誕生日
ある朝意識が目覚めると、体がいつもより重たかった。揃えてある足の上にまたがって、細やかな息遣いが聞こえる。金縛りかなあ?と、ぼやけた頭で考えて、目を開けると最上さんがいた。
「もう、藤崎君。遅刻するよ?」
「え?最上さん、どうして?」
「あらあら、寝ぼすけさんね。」
「あの。」
「お兄ちゃん、起きてよー。」
目が合っているにも関わらず、彼女は体を揺さぶってくる。
「起きてますけど。なんか、混ざってない?それ。」
「え?間違ってた?そんなはずはないと思うんだけど。」
最上さんは俺のベッドの下に隠してあった、とても健全な雑誌を取り出した。雑誌をめくってページを一瞥すると、ふむふむとうなずき、何かしらを納得している。
「あ、ごめんなさい。先に服を脱がせるのが先か。」
「ちょ、ちょっと。やめて!その本も返して!」
最上さんが、Tシャツに手をかけようとしたぎりぎりの瀬戸際で、踏みとどまらせた。しかし、なんて幸せな朝なんだろう。朝から最上さんの柔らかさを感じることができるとは。俺は脚を動かして、彼女にどいてほしいと伝えた。
「あ、少し待ってね。」
そう言って、ポケットをごそごそと探って、クラッカーを鳴らした。パンという破裂音が部屋に響き、紙の破片がひらひらとベッドの上に舞い落ちた。
「誕生日、おめでとう。」
少し微笑んで、ぱちぱちと拍手をしてくれた。そうか、今日は俺の誕生日か。携帯電話をみると、何通かメールが来ていた。多分、おめでとうメールだろう。
「ありがとう。」
「さ、大学行こう。皆待ってるよ。」
「そうだね。先にリビングに行ってて。顔洗ってくる。」
「分かった。」
最上さんは、軽快に階段を下りて行った。紙吹雪を寝たまま拾って、俺はベッドから体を起こし、少し痺れた脚を軽くマッサージしたあとに階下の洗面所へと向かった。
最近はめっきり涼しくなって、昨晩はとうとう扇風機を片づけた。眠っている間はタオルケットも必要な程になり、昨日大学では、冷え性な女性達が長袖を着ている人も見かけた。今日は誕生日。俺は何を着ていこうか。
そう考えながら最上さんと、朝食が待っているリビングへと向かった。
リビングに隣接するダイニングキッチンには、最上さんが立っていた。彼女の家で見た赤とオレンジ色のエプロンを身につけて、フライパンに向かっている。その横では、母が最上さんを温かく見守って料理の指導をしていた。
ベーコンの肉厚な脂の香りが部屋に充満している。呼吸をする度にお腹が鳴り、目の前のテーブルにお皿が並べられるのを今か今かと待ち構えた。
「できたよ。藤崎君。」
そう彼女は言って、目の前に並べてくれた。ああ。美味しそうだ。
「いただきます。」
「召し上がれ。」
俺の対面に最上さんが座り、じっとこちらを見つめる。多少居心地悪かったが、食欲の方が勝り、気にしないことにした。
目を引くのは、真正面の大皿に鎮座したオムレツである。ナイフで軽く触れると、ほっぺたよりも柔らかい。慎重に切り開くと、綺麗に膨らんだ表面からとろけているチーズと抱き合った、卵の半熟さが俺を出迎えた。フォークですくって口に運ぶと、一瞬の多幸感に脳内が包まれる。しかしそれはすぐに消えてしまい、すぐに次を口に運びたくなるのだった。
「どう?」
「美味い。ホテルのみたいだ。」
最上さんが微笑むのを尻目に、ベーコンを口にする。
分かりやすいって、美味しい。何を食べているのか分からないものは、美味しくないんだな。とめどなく溢れる脂を噛みしめながらそう思った。
パンに手伸ばすと、キッチンで牛乳が主役のコーヒーを飲みながら母が言った。
「そのパン、最上ちゃんが焼いてきたのよ。」
「本当?」
「うん。」
ケーキを焼ける彼女だ。きっと食パンくらいなら焼けるのだろう。もっちりとしたパンに、マーガリンを薄く延ばして食べた。これはいい。舌に反発しない柔らかな香ばしさに、舌鼓を打った。
「これ、本当に美味しい。」
「よかった。嬉しい。」
朝食をあらかた食べ終わると、彼女は箱を取り出した。
「誕生日、おめでとう。」
「ありがとう。」
箱を開けると、美味しそうなタルトが入っていた。
「食べられるのがいいかなと思って。」
「いいね。嬉しい。」
コーヒーと一緒に、タルトを美味しく頂いた。
「ほら、そろそろ準備しなさい。遅れるわよ。」
「うん。急ぐよ。千穂と父さんはもう行ったの?」
「もちろん。」
準備を終えて、再びリビングへと戻ってきた。
「じゃあ、最上さん、行こうか。」
「うん。」
玄関まで出たところで、母が言った。
「最上ちゃん、あなたの朝食を作って少し疲れているみたいだから、手、引っ張っていってあげたら?」
最上さんの方を振り返ると、彼女は手を差し出した。
「よろしく頼む。」
俺は彼女の手をとり、平静を装って大学へと向かった。
今日は天が味方をしたのか休講が相次ぎ、授業は朝の一限のみである。その授業を最上さんと受けた後に、小林から連絡があった。なんでも、芸術学部棟に来て欲しいとのことである。言われるがままに最上さんに連れられて、のこのこと顔を出すと、小林の学部の友人達が待ち構えていた。
「いらっしゃい。藤崎、誕生日おめでとー。」
「ありがとう。」
俺の知らない、小林の友人達がクラッカーを鳴らしてくれた。最上さんもまたクラッカーを鳴らしてくれて、小林にタッチをした後に帰っていった。
「次は僕の番だから。」
「え?何が?」
「藤崎を、もてなす会。」
「ああ。ありがとう。」
小林は、とある映画のパンフレットを差し出した。そこにはよく見知った作品が描かれていた。
「この映画、知ってるでしょ?」
「うん。知ってるけど。それが?」
「なってみない?血みどろ男爵。」
「ええ?どういうこと?」
知らない女性が前へ出て、簡潔に述べる。
「実は、私たち、特殊メイクの講義をとってまして。宿題で、チームで協力して誰かをメイクしないといけないんですよね。で、相談して、小林君が適任を知っていると。」
「それで、俺か。」
「やって、くれますか?」
なんだか、体よくつかわれている気もするが、まあいいだろう。
「彼女、三年になって編入してきたんだけど、優秀だよ。腕は保障する。」
「そうなのか。……一応聞いとくが小林。断ると言ったら?」
「十万円がパア。」
「え、まじで?」
「まじで。課題を提出して初めて経費が支払われるから。断るの?」
「いや、聞いてみただけだ。是非お願いします。」
周囲の人たちがほっと胸を撫で下ろし、早速作業に取り掛かった。
小林の説明によると、経費と時間をなるべく削減したいので、基本的には頭部のペイントが主になるだろうとのことだった。体の部分は、衣服自体にペイントしてあるから、着替えるだけでいいそうだ。傷も見られなくて済むし。とのことだった。
さすが、長いこと芸術学部なだけあって、手際がいい。少しの間目をつぶらされたと思ったら、次に目を開けたときには、頬にリアルな傷が。もう一度瞬きをしたら、金髪にさせられていた。どうやら、一日だけ金髪に染められるスプレーをかけたらしい。
ほんの九十分経って鏡を見ると、映画で観たような英雄がそこに映っていた。
鏡に映して見る自分は本当に別人だった。どこを映しても自分の要素が無い。顔にできた数多の傷や、血に濡れてギトギトになった金髪。知らない女性は、本当は目の色まで変えたかったようだったが、知らない人から渡された青いカラーコンタクトほど怖いものはなくて断った。残念そうにしょげていたのは気の毒に思うけれど、今までコンタクトを入れたことのない俺には急に目に異物を入れるほどの度胸はない。
「藤崎、服のサイズはどうかな?」
この服がまた良くできている。血の表現はもちろんのこと、土の汚れや破れ方に至るまで細部にこだわっていて脱帽する。
「ぴったりだよ。」
「良かった。」
「それにしても、俺の服のサイズなんて、いつ調べたんだよ。」
「海に行ったとき。露店風呂に君が入っている間。」
「ああ。あの時。」
小林とたわいのない話をしていると、知らない女性が小道具を持ってきてくれた。血みどろ男爵の象徴とも言えるチェーンソーである。基本はチェーンソーで戦うのだが、シリーズによってはチェーンソーに別のものがつくのだ。彼女は、ダイナマイト付きのチェーンソーを手渡してくれた。これでようやく完成である。
「どう?藤崎。気分は?」
「悪くない。今までに無いくらい興奮している。」
「ちょ、ちょっと。作りものとはいえ、チェーンソー振り回さないで。危ないよ。」
「すまない。興奮していて。すげえな。芸術学部。」
「すごいよ?芸術学部。」
「仕事も丁寧だな。」
「ありがとう。まあ、低予算映画だから、そんなに凝ったデザインじゃないから再現は楽なんだけどね。」
小林の学部の友人は、自分たちの仕事ぶりに満足げである。
「よし、じゃあ、写真撮っていい?課題用の。もちろん、後日君にもプレゼントするよ。」
「ありがとう!」
部屋の蛍光灯を消して、ライトが照らされる。小林がカメラを撮り、他の人たちはレフ板などで俺を照らす。小林の注文と、はやし立てと、おべっかに調子に乗って、いろいろなポーズをとる。普段の自分じゃない程に心が湧き立ち、自分が自分じゃないかのようだった。現実と仮想の垣根が低くなり、俺の周囲には世紀末のモヒカンたちを筆頭に、悪い奴らが俺を取り囲む。バッタバッタと切り倒す俺。
「はっ、そりゃ、せいや!」
はっと気がつくと撮影は終わっていた。明るくなった部屋に、輪になって俺の夢中を見つめている。
「あ、えっと、あの……。」
「あ、気がついた?気に入ってもらえて良かった。」
皆に笑われて恥ずかしくなり、鏡に映る自分の顔は血液程に真っ赤になった。
顔のメイクを落とした後に、小林に連れられて外に出る。時刻は昼を少し過ぎたくらい。日はまだ高く、空が高い。先ほどまで長時間、教室の一室に閉じ込められていたからか、吹く風がすごく気持ちがいい。
「じゃあ、行こうか。」
「どこに?」
「いいところ。」
大学の敷地内から出て、近くの飲食街に入っていく。丁度昼ご飯の時間だからか、大学生らしい人たちでがやがやと賑わっていた。
「あ、ここ、ここだ。」
そう言って小林が立ち止まったのは、一軒の居酒屋であった。
「いらっしゃい!」
のれんをくぐって中に入ると、景気のいい威勢が出迎えた。小奇麗な店だ。入って左側にカウンター席があり、三十人で満席になる程度の広さである。カウンターの上には本日のお勧めとして、『嫁に食わせられないナス』と、手書きで書かれていた。
「おう、こっちこっち!」
店の奥の座敷になっているところに時和が座っていた。
「遅いぞ、小林。」
「ごめんごめん。メイクを取るのに意外と時間が。」
「お前も飲んでいくか?」
「いや、僕、これから講義だから。」
「一杯も?」
「一杯も。飲酒して講義受けると教授うるさいし。」
「そうか。また今度三人で飲もうぜ。」
「うん。じゃあ、講義に行ってくる。」
そう言うと、小林は店を出ていった。
「講義ならしゃーない。よし藤崎、生でいいな?」
「え?まだ昼だよ。」
「すいませーん!生ビール二つ!」
店主が威勢の良い返事を返して、バイトがグラスとビール瓶を用意し始めた。
「まあ、いいじゃねえか。今日くらいよ。」
「そうだな。」
目の前にグラスとビールが置かれる。時和は瓶を持ち上げて俺に持たせた。
「まあまあまあ。」
「おっとっと。」
グラスに並々と泡を伴ないながら、金色の炭酸が注がれる。反対に俺が瓶を手にとって、今度は時和のグラスに注いでやる。
「おい、泡ばっかりじゃん。」
「ごめんごめん。お前には泡を御馳走したくて。」
「なんだよそれ。」
時和がグラスを掲げる。俺もその高さに合わせる。いつかの時と同じく、時和が音頭をとった。
「藤崎の生まれた日を祝して、乾杯!」
「乾杯!」
生まれた日のビールは、苦かった。
昼間から飲むビールは、悪いことをしている気分で最高だ。味は苦いが、喉への刺激が心地いい。時和と焼き鳥を食いちぎりながら、無駄な話に花を咲かせた。
「唐揚げと、卵焼きお待たせしました。」
元気な若い店員が目の前に置いてくれた。
「おう、藤崎、どんどん食えよ。今日は俺の奢りだからよ。」
「じゃ、遠慮なく。すいませーん!天ぷら盛り合わせと刺身盛り合わせを追加で!」
「ありやーす!」
「……少しは遠慮してもいいんだぞ?」
この居酒屋は正直当たりだと思う。大学生の客層を掴むためなのか、変なメニューが無くてオーソドックスな品ぞろえだ。なによりビールが冷えている。それだけでも良い店だということが分かった。
「誕生日、おめでとうな。」
「ああ。ありがとう。」
「これ、プレゼント。」
「ありがとう。何?これ。お金?」
「そんな訳あるかよ。開けてみな。」
彼から受け取った封筒を開けると、映画のチケットが二枚入っていた。
「いや、実はそれ、彼女と行こうと思ってこっそり取ってたんだけどよ。彼女は彼女で俺と行こうと、こっそりチケット取ってて。まあ、キャンセルするのも面倒くせえからプレゼントとしてやるよ。」
「マジでありがとう。これ、すっげえ観に行きたかったんだよね。」
チケットには『血みどろ男爵のゾンビクライシス』と書かれていた。B級映画のコラボ映画だが、どちらの作品も監督は同じなので案外上手く行きそうだ。ビールが空になったので、お互い注ぎ合った。
「喜んでもらえたなら良かった。あ、それとよ。それと引き換えにという訳じゃないんだが、お願いがあるんだけど。」
「何?急に。」
「来月くらいにさ、大学祭があんじゃん。」
「あるね。」
「あれ、授業の一環でさ、友達誘って店を出さなきゃいけないんだけど。手伝ってくれない?バイト代出すし。」
「おお、面白そうじゃん。いいよ。」
酔いが回って、二つ返事で引き受けた。まあ、別にいいだろ。そのくらい。
「良かった。助かるわ。」
「よせよ。水臭い。」
美味しい料理とアルコールを堪能した後に、店を出た。会計は、時和が額に若干驚きながらも全部持ってくれた。まあ、食欲に任せて思うままに食べたのは反省している。
日が傾き、俺たちの赤い顔を赤く染めた。家路を急ぐ人たちの邪魔にならないように気をつけて、ふらふらと俺たちも家に帰った。
家に着くと、静かであった。誰もいないのかと思い、水を求めてリビングに向かう。ドアを開けた瞬間に、クラッカーが鳴った。
「せーの、誕生日おめでとう。」
父と母と妹の三人揃った声が俺を出迎えた。部屋には紙の輪飾りがぶら下がり、机の上には御馳走が並んでいて、いい匂いが漂っている。先ほど食べてきたばかりなのに、またお腹が空いてきた。ニコニコとした笑顔が俺を席へと誘って、父が俺のグラスに缶ビールを注ぐ。
「ありがとう。そして乾杯!」
「かんぱーい!」
四人分のグラスの衝突音が鳴り響き、夜遅くまで続く、幸せなお祝いが始まったのだった。




