溶けようとする鴉のようにも見えた。
歪な街の、片隅。繁栄から切り離された、闇の逃げ場。そんな場所だからこそ、自分達のようなスキル保持者が―――――社会に、存在すると認められない者が存在していられる。あの場所を、失って堪るものか。
ヒムロは目を瞑り、大きく息を吸う。そして再度、黒いコートを翻らせて走り出した。
窓をノックする音に、シランはベッドから起き上がった。そして、小さな窓を開く。
「……ヒムロ!? って、ここ三階」
「しっ。助けに来たぜ、シラン」
ヒムロは口の前に人差し指を立てた。シランは驚いたように目を丸くする。
「でも……どうせ、アザレア団に戻っても私は裏切り者、」
「シランが裏切るはずないって、サクサが言ってた」
ヒムロは窓枠を掴んで身を寄せる。シランは目を瞬かせ――それから首を横に振った。
「帰れないよ。ここに居たらヒムロも危ないから、早く帰って」
「……それじゃあ、サクサから伝言」
ヒムロは手を伸ばし、シランの頬をつねった。シランは体を硬直させる。
「『言い辛いことなら俺が聞いてやるから、さっさと戻ってこい、馬鹿』」
ヒムロが言い―――シランは、その手を掴んで涙を浮かべた。
「……ヒムロ」
「な……何だよ」
シランは無言で、ヒムロを抱き寄せた。驚くヒムロをよそに、そのままシランはヒムロを窓から引きずり込む。ベッドの上に折り重なって倒れると、がしゃん、と、金属がこすれ合う音がした。
「……シラン、それ……」
ヒムロは、街灯の反射光に照らされたその音の正体を見て顔色を変える。
それは、シランの足に繋がっていた。丸い金属の輪がシランの足首にはめられ、南京錠で閉じられている。そこから伸びているのは、太い鉄の鎖だ。
「帰りたい、本当は帰りたいけど……でも!」
「シラン」
ヒムロはシランの肩を掴んで自分から引き剥がした。普段余裕の笑みを浮かべている少年のような顔は、涙でくしゃくしゃに濡れている。
「……逃げよう。後先なんか考えなくていい、今は、逃げよう……な?」
ヒムロはそして、真っ直ぐにシランを見つめて言った。
緝助へのメールを送信し、サクサは壁の写真を見上げた。
「……サクサ、いるか?」
「ああ」
ドアを開き、遠慮気味にアクシスが顔を覗かせる。
「あの……」
「何だ?」
「……謝っておきたくて」
「それならゼロに言え。明朝から作戦開始だ、寝ておけ。お前らには沢山働いて貰わなきゃいけないからな」
「……分かった」
アクシスがドアを閉めて、サクサはベッドに座って溜息を吐く。
「……鈴葉、一体いつまで待てば、もっとましになるんだろうな。……案外、スキルなんか、存在しないほうが、良いのかも知れないな……」
サクサはそう言ってから、はっとして、ぱんっと両手で自分の頬を叩いた。