雨と目薬
今日は朝一から授業の為に早く目覚めた。いつもよりも早起きのせいか、頭がクラクラする。早くブラックコーヒーを飲まなくては。
リビングへと降りると、父が朝刊を読んでいた。
「おはよう。今日は早いな。」
「おはよう。今日は一限目から授業なんで。」
トースターにパンを入れ、インスタントコーヒーの粉をカップに入れる。お湯を入れると、苦い香りが辺りに漂った。
「そういや、千穂は起きたの?」
「日直で、もう家を出たわ。」
母がサラダと目玉焼きを運んで来ながら答えてくれた。卵の黄身を割って、中に醤油を入れ込む。父はメタボリック気味のお腹に乗ったパンくずを時々取り除きながら、目玉焼きを乗せたトーストを齧っていた。
サラダにマヨネーズをかけてしゃくしゃく食べる音と、皿を洗う音と、新聞紙をめくる音が続いた。
父はトーストを食べ終わると、カップに入れたインスタントコーヒーの粉末にお湯をかけ始めた。苦い香りが一瞬立ち込めたが、すぐにガムシロップとミルクの匂いが加わり、部屋中に甘い香りが立ち込めた。目の周りを揉み解しながら父は言った。
「ちょっと目が霞むなあ。」
「老眼?」
俺の問いかけは鼻で笑われた。
「馬鹿言え。もう少し大丈夫だろ。」
父は立ち上がって棚から目薬を取る。
「私が目薬を点そうか?」
母の提案を軽く首を振って断った。目薬を箱の中から取り出し蓋を取る。緊張した空気を一瞬だけ作り、俺達は固唾を飲んで見守った。目薬が一気に搾り出される。案の定、瞼に阻まれて目薬が溢れている。慌てて救援を求めたが手遅れだったようだ。三人とも深い嘆息を漏らした。
「お父さんたら、涙を流しているみたい。」
「くそっ。泣いてなんか。」
「だから私が点そうかって言ったのに。」
「子どもの前で目薬点してもらうのは、恥ずかしいじゃないか。」
「目薬を溢れさせる姿の方が見たくなかったよ。」
母は顔をタオルで拭いてあげた後、ソファーに座り、太ももを二度叩いて父を見た。顔を赤らめながらも父親は素直に頭を乗せた。
「ほら、目の力を抜いて。」
「うん。」
幼児を諭すように言う。その後、瞼をカッと開かせて一滴、目に潜り込ませた。
「ありがとう。綺麗なお前の顔がよく見えるよ。」
母はニコニコと笑った。両親の間に微妙な空気が流れたが、トースターの景気のいい音に遮られた。
父はスーツのズボンにお腹を押し込んでネクタイを締めた。この瞬間は格好良く見える。
「いってらっしゃい。今日も頑張ってね。」
「いってきます。ありがとう。本当にお母さんの言葉は薬よりも良く効くよ。」
家の中に甘い香りを残して父親は会社に向かった。母は甘い興奮から、何故か俺の肩を叩いて鼻歌交じりに家事に取りかかる。家から溢れるほどの甘い香りに、俺は胃もたれしながらも苦いコーヒーで中和した。
大学の授業は特に何もなく順調で、強いて問題を挙げるならば、講義中にお腹が鳴ったことだけだった。
大学の昼休みの時間。大食堂で悩んだ挙句、牛肉の代わりに豚肉を用いた豚牛丼を食べていると、後ろから肩を叩かれた。
「相席いいかな。藤咲君。」
「もちろん。」
声の主は小林君だった。丸いメガネのレンズをつなぐブリッジを中指で押し上げている。小柄な体格に似合わない大きなカメラが首にぶら下がっていた。
「時和は?」
「さあ。大方、彼女とよろしくやってるんだろ。」
「あ、彼女出来たんだっけ。」
「ああ。そういや小林君はどうなの?」
彼は、口元に笑みを湛えながらも何も言わなかった。対面の椅子に静かに座り、牛乳パックにストローを刺した。唐突に彼の口が開く。
「勝負をしないか。」
「え、何の?どちらが先に彼女を作るか?」
「写真での勝負だよ。空を撮るんだ。課題なんだけど、張り合いが欲しくて。」
「面白そうだな。乗った。」
豚牛丼をかき込み、曇り空の下に出た。
勝負の概要はこうだ。範囲は大学の構内の中だけ。制限時間は一時間。カメラは携帯で撮ること。
「それじゃ、始めよう。」
小林君の掛け声を合図に、勝負は始まった。
空を撮るのも、色々な撮り方があると思う。面白い雲の形や虹などの空自身を撮るか、空が目立つようにしながらも建物や動物を映り込ませるか。あちこち歩き回るが、なかなかいいと思える風景はなかった。時間が少しづつ過ぎていく。今では短く感じられるようになった一時間がひしひしと迫って来ていた。歩き続けて汗が額から溢れ、働かなくなってくる。ジンジャーエールが飲みたかった。
悩みながらも空に携帯を向けて、画面に映る自分に対して一人ごとを言っていた。
「まったく、呪いのように魅入る空だよ。」
構内では気の早い蝉が既に鳴き始めていた。桜も既に散って、葉桜となり、周囲の木々と青く調和している。雲は低い所を悠々自適に漂っていた。今日もかつてと同じく自由だった。
幼い頃からの不安というのは年を重ねるごとに積もっていくものだ。毎日の不健康な炭酸飲料が自分の健康を蝕むように。日々を織りなすどうでもいい言葉の端々が自分の心に細い傷をつけるように。そうして降り積もっていく。幼い頃は幼いなりに。老いた時は老いたなりに。恐ろしいのは、それが耐えられなくなった時だ。
身体が酷く冷たかった。なのに手は温かい。自分の全身を通り過ぎていく水玉模様は、汗だろうか。耳元で大きく自分の事を呼ぶ声がする。はっと気がつくと、辺りは雨に包まれていた。目の中に沢山の雨が入り込み、溢れていた。
「どうしたんだ。雨の中、立ちすくんで。」
最上さんが俺の手を握っていた。
「あ、ああ。申し訳ない。考え事をしていたんだ。」
「そういうのは屋根のあるところでしてくれ。」
最上さんに手を引っ張られ、近くの自販機のある休憩所に連れていかれた。彼女も全身雨に打たれていた。タオルで艶やかな髪の毛を拭いている。
「天気予報では雨なんて言ってなかったのに。」
「そうだね。」
「なんで、雨に打たれてたのか教えてくれる?」
「小林君とね、勝負をしてたんだ。写真を撮る。それで、あれこれ考えているうちに。」
「降られたと。」
「そう。」
彼女は、呆れた顔をして、タオルを渡してくれた。
「少し湿っているが、無いよりマシだろう。」
タオルを受け取って、自分の身体を拭く。雨の中、突っ立っている様子を何人に見られただろう。自分の間抜けな姿を想像し、頬が熱くなった。
思いがけない大雨に、小林君との勝負は一時休戦になった。しかし、彼は雨は雨で写真を撮りたいと、構内を散策し続けている。俺は最上さんと一緒に食堂へ来た。ここで、雨が止むのを待ちつつ、服がある程度乾くのを待とうという魂胆だ。食堂の中にある扇風機の前に陣取る。
最上さんはレモン豆乳の紙パックを購入し、俺の前に座った。俺はいつもの炭酸を飲んでいた。
「で、これからどうする?」
「どうしよう。最上さん。」
突如出来た空白の時間に、少し戸惑っていた。
「最上さんだったらさ。どんな写真を撮る?」
「空のだろう?そうだなあ。」
彼女は長い髪を耳にかけ、目を軽く閉じて思案していた。
高校生の頃は女神の立ち位置にいた彼女だ。しっとりと濡れた髪に薄く紅色に染まった白い頬。その絵画のような美しさは二十歳を超えても未だ失われていなかった。
「私、虹が架かっている写真が好きだな。」
「ああ、綺麗だもんね。虹。」
君の方が綺麗だよというキザな台詞が脳裏に浮かんだが、口に出すのは止めておいた。最上さんは更に続ける。
「雨が降る直前のムッとした重苦しい空気が、冷たい雨によって綺麗に流された後に浮かんでいる。」
「詩的だね。」
「あ、やめてくれよ。恥ずかしい。」
彼女は紙パックにストローを静かに挿入し、口に含んだ。直後、向かって右の眉がピクリと動いて俺に差しだした。
「これ、美味しいよ。飲んでみてくれ。」
「え、でも、あの。そしたら。」
「どうした?」
有無を言わさず、口の中に突っ込まれた。一口吸うと、鶏の唐揚げにレモンをかけたような衝撃が口の上に走った。豆乳を飲んだことが無かったので、美味しいとも不味いとも言い表せなかった。
「程良い甘みだね。」
そう言葉を濁した。最上さんは満足げな表情を浮かべていた。
雨は一過性のものだったようで、雲の間から陽が射して来ているのが食堂のガラス越しに見えた。小林君から勝負続行とメールが来ていた。最上さんにそれを伝えると、
「私で良ければ、君を手伝わせてくれ。暇なんだ。」
と俺の目を見据えて言った。こうして俺に仲間が出来たのだった。
雨が降る直前のムッとした重苦しい空気が、冷たい雨によって綺麗に流されていた。最上さんは、購買部で念のためにビニール傘を購入し、俺は両手が使えるように無色透明のビニール雨合羽を買った。今は雨は降っていないが、せっかくなので着てみた。上半身をすっぽり覆うその合羽は大分蒸した。
「さあ、行こうじゃないか。」
最上さんに手首を引かれて大学の外に出ると、爽やかな風が俺の喉元を撫でた。
「どこから回る?」
「そうだな。三十分はあるから、まず適当に歩き回ってみよう。」
俺達は、意外と広い大学の敷地内をとことこと歩き回った。雨によって屋内に避難していた学生たちが続々と外に出てきて辺りを賑やかし、中断させられていた蝉の輪唱も徐々に耳を貫くように鳴きはじめた。夏がすぐそこまで来ていた。
往来で写真を撮るのは何となく憚られたので、人気のない方へと移動をしているうちに校舎裏へとたどり着いた。そこは十畳程の四角く区切られたスペースに、小さく密集した花が植えられていた。しかし、名前が思い出せなかったので、最上さんに聞いてみた。
「あの花ってなんだったっけ。」
「ああ、ジンジャーだよ。綺麗だ。」
「そうだね。あ、そうだ。ジンジャーの花言葉って何?」
最上さんは花の方に向けていた視線を俺に向け、暗い表情を浮かべた。
「私の勉強不足だ。分からない。役に立てなくて申し訳ない。」
「いや、別にいいんだ。そこまで知りたかったわけじゃないし。」
「次までに調べてくるよ。それで許してくれ。」
携帯で調べればすぐなのにと思ったが、最上さんが俺のために何かしてくれることが嬉しかったので、彼女の意志を尊重することにした。
最上さんはしゃがみ、傘の先で水溜りをつついていた。その仕草があまりに愛らしく感じられたので、俺は彼女にカメラを向けた。紫陽花と無邪気な最上さんと水溜りに映るささやかな青空が見事に一枚に収まった。
写真が一枚撮れた所で時間切れとなった。待ち合わせ場所の談話室に行くと、もう既に小林君は座っていた。
「撮れた?小林君。」
「ああ。撮れたよ。君は?」
「一枚だけ。」
そう言って、俺は携帯の写真ファイルを開いた。
「じゃあ、僕から。いくつも撮ったんだけど、これが一番かな。」
彼は携帯の画面を俺達に見せつけた。流石に芸術学部だけあって、見事な
出来だった。葉桜の緑と雨雲の灰色が、見事な哀愁を漂わせていた。最上さんはじっくりとその写真を眺めて、
「なんだか、葉桜が、自分の花びらを全部散らせた雨雲に怒りをぶつけたいけど、届かないので堪えている。みたいな写真だな。」
と感想を述べた。最上さんの感想を聞いて、俺はその通りだと思った。小林君は反論せず、満足気だった。次は俺の番だ。
俺は小林君に携帯の画面を見せつけた。すると、彼はは眼鏡を押し上げ、嘆息を漏らし、一言、
「ずるいよ。」
と言った。俺と最上さんは目を合わせ、お互いに微笑んだ。満足と充実感が俺達をを包んでいた。
「勝負は引き分けね!」
小林君はそう言い残し、さっさと次の授業に向かった。雨が再び降りだしている。
「きっと、さっきの晴れ間は、神様からのプレゼントだったんだな。」
「君はキザな台詞を吐くなあ。」
一人言のつもりだったのだが、最上さんにしっかりと聞かれていた。
出したい人は全員出したので、お話を進めていきます。次回もよろしくお願いします。