写真
その日は午前中で大学の講義が終わったので、家の中で可能な限りラフな格好に着替えてジンジャーエールを飲んでいた。余った時間を無為に過ごすのももったいないので、炭酸の泡が三つはじけたら能動的に行動しようと心に決めたが、うららかな日差しに包まれていた午後だったので、ついうつらうつらと眠りこけてしまっていた。
すると、家のチャイムが一つ鳴り、鼻ちょうちんがパチンとはじける。宅急便だろうか。そう思い込んで二階から降り、ドアを開けると、最上さんが立っていた。束ねている艶のある髪が、後頭部で軽やかに揺れている。
彼女は、同じ大学の同じ学科の同じ学年で、高校も同じである。何かを思いつめたように目が暗く沈んでいる。何かあったんだろうか。手に汗がにじんだ。
「ズボンを履き忘れているところ申し訳ない。藤咲君に頼みがあるんだ。」
「履いてくる。ちょっと待ってて。」
二階の自室に上がり、黒のスラックスを履き、簡単に自分の部屋を掃除した。二つのノックの後、ドアが開く。
「最上さん、ちょっと待っててって言ったじゃないか。」
「来ちゃった。」
そういって部屋に入り、ベッドに腰掛けた。ジンジャーエールの泡が一つはじけ、沈黙が訪れた。
「あ、ごめん。藤咲君は外着でベッドに座られたくないタイプ?」
「いや、気にしないよ。待ってて。飲み物取ってくるよ。」
「ありがとう。」
そう言って自室を出て扉を閉めた。と、同時に心の隅に追いやった緊張感が覇権を取り戻した。台所に降りてコップ二つと、ジンジャーエールのペットボトルをお盆に載せようとするも、手の汗で何度か滑った。
二階に上がりつつも、頭の中では、自分の部屋に女子が!目的は?マズいもの置きっぱなしじゃなかったかな?という心配事が横隔膜の上あたりをぐるぐる揺さぶった。
トレイを持って自分の部屋に戻ると、最上さんは水着だった。
「ありがとう。別に私なんかに気を使わなくていいのに。」
「そういう訳にはいかないよ。」
彼女はトレイを受け取り、整然と机に並べた。
「どうかしら、このビキニ。」
コップにジンジャーエールを注いで渡してくれた。透き通った黄土色に水玉模様。容量のある白い肌に良く映えている。飲みつきたい衝動をジンジャーエールでごまかそうとしたが、よく飲み込めずにむせた。
「いいんじゃないかな。」
彼女が自分のタオルで口元を拭いてくれた。淡い熱が横隔膜を震わせて、それ以上の誉め言葉は言えなかった。
「そうよね。いいよね、この水着。」
なんと返そうかまごついていると、彼女が口を開いた。
「私の事、写真で撮ってほしいんだ。」
願ったりかなったりの要求に、無表情でいることを心掛けた。
「どうして?モデルにでも応募するの?」
「めっそうもない。」
とデジタルカメラを渡され、いろいろと飲み込めないまま突然のグラビア撮影会が始まった。
「撮影に差し当たり、この本を参考にしてくれ。」
最上さんが差し出したのは、机の上に置き忘れていたマズいもの・・・・・・の中でも非常に健全健康な外国人グラビア雑誌だった。これくらいなら 焦らなくてもいいだろう。
「すごいな。全ページ美人じゃないか。」
彼女はページをパラパラめくりながら言った。
「まあ、グラビアってそういうものだからね。」
「そりゃそうか。そうだな。」
柔らかくなっていた目がふと思いつめたように真剣になり、部屋が緊張感に包まれた。
「撮影、始めようか。」
そう言って最上さんは髪をほどき、一度頭を振って颯爽とベッドに身を投げ出した。
「じゃあ まず立ち絵から。」
「そ、そうか。そうだな。雑誌の初めの方のページは起立しているからな。」
彼女は立ちあがった。俺は雑誌の前の方からページを適当にめくって、開いた一ページを彼女に見せた。
「ではこのポーズからやろうか。」
「いつでもこい。」
艶のある髪を背中に追いやり、耳をだす。グラビアの写真通りに身体を軽くひねり、頭の後ろで両手を組んだ。
俺はデジカメの画面越しによく取れる構図を捜す。
「胸が強調されるな。」
彼女は頬を赤らめもせずに言った。
「そうだな。でも大丈夫だから。」
語気が興奮せず、饒舌にならないように。また、冷淡に訥弁にならないように努めた。
カシャカシャとデジタルカメラの電子音だけが響きわたる。
「どんな感じだろうか。」
「悪くない。」
あまりに誉めると、下心を疑われて批難されるような気がした。お次は真ん中あたりのページをめくって、彼女に見せた。
「次は椅子ね。」
彼女は学習机の椅子を引っ張ってきて、その上に体育座りをした。太ももから膝にかけての脚が水着を隠し、あたかも上半身のビキニを取り払ったかのようなアングルから撮る。やはり、電子音を響き渡らせる。
「黙られると、変に緊張するから何か喋ってくれないかな。」
「あ、ああ。そうだね。」
自分が彼女に魅入っていたことに気がついた。最上さんとの撮影会はまだまだ続いていく。
「今日は、もう、あの、あれ?講義はない感じなの?」
「うん。」
ポーズをとりながら最上さんが答える。カシャカシャとデジタルカメラの電子音が鳴り響いている。沈黙に耐えられなくなったのか、彼女が口を開く。
「君は、その、お話はあまり得意なほうではないのか?」
「いや、そんなことはないけど。」
「そうだよな。そういえば、高校生の頃は饒舌だったもの。大学でも友人と楽しげに話しているのを見かけるし。」
「そうだろ?」
突然女子に押しかけられて、水着のグラビア撮影をしていることがいまだに信じられないから言葉が出てこないんだと言える空気ではなかった。
ある程度今のポーズをとり終わったので、グラビア雑誌の最後の方から一ページをひらいて見せる。彼女は黙ってベッドに寝そべり、髪をほどいてお尻を高く突き上げた。
「今度はお尻を強調するようなポーズだな。」
「そうだね。」
自分が今撮っている写真を誰に見せるのかは知らない。だが、少なくともこの写真を見る人がこれから何が起こるのだろうと、期待させるような写真になるように努めた。
「その水着は自分で買ったのか?」
「いや、自分で買った。あ、でも、選んだのは妹だ。」
「そうか、高校生だったっけ。」
「うん。私にはもったいないほどの出来た妹だよ。今度紹介させてくれ。」
「おう。」
彼女は一つ咳払いをした。三つ目のコップのジンジャーエールの泡がはじけた。カメラを降ろした俺は、コップに映る自分の邪な目を見つめ返す。コップの中では抜け切る前の炭酸が、ムラムラと最後の主張を始めた。俺は心の中にいる、偶発的な出来事を望む自分に気づいた。
「すまない、飲み物を取ってくれないか。」
「分かった。写真は沢山撮れたから、休憩しよう。」
「そうか。ありがとう。」
彼女はベッドから立ちあがった。コップに注いだジンジャーエールを渡そうとした。しかし、半分は意図的に、半分は偶然に渡し損ねた。うまく渡せなかったので、半分は彼女の体を濡らして、もう半分は自分のTシャツにかかった。
「うわっ、ごめん!」
「大丈夫。気にしないでくれ。私は水着だ。」
俺はタンスの中から白いバスタオルを渡し、彼女の横隔膜の上辺りから下腹部までを往復してお腹を拭いた。
「流石にそれくらいは、自分で出来る。」
最上さんは俺の手からタオルをひったくり、あちこち拭き始めた。俺はもう一枚バスタオルを出して、彼女の肩にかけた。俺はTシャツを脱いで上半身裸になった。少しTシャツの下にも染み出していた。最上さんは自分の手に持っていたタオルで俺のお腹を拭いてくれた。
「ありがとう。拭いてくれて。」
「いえいえ。」
幸いにも床は濡れなかった。彼女はジンジャーエールをコップに注ぎなおし、一口飲み込んだ。
「写真、印刷しようか?」
「いや、別にいい。」
「そう?」
彼女にデジタルカメラを手渡した。彼女はカメラに保存されたデータをしげしげと眺めた後、俺に何とか聞き取れるほどの声で、
「やはり私はブサイクだな。」
と独り言を言った。
俺は即座に否定したが、彼女は適当にあしらった。
「少なくとも、俺の下腹部に熱い情熱が湧いたのは事実だ。」
更に食い下がった。
「このグラビアの女性たちにだって引けを取らないよ。」
「そうか。お世辞と受け取っておくよ。」
最上さんは微かに笑った。
彼女は家に来る時に着ていた服をさっと俺の目の前で着た。
「今日は突然押しかけて悪かった。これでお暇するよ。後日改めてお礼をさせてくれ。」
「いいよ、お礼なんて。」
「それじゃ私の気が済まないんだ。」
最上さんは手慣れた手つきで髪の毛を結ぶ。
「じゃあ、また大学で。」
そう言うと、彼女は颯爽と帰って行く。
「また、大学で。」
後ろ姿にそう呼び掛けた。柔らかな夕日に照らされた最上さんは、右手を挙げて応えてくれた。
俺の方こそが、お礼を用意すべきなんじゃないだろうか。そう思いながら、姿が見えなくなるまで手を振り続けた。