妹の勉強会
ようやく大学での講義も終わった。ようやくだらけられそうだ。夕日を浴びながら家の前まで辿り着くと、女の子が立っていた。あれは、うちの妹と同じ高校。つまり、俺の母校のと同じ制服だ。近づいて行ってみると、ショートな髪に、明るい緑色をした妖精の髪留めが目を惹いた。彼女の趣味だろうか。
「すみません。うちの家に何かご用でしょうか?」
俺よりも頭一つ半背の低い女の子は、突然声をかけられてあたふたした。
「あ、あの、その、私、千穂ちゃんの友達で。」
「ああ、そうなんだ。うちの妹、家にいなかった?」
「今日、勉強会をする約束をしたんですが、チャイムを押してもどなたも。」
鍵を差し込み、ドアを開けた。誰もいない。女の子を手で、家に入るように促した。
「まあ、そこにいるのもなんだし、家に入って待ってたら?」
「あ、そ、そうさせて頂きます。私、待つのは得意なので。」
彼女をリビングへ案内した。ダイニングテーブルの椅子を引き、座るように勧めると、遠慮がちに腰を下ろした。
「すいません。お邪魔します。」
「どうぞどうぞ。」
冷蔵庫からジンジャーエールを取り出し、コップを準備する。
「あ、炭酸大丈夫?」
「はい。ジンジャーエール、大好きです。」
「そう。なら良かった。」
コップに注いで渡してやると、コクコクと喉を鳴らして飲んでいた。待っている間に大分喉が渇いたらしい。
「いや、悪いね。約束があったのに。」
「いえ。いいんです。でも、どうしたんでしょう。忘れているんでしょうか。」
「まさか。でも、連絡取るにしてもね。」
「そうなんです。うちの学校、携帯禁止で。」
今では大学でもネット三昧の俺には厳しい話だ。高校に戻ったら、校則は守れないだろう。もっとも、帰る気はさらさらないが。俺もジンジャーエールを一口飲んだ。突如、女の子は俺の鞄を指さして言った。
「あ、それ、血みどろ男爵じゃないですか?」
「お、知ってるの?」
「はい。大ファンなんです。うちの高校で密かなブームなんですよ。」
「そうなんだ。いる?」
鞄からキーホルダーを取って、差し出した。
「え、申し訳ないですよ。」
「いいんだ。俺は二つ持っているから、もらってやってくれ。二つ目の男爵をくれた友人もそう言っていたし。」
「そうなんですか?じゃあ、あの、その、すいません。」
キーホルダーを受け取ってくれた。じっと見つめながら、ほうっと息をついた。
「そんなに好きなんだ。」
「ええ。私の思い描く王子様に似ているんです。」
特殊な人だ。鞄に嬉々として付けている様子を見て、髪留めの妖精は苦笑いを浮かべているようだった。
「ああ、そう言えば、君の名前を聞いてなかったね。」
「あ、私、最上結衣といいます。」
最上さんの妹だった。
この娘が、例の最上さんの妹か。血みどろ男爵のキーホルダーを尊敬の眼差しでしげしげと眺めているその顔を、しげしげと眺める。あまり似ているところのない姉妹だが、物を見る目つきだけは何となく似ている気がした。
「私、このキーホルダー、大切にします!」
「ああ、そうしてくれ。奴も浮かばれるだろう。」
玄関のドアが乱暴に開き、誰かが音を立てて走って来る。そうしてリビングに勢いよく入って来たのは妹だった。額から珠のような汗を止めどなく流し、頬が桃色に上気している。学校から走って来たのだろう。
「あ、結衣ちゃん!ごめんねぇ。委員会が遅くなって。」
「千穂ちゃん。いいの。そんなに待ってないよ。」
千穂は鞄から袋を取り出した。
「これ、お詫び。パン。購買で余ってたのを買ってきたの。」
「わあ、ありがとう。これ好きなやつだ。」
パンの袋を押しつけるようにして渡して、シャワーを浴びに行った。結衣ちゃんはハムスターの如く、頬にクリームパンを詰め込んでいる。幸せそうだ。
シャワーから上がって来た千穂は頭にタオルを巻いて、部屋着になっていた。軽く全身のストレッチを行った後、妹達の勉強会が始まった。
「じゃあ、俺、自分の部屋にいるよ。」
「いや、お兄ちゃんはそこにいてよ。分からなかったら教えて。」
一度立ち上がりかけた身体を再びソファーに投げだした。
俺の知っている勉強会というのは、普通は名ばかりで、だいたいはお遊び会になるものだと思っていた。現に、俺が今読んでいる漫画にはその光景が描かれている。しかし、妹達は違った。黙々と宿題を一通りこなし、その後にお互いに教えあうという合理的な方法を取っていた。鬼気迫る気迫に気圧され、ソファーに寝転んでジンジャーエールを飲んでいる俺は申し訳なく思った。
山積みの宿題がみるみる内に減っていく。もし、行き詰った時のお助け要因であるはずの俺は、お飾り要因になっていた。妹達の数学の教科書を戯れに読んでみたりもしたが、ほとんど忘れていた。
俺が漫画一冊を読み終わるほどの時間が経って、勉強会も一段落したようだ。そもそも、彼女達は成績も良い方らしく、俺の出る幕ではなかった。家にあったクッキーを食べながら、和やかな雰囲気で徐々に雑談を始めた。話は学校の愚痴から、最近観たテレビの話と多岐に渡った。話は最後に宿題に及んだ。
「でもさ。この国語の小説、ないよねぇ。」
千穂は小馬鹿にして溜め息をついた。
「どうして?」
「この小説の娘、白馬の王子様を信じてるんだよ?」
「いるよ?」
結衣ちゃんは、純粋無垢な瞳で見据えて否定した。手には血みどろ男爵が握られている。迂闊な発言をしてしまったと、千穂は軽く頭を抱えた。
「あ、そうだったね。ごめんね。いるよね。いる。王子様はいるよ。」
「私にも、私の事を助け出してくれる救世主のような人が来てくれるもん。」
夕方の太陽も、あと少しで沈もうとしていた。気まずい空気が少し流れたが、俺がジンジャーエールを勧めて事なきを得た。妹達はジュースを飲み干し、
「今日はありがとう。私、帰るね。」
と結衣ちゃんが言った。
「あ、うん。気をつけて。」
最上さんの妹は、綺麗に身支度を整え、緑の妖精を頭に揺らして帰って行
く。鞄には彼女の事を守るように血みどろ男爵がぶら下がっていた。
「千穂。」
「言わないで。分かってる。明日改めて謝りに行くから。」
「そうか。」
「忘れてたよ。あの娘、人魚姫とかああいうの、今でも信じてるんだった。」
妹はそう言って、ソファーに身体を投げ出した。