母、帰国
午後の講義もようやく終わった。外に出ると、少し欠けた月が出ていた。校内はまだまだ賑やかで、今からクラブ活動を始める者達や異性とお酒を飲みに行く算段をしている男達を見て心が温かくなる。梅雨は自分の居場所を夏に譲り始めているようだ。なんだか長袖のシャツを着ているのが馬鹿馬鹿しくなり、脱いで半袖になった。
「ただいま。」
家に帰ると、そこには猛暑が待っていた。灼熱の空気が家の中を支配している。
長袖を洗濯機の中に放り投げてリビングに向かうと、
「おかえり。」
と、正座をさせられている母親のゆったりとした迎えの言葉があった。
「おかえりなさい!」
こちらは妹の迎えの言葉である。蒸し暑い空気を作っている張本人が粗野に出迎えた。
「どうしたんだよ、千穂。」
「お母さんが帰ってきたのよ。」
妹は顔を紅潮させて興奮している。話から察するに、母親の突然のイギリス旅行にご立腹らしい。
「そうだね。おかえり母さん。」
俺はごく簡単に迎えの言葉を言った。母親ものんびりと答えた。
「どうしてそんなに冷めた態度が取れるの!」
「だって一週間後に帰るって言って、一週間後に帰ってきたんだぞ。予告どおりじゃないか。」
「突然のことで心配したんだから。」
「一応書き置きはあったし。」
「そうだけどさ。」
しかし、妹が怒る気持ちも分かる。一週間の間、家事のほとんどを妹がやったのだ。俺も手伝いはしたが、怠けるのに忙しかった。母親は依然としてニコニコしている。
「まあ落ち着けよ。千穂。」
「元はお兄ちゃんのプリンでしょ!お兄ちゃんだって責任の一端を担ってるんだからね!」
最早、千穂の怒りの矛先に見境はないらしい。
「もういい。」
妹はソファーに飛び込んだ。俺は静かに言った。
「母さん。携帯が繋がらなくて俺だって少しは心配したし、妹も淋しくて怒ってんだからさ。ちょっとはそれらしい顔したら。」
「あ、そうよね。ごめんなさい。」
母親の表情は一転して、暗くなった。
「私が怒ったときは、謝罪の言葉は無かったのに。」
「久しぶりに会えて嬉しくて。」
母親は立ち上がり、ソファーに腰掛けて、うつ伏せの妹の頭を撫でた。
「手、冷たいから触らないで。」
クッションで自分の頭を隠した。
「ごめんなさいね。でもね。お兄ちゃんがもし、大学で嫌なことがあって、帰ってきたときにプリンがなかったらと思うと。いてもたってもいられなくて。」
「お兄ちゃんはもう大学生だから大丈夫よ。」
「そうよね。」
母さんは俺に手招きをした。素直に従うと俺の頭を撫でた。妹の言うとおりに冷たかった。
「あ、そうだ。プリン買って来たよ。冷蔵庫。」
「ああ。買えはしたのか。プディング。」
冷蔵庫を開けると、食材がぎっしり詰まっている片隅にいくつか置いてあった。
「できたてはアツアツだったんだけどね。向こうから送ったら冷めちゃった。」
「じゃあレンジで温めて食べるよ。」
母親は妹の肩を優しく、撫でるようにたたいた。
「千穂ちゃんは食べないの?」
「食べる。冷たいまま。」
俺は冷蔵庫からプディングを取り出し、スプーンをつけてソファーまで持っていく。妹はクッションを頭から離し、母親に抱きついて食べ始めた。
「私だって心配したんだから。」
冷たいプリンを食べながら、母親に頭を撫でられて、熱い気持ちも冷えたようだ。
「そういえば夕飯は?」
俺はプディングをレンジに入れながら聞いた。
「あ。」
今度はリビングに冷たい空気が流れた。
母が買ってきたのは蒸しプリンです。次回もよろしくお願いします。