喫茶店に行きたい
午後になってようやく一息つけた。朝から三時間ぶっ通しで講義を受け続けていたので、ぐったりしている。自販機で紙パックのコーヒー飲料を押し、疲れた頭を抱えてベンチに座った。
文学論は好きだが、文学史はどうにも苦手である。頭の中で色んな文豪が自分の生年月日と、没年と代表作の発表年が書かれたパネルを頭の上に掲げ、俺を取り囲みながら童謡を歌っていた。
ガチャンと自販機から飲み物を取る音が聞こえ、どっかりと誰かが俺の横に座った。薄目で隣を見ると、時和が頭を抱えていた。深いため息をついている。妙な親近感と連帯感を感じ、俺は尋ねた。
「よ、藤咲。お疲れのようだな。」
「ああ。本当に疲れたよ。お前も疲れてるな。」
「小林は?」
「写真撮ってる所を見た。授業の課題じゃね。」
時和は缶を開け、レモンスカッシュを飲んでいた。こいつも真面目に授業受けて、ぐったりすることがあるんだな。俺は少し安心した。
「ちょっと話を聞いてくれるか。」
授業の相談か。しかし時和は違う学部だ。経済の授業の相談なんかに俺が乗れるんだろうか。
「俺なんかで良ければ。」
「もちろん。お前で十分だよ。」
俺は紙パックのコーヒー飲料をすすり、耳が経済の話を受け付けるように集中した。靄がかった頭が徐々に晴れていく。
「良し、聞こうじゃないか。」
「実は土曜日のデート、映画の上映中に寝ちゃったんだ。」
心配して損した。先程の靄よ、晴らして悪かった。帰ってきてくれてもいいんだぞ。甘ったるいコーヒーを買った先程の自分に腹が立った。苦いコーヒーが飲みたい。
「上映前のCMが終わってよぉ、だんだんと暗くなっていって、一回瞬きをしたんだ。そしたら……。」
「終わってたのか。」
「ああ。エンドロールが流れてた。」
時和はカバンの中を漁った。取り出したのは手に収まる大きさの小袋だった。。
「お土産やるよ。」
「ありがとう。」
小袋を開けると、血みどろ男爵のキーホルダーが出てきた。俺の部屋に飾ってあるものと全く同じものだ。もっと色々とグッズは出ているはずなのに、どうして被るのだろうか。
「俺がいなくて寂しいときに愛でてくれよ。……ん?どうした。」
「悪い。時和。持ってるんだ。これ。」
「あー。この間、観たって言ってたもんなあ。じゃあ、欲しい奴にでもやってくれよ。」
「そうか。それなら受け取っておくよ。」
とりあえず俺のカバンにつけてみた。黒いカバーに血まみれの男がチェーンソー持ってしがみついている。残虐なシーンを再現しているはずが、どこか哀愁が漂っているように感じる。時和の顔を良く見ると、目の下にクマが出来ている。眠れていないのかもしれない。
「よし。ちょっと場所を変えるか。」
「どこに。」
「この近くに喫茶店を見つけたんだ。」
時和を引っ張って立たせた。このままここで話を聞いていてもお互いに暗くなるだけだろう。なによりブラックのコーヒーが飲みたかった。
目的の喫茶店は意外と大学から距離があり、外の陽気な天気も相まって、汗をかき始めていた。
ドアを開けると、カランカランと涼しい音色が俺たちを出迎えてくれた。
「いらっしゃいませ。」
出迎えてくれたのは中年のおじさんである。小奇麗にと見えるように整えられた頭髪。計算された無精ひげ。こういうのをナイスミドルというのだろう。俺と時和は出入口の一番奥のテーブルに陣取った。店内にちらほらと人がいるが、平日の昼間のせいだろうか。若者はいなかった。おそらく、マスターと呼ばれる人なのだろうが、俺はその中年のおじさんに元気を注文する。
「すいませーん。アイスコーヒー二つ。」
おじさんは口元に人差し指を当て、静かにするように促した。この堂々たる注意の仕方、バイトにはできまい。マスターで確定だろう。
「当店は、アイスコーヒーをご用意いたしておりません。」
マスターが冷ややかにいった。あ、これは失敗したかもしれない。本格的な店だ。メニューを見ている時和の方を一瞥すると、涼しい店内で汗をかいていた。
「おい、ちょっとお前これ見ろよ。」
俺にメニューを見せつける。メニューに載っているのは最低でも大学の豚牛丼七杯分の値段だった。だから若者はいないのか。納得した。
「どうする?店出るか。」
彼の問いかけに、俺は首を振る。
「ここで引いては男が廃る。」
「そうだな。頑張ってみるか。」
「ああ。二人で一杯を楽しもう。」
「それはそれで男が廃っているんじゃ……。」
「すいません。ブルーマウンテン一杯とお冷二つ。」
マスターは軽く頷き、お冷やを持ってきてくれた。コーヒーは何やら豆を引き出したので、しばらくかかるだろう。
「よし、デートの話を聞こうじゃないか。」
「いいのか?それじゃあ。」
時和の話をまとめると、映画館で待ち合わせた後、パンフレットを買って中に入って寝てしまった。エンドロールを最後まで見た後、彼女がトイレに行っている間にパンフレットを熟読して内容を頭にいれた。トイレから帰ってきた彼女とグッズを買い、ファミレスで映画の話をした。しかし、上手く話についていけずに聞き役に徹するしかなかった。
「だからよー。彼女、内心怒っているんじゃないかと思って。どう思う?」
「どう思うって言われても。謝ったら?」
「馬鹿。お前、付き合い始めの大事な時期なんだ。寝ていたことがばれてなかったら、藪蛇だろうが。」
「まあ。そうだな。」
俺はお冷を一口飲み下した。
「どうすべきか分からなくて、二日も良く眠れてないんだ。」
常盤は一つあくびをした。時和の彼女の気持ちに比べれば、作者の気持ちを考える方が遥かに楽だった。
喫茶店のマスターの作業が、粉末からコーヒーを抽出する段階に入った。
時和の恋愛相談は滞っていた。そもそも、ろくに恋愛をしたことのない俺が、相談に乗る事が間違っていたのではないか。そう心の中で考え始めた。喉が渇いてお冷を口に含んだが、すでに氷が解けていた。むやみに時間だけが過ぎていく。高級感ただよう喫茶店の圧迫する空気が、頭の中を錆びつかせる理由にもなっていた。
「お待たせいたしました。ブルーマウンテンでございます。」
どうやら抽出が終わったようだ。常盤が手で俺から先に飲むように促す。
「どうだ。美味いか。」
俺は目を閉じてゆっくりと味わった。いつものインスタントコーヒーに比べて、いつまでも舌に苦味が残り、強いストレスを受ける。機械油を飲み込むような。腐葉土を地下水で湧いたような苦しみがあった。
「美味しい。」
「本当か。」
時和は、半ばひったくるようにしてカップを受け取った。俺と同じく目を閉じてゆっくりと味わっている。だんだんと俺の脳に栄養が行き渡り、体の節々がギシギシと音を立てながらも動くようになった。
「時和、そういえばさ。彼女はお前のどこが好きになったの?」
味わうために閉じていた目を開いて俺を見た。
「それ、俺も今考えていたところだ。」
「どこだ。」
「はっきりとは分からない。でも心当たりはある。」
心当たりがあるのか。自意識過剰な奴だな。
「それは正直なところだよ。絶対。」
俺の目をしっかりと見据えて言った。確かに時和は良くも悪くも正直な奴だ。それは俺も認める。俺は時和を見据えて静かに頷いた。
「俺、俺、謝るよ。正直に話してさ。で、もう一度映画を観て、彼女と『血みどろ男爵とダイナマイトチェーンソー』について話してくる。」
「それがいい。今度こそハグしてもらえ。」
「うん。」
マスターから静かにするように注意を受けたが、俺たちの心は晴れやかだった。相談料ということで、時和がコーヒー代を全額払ってくれた。
太陽は低く登り、俺たちを照らしている。緊張とストレスから解き放たれた俺たちの目から見る空はどこまでも高かった。
「で、コーヒーはどうだった。時和。」
「不味かった。」