SHOT.2 ヒムロ
母親が死んだ後、ずっと父親に育てられてきた。だが父の顔は実はおぼろげにしか覚えていない。父にも母にも似ない白髪と藍色の目を嫌われて、顔を背けられ続けてきたからだ。
近くにあるものを自由自在に操作する能力。それが、自分が背負っていた『呪い』であった。日の光の当たらない地下室で、少しずつ『呪い』の力は高まり、遂には容易く人を殺せるまでになった。いつから使えるようになったかは覚えていない。しかし、この力があれば、父の願いを叶えることはいくらでもできた。父が嫌う誰かを、自分が、殺すことで。
だから、その力が、父と唯一繋がっていられる手段であった。
人殺しなど怖くはない。自分が汚れて父が喜ぶならそれでいい。決して見ることは叶わないが、その笑顔の残滓と褒め言葉さえ、与えられれば。何も知らなくていい。自分の『呪い』の正体など知らなくていい。
――――それで、良かった筈なのに。
「これでいいって思考停止してるのは楽だろうさ―――だが、そろそろ目を覚ます時間だ」
突き付けられるような言葉に、少年は自分の手を見つめる。
雪のように白い髪と、深い藍色の目。母親以外の誰も、綺麗などとは言わなかった。その母は、自分がこの『呪い』で、殺してしまった。
『ここじゃお前をそういうふうに特別扱いする奴は居ねえよ』
サクサの言葉通り、確かにアザレア団の子供達は誰も自分を避けようとはしなかった。突き放そうとしたのは自分の方だ。
「……俺は確かに、知らないことが多すぎる」
ぽつり、と、俯いて少年は言った。そして、覚悟を決めたようにサクサを見上げる。
「アザレア団に入れば、スキル、とやらについて教えてもらえるんだな?」
「まあ多少はな。アザレア団にスキル持ちが多いってだけで、別に専門家じゃないが」
「……なら、俺は、まだ死なない」
少年はそして、ゆっくりと立ち上がり、サクサを睨み上げる。
「アザレア団に、入る」
「……よく言った」
にやっ、とサクサは笑い、ナイフを引いた。
「そうと決まればコードネームを決めないとな。俺が決めてもいいか?」
「……別に、良いけど」
「じゃ、お前は今日から『ヒムロ』だ。ヒムロと名乗れ」
サクサは少年の前に屈んで視線を合わせ、微笑んで見せた。
「ヒムロ?」
「ああ。お前のその綺麗な目と雪みたいな髪にちなんで。不満か?」
「……別に」
ふいっ、と少年―――ヒムロは顔を背けた。
「それじゃあ、アザレア団に入団して最初の任務だ」
サクサが体を起こし、ヒムロは驚いたようにそれを見上げる。
「も、もうか?」
「誰でも通る道だ。まあまずアザレア団の説明をしてやるから、それをちゃんと聞くことから始めるか」
サクサはそして、昏倒したままの男に椅子のように腰掛ける。
「アザレア団は、現在構成人数が三十二人。リーダー三人、参謀が二人。それと、会計、食料、情報、戦闘、下っ端に班が分かれてる。まあ誰が何処の所属かはその内分かるだろうから覚えていけ。まず頭に入れるのは三人のリーダーと二人の参謀のことだけでいい」
「……リーダーって、あの……眼鏡の?」
ヒムロは膝を抱えてサクサを見上げる。サクサは膝に腕を乗せ、ロングコートのポケットに手を突っ込んだ。
「リーダーは、『AXIS』『ZERO』『MEIS』の三人だ。名前は勿論コードネームだが、まあ誰も本名を滅多に使わねえからこれで覚えればいい。参謀は、俺とシラン。オセロやってたあいつだ」
ひょいっ、とサクサはポケットから取り出したものをヒムロに投げた。ヒムロはそれを両手で受け止める。それは色鮮やかな包み紙にくるまれたキャンディであった。
「スキルについての説明は後でする、長くなるからな。とりあえずこれだけは言える」
サクサはそして、ヒムロの顔を指差して視線を鋭くした。
「その力は『呪い』じゃない。忌み嫌われるようなもんじゃない。お前の只の『個性』だ」
「……個性」
そう、鸚鵡返しに呟いて、ヒムロは目を微かに見開いた。
「……さて、それじゃあ一旦腹ごしらえとするか。結局昨日の晩飯も食ってねえだろ」
サクサが膝に手を当てて立ちあがった。それに呼応するようにヒムロの腹が鳴る。サクサは笑ってヒムロに手を差し出した。
「丁度朝飯の時間だ」
ヒムロはサクサの手を握ろうと手を差し出し、しかしその手が触れる寸前で躊躇するようにその手を一度止め、それから拳を握って手を引いた。サクサが片眉を上げてヒムロに背を向ける。ヒムロはサクサのコートを軽く摘まんだ。
白い路地を出ると、大通りの喧騒が近かった。サクサは煙草屋に近付き、ポケットから小銭を取り出して店先の公衆電話に近付いた。
「ちょっと待ってろ」
サクサは小銭を公衆電話の上に積み上げ、十円玉を三枚入れてボタンを押す。
「……ああ、俺だ。サクサだ。……ああ大丈夫、うん……それでアクシスは……」
相手の声は聞こえないが、恐らくアザレア団の誰かだろう。ヒムロはサクサの傍らに立って壁に背を預け、視線を落とした地面の小石を蹴った。
「……よし、了解した。一時間後だな」
がしょん、とサクサは受話器を置く。その音に、ヒムロは顔を上げた。
「待たせたな。朝飯、何がいい?」
「……まともだったら、何でも」
「そうか。じゃあちょっと豪勢に肉でも食うか」
歩き出したサクサのコートをまた掴み、ヒムロは長身のサクサに合わせようと歩調を速めた。
「……まあ歩いてる間暇だろうし。質問があれば受け付けるが?」
サクサが唐突にそう言って、ヒムロはサクサを見上げた。
「じゃあ……その、この、呪い……じゃなかった、スキル、アザレア団では当たり前みたいに使ってるのか?」
「まあな。と言っても、スキルの存在自体がこの社会じゃどうやらご法度なんだ。だからほかの人間には存在がばれないようにしてるが」
「何でだよ?」
「お偉方の考えは俺みたいなたかが……あー……街の不良少年には分かりませーん」
「……お前、年は?」
「一応十九ってことにしてある」
含みのあるその言い方に、ヒムロは唇を曲げる。だが、特に詮索はせず次の質問を考えた。
「最年長とかって、誰なんだ?」
「十九歳が何人か、それが最年長だな。一応リーダー三人と俺でアザレア団を立ち上げた。裏路地にはほかにもギャングが居るし、成人した中にはカタギの仕事にツテを持ってる人もいるから、そっちに頼み込んで離脱した奴もいるが。現団員ならそんなもんだ」
「ふーん……じゃあ、サクサのスキルって」
サクサが足を止め、その背中にぶつかってヒムロは言葉を切る。
「ここにするか……ん?」
「あ、いや……何でもない」
額をさすってヒムロは顔を逸らした。サクサは「そうか」と言って、フライドチキンをメインとしているそのファストフード店に入る。ヒムロは黙ってそれに従った。
店に入ると、登校前の学生やサラリーマンなどの姿がちらほらと見えた。ヒムロは先に飲み物を受け取り、二人掛けのテーブル席に向かう。そうして椅子に座ると、急に空腹が強くなったように感じた。
だが―――ふと落ち着くと、途端に周囲の視線が突き刺さるのを感じた。
「……あの髪……」「目の色も……」「顔は……」
抑えているつもりなのだろうが、ひそひそ声であっても案外聞こえるものである。ヒムロは俯き、緩く唇を噛んだ。アザレア団の皆が普通に接してくるので忘れていたが、自分は特異な外見をしているのだ、好奇の視線は自然と集まる。ヒムロは俯いた。
「ヒムロ」
テーブルにスコーンとフライドチキンを置き、サクサが声をかける。
「……サクサ、やっぱり俺……うわっ!?」」
「着てろ」
ばさっ、とサクサはロングコートをヒムロに被せた。
「何すんだよ、おい……って汗臭えし!」
「悪かったな。黙って食え」
サクサは顔を顰め、スコーンを口に放り込んだ。ヒムロはしばしむっとして頭に被せられたコートを掴んでいたが、フードを被って袖を通し、フライドチキンを掴んで口に押し込んだ。それから一口飲みこんで、目を丸くして瞬かせる。
「……美味いか?」
「……ん!」
口いっぱいにフライドチキンを含み、ヒムロは頷いた。サクサは頬杖をつき、フライドチキンを一つ取ると、残りのチキンとスコーンはヒムロの方へと押しやった。
「……本当に皆、同じ反応しやがって」
苦笑を零してサクサが言う。ヒムロはそれに構わず、スコーンとフライドチキンを平らげ、オレンジジュースで全てを飲み下した。
「ぷはっ……美味かった」
満足そうにヒムロが笑みを零す。サクサはその様子にまた苦笑を零した。
「腹いっぱいになったか?」
「ああ」
「それじゃ、行くか」
「何処にだよ?」
トレーを持って立ち上がり、ヒムロは首を傾げる。
「お前の家だよ」
「……へっ?」
「言っただろ、アザレア団最初の任務だ」
そしてサクサは、にやっ、と、悪戯っぽい笑みを見せた。
「盛大に歓迎してやるよ、新入り君」
白い壁とフェンスの路地には、鼻を衝くようなつんとした臭いが充満していた。朝方倒れていた男達は流石に居なくなっていたが、代わりに、見覚えのある子供達がずらりと揃っていた。
「早いな、皆」
苦笑してサクサが、子供達―――アザレア団の面々に駆け寄る。その先頭に居たのは、眼鏡の青年、ゼロと、茶髪の少女メイスだ。
「アクシスは?」
「バイトで疲れたからって、寝ているわ。起こそうとしたら怒られちゃって」
メイスが笑って、ゼロは溜息を吐く。
「歓迎会を奴抜きでやったと知れたら、何と言うか……それで、バイトだの仕事だのが入っていない面々を連れてきたが、足りるか」
「ああ、十分十分。それじゃ改めて」
サクサが振り返り、ヒムロを一同に向けて押し出す。
「今日から正式にアザレア団に入ることになった、ヒムロだ。ホレ挨拶」
「え、あ、とっ……よ、よろしく、お願いします」
ヒムロは慌てて頭を下げる。ぱらぱらと拍手が返ってきた。
「それじゃあやるか! まずガムテープ部隊出ろ!」
茶髪を短く刈り込んだ青年が、指先にペンキの缶を引っ掛けて肩に担ぎ、一同を振り返った。サクサがヒムロに小声で「ヤマトだ」と教える。奥の方から、細長い棒―――箒の柄のようだ―――に数個のガムテープを通したものを持ったイカルガが出て来る。
「何と書きたい」
「『参上』! 僕参上って書いて欲しいなあ!」
手を挙げてひょこひょことイカルガがジャンプする。「いいだろう」とゼロはガムテープを手に取った。
「じゃあ俺も『夜露死苦』って書きてえなあ。ゼロ、書けるか?」
「画数が多いから却下だ」
ヤマトの申し出をにべも無く断り、ゼロがガムテープを切る。そして無造作に白い壁に貼りだした。
「えっ」
驚くヒムロをよそに、アザレア団の数人は次々とガムテープを壁に貼りつけてゆく。
「あ、あの……ここ、監視カメラが、」
「今頃エイドが……情報班の奴が偽の映像流してる頃だろうさ、ジュースでも飲みながら」
あっさり言って、サクサもガムテープ部隊に加わった。
「やっぱり『アザレア団』は必須だろー?」「じゃあそれを一番でっかく書いてー」
べたべたとガムテープが白い壁を区切って行く。ヒムロは呆然としてその光景を見詰めていた。
「よっし、こんなもんか」
ヤマトが鼻の下を擦って、持っていたペンキの缶を地面に置いた。充満していた臭いの正体はそれらしい。ヤマトが缶の蓋を開けると、その臭いがひときわ強くなった。
「ヒムロ、こっち来い!」
名を呼ばれて、肩を竦めてヒムロはヤマトの隣に向かう。ヤマトは腰に手を当ててヒムロを見下ろし、にっ、と笑った。まだ少しばかり幼さの残る顔に、太陽のような笑顔がよく映える。
「戦闘班班長のヤマトだ。期待してるぜ新入り君」
「……あ、はい……?」
「さぁーてそれじゃあ、いっちょ派手にやるぜぇい!」
ヤマトはそして、ペンキの缶を掴んで、振り返りざま思い切りそれを振り抜いた。
「えっ!?」
真っ赤なペンキは缶から零れ、白い壁にぶち当たって弾ける。それを合図と言うように、ローラーや刷毛を持った団員達が、一斉に壁にペンキを塗りたくり始めた。
赤の上に青を塗り、黄色をぶちまけ、緑を振りかける。白の飛沫が散ったかと思えばすぐに紫に塗りつぶされ、と、白かった壁は瞬く間に鮮やかに、そして無秩序に染められていった。呆気にとられて立ち尽くすヒムロの手に、サクサがペンキの缶を持たせる。
「お前もやれ」
「……でも、」
「お前はもうアザレア団だろ? この家の人間じゃない」
「……そう、だな」
ヒムロはそして、ペンキの缶を開けてその中身を見詰めた。たっぷりと、濃い青のペンキが詰まっている。ヒムロは、自分の目に似たそのペンキの上に映る歪んだ顔を見つめて大きく息を吸う。ペンキの強い臭いが、ヒムロを眩ませた。
「うおおおおおおおおおらああああああああっ!」
叫び声と共に、ヒムロは一同を押し退けるようにして一番前に出、それからペンキを思い切りぶちまけた。
巨大なしずくの如く飛び出したペンキが、壁に当たって弾け、壁の白を消してゆく。
ぱちんっ、と、自分の奥で何かが弾けたような気がした。引き攣っていた口元が歪み、自然、笑みが浮かんでくる。
腕を振り抜いた反動で、体が後方に倒れる。それをサクサが受け止めた。がらんがらんと空になったペンキの缶が地面を転がる。
「気張り過ぎだ、馬鹿」
サクサが笑い、その顔越しに、呆れるほどに晴れ渡る狭い空が見えた。
昨日の曇天が嘘のような青空であった。駆け寄ってきたヤマトがヒムロの髪をわしゃわしゃと掻き回す。
「よくやったな新入り! カッコいいじゃねーの!」
「わっ、ちょ、ペンキが!」
「汚れろ汚れろ! お前の歓迎会なんだからお前が一番はしゃげ!」
ヤマトに首根っこを掴まれ、ヒムロは立たせられる。そして手に、たっぷりとペンキが染み込んだローラーを握らされた。
サクサに背を押され、ヒムロは一同の中に放り込まれる。ペンキ塗れの手でべたべたと触られ、あっという間にヒムロもペンキだらけになった。
まだら模様に染まった白髪に、ヒムロは笑うしかない。血と違い、ペンキは髪同士がべったりとくっついて酷い臭いがした。だが、血のように、深く沁み込んでくるものではない。
「それじゃあ仕上げにするか」
ゼロが手を叩き、落書きを続けていた子供達が退く。ゼロに手招きされてヒムロは一番前に出た。ゼロは壁に手を伸ばし、最初に貼ったガムテープの端を示す。
「届かないところは俺がやろう。剥がせ」
「……分かった」
ヒムロは手を伸ばし、ガムテープを剥がしてゆく。ペンキの下から、まっさらな白い壁が現れた。
「よし、完成だ」
ゼロは剥がしたガムテープを丸めて、ペンキの空き缶の横に放り投げた。
無秩序で、清々しいほどに乱雑な落書きに、真っ直ぐな白い線で文字が描かれている。それは余り『美しい』とは言い難いものだったが―――満足そうにゼロは腕を組んで頷く。その隣で、ヒムロはまた呆けたような顔になった。
「……おい!」
鋭い声が、路地の向こう側から聞こえてくる。慌てたようにヤマトは振り返った。
「やっべ、嗅ぎつけられたぜ」
「撤退だ!」
ゼロが怒鳴り、一同は一斉に声とは反対側に走り出した。唯一サクサだけが、その流れに従おうとしたヒムロの、フードを掴んで引き留める。
「わっ!? 何だよ、」
「あれ親父さんだろ」
サクサに言われ、ヒムロは息を飲んだ。
「この悪ガキ共、何をしている!」
路地の先、髪をオールバックに撫でつけた初老の男が、そう怒鳴りながら立っていた。ヒムロは表情を硬くし、小さく頷く。
「おいサクサ、早く」
「先行ってろ。大丈夫、手間はかけねえよ」
サクサに言われ、ゼロは一瞬悩むような顔になったが、すぐに舌打ちをして踵を返す。メイスが先導し、サクサとヒムロ以外はすぐに路地の奥へと消えていった。
「……お前は、」
近付いてきた父親は、ヒムロを見下ろして顔を露骨に顰めた。サクサはヒムロを自分の背後に隠し、父親と対峙する。
「一言言っておかねえといけねえと思ってな」
「何だ……帰ってこないと思ったら……逃げ出したか、死んだかと思っていたが」
父親は、ヒムロを睨み据えたまま吐き捨てるように言った。父親の冷徹な視線に、ヒムロは唇を噛み、サクサの服を掴む。サクサはその視線を遮るように父親の前に進み出た。
「あんたの『武器』、俺達が貰って行く」
それだけ言い残し、サクサは踵を返す。だが当然、父親がそれに噛み付いた。
「待て! お前が攫ったのだな? たぶらかしているのだろう、警察に」
「警察に言われて困るのはあんたの方じゃないのかい、議員さん」
ずいっ、とサクサは父親に向き直って顔を近付ける。父親は言葉に詰まった。
「確かに俺達のしたことも、してることも犯罪だ。だがだからといって、あんたにそれを正す資格はあるか? 殺し屋を雇って、こいつを殺そうとした癖に」
サクサの指先が、父親の喉元に触れた。
「しかし、誘拐は事実だ。専属の弁護士を雇って」
「確かにあんたの力ならそれができるだろうし、残念ながらその方法は違法じゃない。ヒムロの口さえ塞げば、殺人依頼も揉み消せる。あとは適当に、少年法の適用を求めて自分は知らんふり、か? 役所にスキルの登録申請はしてたし、保護観察も受けていた。自分の悪事を握り潰して悲劇の父親を演じれば大団円、だな」
「分かっているのなら、」
「但し」
ぐっ、とサクサの指先が喉元に減り込む。父親は言葉を切って後ずさり、喉元を押さえた。サクサはしかしすぐに距離を詰めて父親の目をねめつける。
「それは俺達『アザレア団』に喧嘩を売るってことだ。流石に国家権力には抗えねえが、あんたの首を落とすくらいは簡単にできる。自分の身が可愛いなら……分かるよな?」
「……もういいよ、サクサ」
ヒムロはサクサの服を引っ張り、振り返ったサクサの前に出る。そして、鋭く父親を睨み上げた。父親は一瞬ひるんだ顔になるが、すぐに屈んでヒムロに視線を合わせ、口元を緩めて笑みを取り繕う。
「……お前だって、こんな薄汚いやつらより」
「父さん」
途端に柔らかい声音で懐柔にかかった父親の言葉を遮り、ヒムロは薄い笑みを浮かべた。
「父さんは俺を愛してくれなかったよね」
ヒムロはそして、青いペンキに塗れた手を、父親の左胸に触れさせた。
「母さんが死んだあの時、お前の呪いのせいだって言ったし……折角母さんが付けてくれた名前だって、一回だって、呼んでくれなかったよね」
父親は、顔にはっきりとした恐怖を浮かべて硬直していた。サクサはゆっくりと数歩退く。ヒムロは目を細め、俯いて掌を父親の胸で滑らせる。細く白い指先は、青や赤のペンキで染められていた。その手や手首は折れそうなほどに細く、骨が浮いていた。
「でも――――それでも俺は、父さんを愛していたよ」
「……え、」
顔を上げたヒムロの、美丈夫な顔いっぱいに、朗らかな笑みが浮かぶ。父親は驚いたように目を見開き、両手をヒムロの細い肩に伸ばして―――――
「――――なぁんて言うかよ、馬ぁ鹿」
吹っ飛んだ。
何の前触れも無く、父親は胸を突かれたように体を折り曲げ、二メートル程吹き飛ばされてから仰向けに落下した。鈍い落下音がして、父親は呻く。
「調子いいこと言いやがって、二度と俺の前に姿現すんじゃねえよクソジジイ、あわよくば早死にしろ!」
一気に吐き捨て、そのままヒムロは踵を返してずかずかとサクサの横を通り抜けていく。小さく笑い、サクサはその後に続いた。
「よくやったなあ、派手に」
「うるせぇ」
「まあうまいこと吹っ切れたんならそれでいいが」
「うるせぇ……!」
「泣いても良いんだぜ?」
「うるせぇって言ってんだろ!」
怒鳴って振り返ったヒムロの腕を掴み、サクサはヒムロを引っ張って肩に担ぎあげる。
「ぅえっ!?」
「さあ帰ろう。泣いてたらからかわれるぜ。誰も見てない内に泣いとけ」
「……うるせぇよ……っ!」
ヒムロは、着せられていたロングコートのフードを掴んで目元まで引き下ろした。
「……家族だもんな。俺には分からねえけど、そりゃあ、泣きたくなるもんな」
「………………」
「でも、これからはアザレア団がお前の家になるから。じき馴染むさ」
「……は?」
「ギャングらしくないって、よその幹部にはよく笑われるよ。だが、帰る家が無い奴ばっかりだから、しゃあないよなあ?」
サクサが笑い、ヒムロは唇を噛んで黙る。
「あー、何か腹減ってきたな。昼飯、何がいい? 食料班の奴にリクエストしておく」
「……えっと、」
ヒムロは肩に担がれたまま、サクサの服を掴んで顔を埋めた。
「……カレーが、いい」
「分かった」
サクサが歩く速度を上げて、すぐに父親の姿が見えなくなる。途端に涙が出そうになって、必死にヒムロは唇を噛んだ。
「今帰ったー……って危ねえっ!」
アジトの入り口のドアを開けると同時に、サクサを何かが襲った。咄嗟に体を屈めてそれを避け、ヒムロは振り落されそうになってサクサに掴まる。サクサはドアにぶつかって弾けたそれを拾い上げた。それは半透明の半球が二つ繋げられていたようで、割れた中からはオレンジ色のペンキが零れていた。
「お前ら何やって……何だこれ、カラーボールか?」
「余ったペンキを、リリアが改造してくれたんだー」
頭に色とりどりのペンキ玉を入れた籠を乗せ、イカルガが笑ってサクサに駆け寄ってくる。サクサはヒムロを降ろし、呆れたような顔になった。
「お前らなあ……折角買ったペンキで、アジトを汚してどうする?」
「掃除はするよぉ、ね、ヒムロも遊ぼうよ!」
ヒムロは頭に手をやって起き上がり、イカルガに手を引っ張られて子供達の輪の中に入って行った。その様子に苦笑を零し、サクサはがりがりと頭を掻いた。ヒムロは助けを求めるようにサクサを振り返ったが、サクサはひらひらと手を振ってそれを見送った。
「……まあ、後先考えてもしゃあないか」
サクサはそして、ヒムロのリクエストを伝えるべく、ロビー横の厨房へと向かった。