風呂に入る
文章の練習のための時系列バラバラ不定期連載です。
きっと、昼に『血みどろ男爵のダイナマイトチェーンソー』を映画館で観たからだろう。夕方に自室で昼寝から目覚めると、下腹部に鈍い痛みが走っていた。Tシャツを捲って古傷を触ってみるものの、触れた手を見ると血液は付着していない。どうやら傷は開いてはいないようだ。ひとまず安心である。ふっと一つ息を吐くと、自分がいかに喉が渇いているのかに気がついた。ベッドから立ち上がり、ジンジャーエールのペットボトルを手にとって口に含む。抜け始めた炭酸と鋭い苦味が喉を潤した。
昼間に見た映画の興奮で、俺は何か悪い夢でも観ていたのだろうか。まだ扇風機すら要らない春先なのに、Tシャツは気持ち悪くベタベタと張り付く汗でいっぱいだ。心臓も大きく鼓動し、軽く息切れを起こしている。しかし、無理に思い出す必要はない。思い出せないということは思い出したくないことなのだろうから。
蛍光灯を点けて、暗くなっていた部屋を明るくする。呼吸を整えていると、勉強机の前のコルクボードにぶら下がっている血みどろ男爵のキーホルダーと目があった。彼のトレードマークは下腹部にある横に伸びた十センチ程の傷である。この傷はシリーズの第一作で大事な人を守る際についた傷であり、俺の下腹部の傷に酷似していることから、非常に親近感を覚えているのだ。
携帯で時間を確認すると十九時である。夕飯の前に風呂に入ることにしよう。俺は風呂に入るときには風呂に入るときの心の友である団扇をもって入ることにしているので、お風呂セットの上に置いておく。
階段を降りて脱衣所へ行く。わざと艶めかしく服を脱ぎ、高校生の頃に比べるとたるんだ腕で力こぶを作ろうと試みる。二の腕の肉付きがマズい。筋トレをすべきだろうか。シャワーを出して髪を洗い、体を洗い、顔を洗う。湯船に入るものの、すぐにのぼせてきたので、団扇で顔を扇ぐ。涼しい。
「初めて風呂を作ろうと思った職人に乾杯だなこりゃ。」
今日の乾杯先が決まったので、風呂の蓋を閉めて潜水する。口を窄めて息を吐くと炭酸の中にいるようだ。今日はどれだけ息を止められるだろうか。
十九時三十分。妹が入ってくる。
水面から顔を出し、蓋の裏の空気を吸おうとすると、脱衣所で脱衣した妹が入ってきた気配がした。
シャワーを出して艶めかしく、髪を洗い、体を洗い、顔を洗っている。
「ちょっと二の腕の肉付きがヤバい。」
と独り言を言っている。
俺はどうすべきなのだろうか。今出て行っても、どのみち変態扱いをされて罵倒される。仕方がない、妹の体がシャワーだけで満足するように心の底から祈ろう。
湯船に浸かっているのに、体が汗ばむのが分かった。一応、股間を扇子で隠しておこう。
案の定、よせばいいのに俺の下半身の方から蓋を開ける。妹の悲鳴が風呂場に反響する。そうだ、俺は寝落ちしたんだったと自分に言い聞かせて目をつむるが、顔の方まで蓋が開けられた。
「なんだ、お兄ちゃんか。」
蓋は閉じられた。
悲鳴を聞いて駆けつけた母親に妹は
「ヤモリが入ってきただけだから。出て行ったよ。大丈夫。」
と母親をなだめた。
妹が顔を拭き、体を拭き、髪を拭き、服を着る。俺は絶好のタイミングだと思い、
「ぶはぁ!あー、溺れるところだった。あ!妹よ、今俺が入ってるぞ。 服を脱ぐなよ。」
と諌める演技をした。
「大丈夫よ、お兄ちゃん。服着るところよ。」
「お、おお。そうか、悪いな。あ!お前、風呂で寝るなよ。溺れるぞ。俺みたいに。」
俺は愛想笑いを浮かべた。妹は真顔だった。
「いや、起きてて、隠れてたんでしょ?」
「え、いや……。」
どう答えたらよいか分からなかった。
「少なくとも、足の筋肉が震えてたよ。貧弱ね。」
妹は風呂から出て行った。どうやら、妹に罵倒される
未来は変わらなかったようである。
俺は風呂から出て、顔を拭き、体を拭き、髪を拭いて、恥ずかしさにのぼせた顔を団扇で扇ぐ。どうやら、妹との心の距離が少し離れたようだ。
「見逃してくれた妹に乾杯。」
リビングまでがとても遠くに感じられた。