第五話 蘭花、暗躍し、七志、次期侯爵と共に出立す。
大騒ぎの二人が誰にも見咎められなかった事には無論、訳がある。二人があらゆる種類の酒を胃の中でシャッフルしていたその当時、カボチャことジャック・オ・ルァンターンもまた行動を開始していた。最近、麻衣菜が生み出した新たな仲間、<夢使い>スリーピング・バグに命じ、屋敷の住民をことごとく眠らせようとしていた。
「眠れー、眠れー、ずっと眠れー、朝まで眠れー、」
ピンク色のふざけた顔をしたコウモリは屋敷の上空をぐるぐると旋回しながら、怪音波を撒き散らす。催眠と撹乱の効果を含むこの音波の影響のため、例の二人は悪酔いに拍車がかかっていった。
人間の耳には届かないはずの周波数……しかし、気付く者は気付く。
用心深いジェシカに対しては、カボチャが直々に工作にかかった。カボチャとバカ話に興じていた為に気付けぬまま、彼女は突然神経の糸が切れた。
「はれ? なんか、眠……、」
「ゆっくりお休みなさいませ。」
床へ倒れたジェシカを見下ろす者が二人に増える。カボチャの影を伝い、音もなく麻衣菜の腹心、蘭花が侵入した。
三国を股にかけて、麻衣菜の配下である魔物たちは草の根のようにひっそりと潜伏していた。いたるところ、そこかしこに。それらの影をネットワークに、イフリートの協力を得て、彼女たちは何処へでも自在に移動が適った。
眠り込んだジェシカをベッドへ運び、蘭花は少女の額に手を置いた。イメージ・ボム、いずれ使う事になるやも知れない彼女の能力の種をジェシカに植え付ける。
顔を上げ、カボチャの居る方向へと向き直った。
「麻衣菜はどこ?」
「お部屋でお待ちでございます。しばしお待ちください、バグが屋敷を制圧し終えますまで。」
屋敷の使用人と主アデリーンはすでにバグの支配下だ。夢を見せられ、その挙動はコントロールされる。
「眠れー! 眠れー! しつこいのが三人、眠れー!!」
窓の外をバタバタと派手な羽音をたてながら、件の魔物が通っていった。
「手間取ってるみたいじゃない?」
気配は消しておいた方が良さそうね、と言うなり蘭花の姿は半透明になった。
油断のない者なら、微細な超音波を使おうとも気付く時には気付く。シェリーヌは肌で感じる違和感に即座に対応した。部屋の中へ即効性の結界を張り巡らせる。
ビリビリと、侵入しようとする力と防ぎ置こうとする力とがせめぎ合った。
「なんてことなの、このままでは押し負ける……!」
慌てて彼女はマジックアイテムを用意した。鋭利なナイフが四本、その柄の部分には細かな鱗が貼られ虹色の光沢を放っている。貴重なドラゴンの牙を加工した刃に脱皮した人魚の子供の腹の皮が貼ってあるものだ。人魚は下半身が魚の者と、ウミヘビの者とが居て、これは後者の産物だ。
シェリーヌは自身のすぐ傍、極狭い範囲になるようにこのナイフを床へ突き立てていった。広い空間をバリアで覆うのは不利と考え、魔力を凝縮して対抗する手に出た。
「諸々たる者どもよ、数ある精霊の御名の中にありてなお強き精霊の長よ、月の堅固なる光の力を持ちて、二つ世に顕現し我を助けよ。今、我が身の危機をことごとく跳ね除ける如く、光の砦となれ。」
はっきりと、肉眼で見えるほどの強い光がシェリーヌの周囲に満ちた。
「これでしばらくは持ちますわね、他の方々はご無事かしら……、」
このタイプの魔法は通常、術を掛ける一刻にだけ集中して防御を掛ければ良いものだった。魔力が波のように広まり、人々を術に掛けてしまった後は、途切れる。その間に逆転の施策もあろう、と。
そう思い、魔力の波が引いた後に動くつもりでいたのだが、目算が狂った。
一向に、術を仕掛けようとする魔力の波は止まる気配を見せなかった。文字通り、引いては寄せる波のように折り重なり、波紋のように打ち寄せ続けた。
シェリーヌはじわりと恐怖を感じた。いったい、どれほどの魔力を備えた者だというのか、およそ屋敷全体を覆っているであろう奇怪な魔術は、幾重にも折り重なって濃さを増し、彼女の作り出した結界すら押し潰そうとしていた。
「魔力の消費が、追いつかない……!」
一角が破られた。はじけ飛ぶナイフが甲高い音を奏でる。一度に雪崩れ込んだ魔力の濁流に、シェリーヌは声を上げる間もなく、呑み込まれた。意識が、急激に失われていく感覚を遠いもののように感じる。
「はぁ、はぁ……、あと二人! あと二人! 眠れー!!」
「もう宜しいですぞ、その二人は酒が化学反応を起こした状態でとうていお前の技は効かぬでしょうからな。」
ヘロヘロになって飛ぶピンクのコウモリを迎えに出たカボチャが、そう言った。酒が入った二人、七志とエドワードは眠るどころか、派手に気炎を上げている姿が窓辺に見えている。
「あうあう、酒呑み嫌い!」
コミカルな顔に涙を浮かべて、コウモリはぐず泣きのままカボチャの後ろに従った。
空の客間に蘭花が待ち受けている。
「麻衣菜様の許へ。屋敷の者はほぼ全てを制圧済みでございます。」
「ほぼ? ああ、七志ね。まぁいいわ。あの子、どうせ何も考えてないだろうから。」
キッカの正体が麻衣菜である事を知ってなお、そこから先の予測を立ててはいない。他の者たちは少なからず、何事かを画策し水面下に動いているというのに。実の所、今回こうして蘭花が出向いた理由も、その辺りにあった。
「麻衣菜、入るわよ?」
「蘭花! 遅かったね、手間取った?」
「ちょっとね。あ、七志が酒飲んでクダ巻いてるから、注意しといた方がいいわよ。」
「またぁ。七志はそんな人じゃないって言ってるでしょ。」
扉を開け、中へ招き入れながら、麻衣菜は頬を膨らませて答えた。
好きな男を信用するのも結構だけれど? 蘭花は鼻でせせら笑う。
「じゃ、予定通りにいくわよ。これを常に持ち歩いて。リセット爆弾のカートリッジだからね。麻衣菜の魔力でこの弾を満タンにしたら、手筈通りバグに渡して。」
「うん……。だけど、大丈夫かな。巧くいく?」
「巧くやるしかないでしょ。この作戦で、文字通り"魔女"は消えてなくなるのよ。七志と戦わずに済ますには、魔女が居なくなるのが一番簡単なんだからね。」
もし、この作戦が通れば、の話だけど。蘭花は暗鬱な気持ちを隠している。
実際にはそんなに簡単に騙されてくれるような人間ばかりではない事を承知して、蘭花は嘘をついた。麻衣菜だけは、なんとしてでも守る。そのために、配下の魔物が一匹残らず斃れたとしても。そして、自分たちが消えてしまう事がなによりも、魔女の消滅という事実に説得力を持たせるだろう事も、主には告げなかった。
この後、大騒動の末に潰れた二人を運ばされた蘭花は、文字通り、文句たらたらの体だ。
「すみませんな、蘭花様。わたくし、箸より重い物は持てませんので。」
「そのうち煮込みにしてやるから、覚えてなさいよ。」
乱暴に七志をベッドへ投げ落として、蘭花が低く脅した。
朝の日差しが眩し過ぎると、七志はぼんやりと考えていた。カーテンを開けっ放しで寝てしまったのか、真正面から、昇る太陽の光が差しこんでくる。
「うう……ん、」
寝返りを打とうとした。
ぐぎ。
「い……!!」
あまりな激痛に襲われた時、人間の声帯は言葉を放棄するものらしい。
「おはようございます、七志様。いかがなさいました?」
そのままの姿勢で固まった主人に、使い魔のカボチャが呑気な声をかけた。
◆◆◆
魔法とは、かくも便利なものである。
七志は城下から呼び寄せてもらった魔導師の治療でなんとか全快した。酔った勢いで階段を転げ落ちるなりしたのだろうと笑われた。したたかに腰を強打したようで、本来なら全治二ヵ月の重症だとも言われた。通常の、湿布薬で治す方法と、魔法で治す方法とがあり、後者はぼったくりだ。一般家庭は程度に合わせて併用する。
「まだるっこしい事は無しですわ、センセ、さっさと治療してくださいまし。」
侯爵家ともなれば、ぼったくりな治療費など造作もない金額のようであった。
「昨夜って? ……まるで覚えてない……、」
エドワードが相談にかこつけて呑みに来た。しんみりと互いの愚痴を聞きあった、までは記憶にある。
ベッドに突っ伏したまま、七志は二日酔いでガンガンと痛む頭を抱えて呻いている。聞けばエドワードも似たような状態だそうだ。おそらく、二人で意気投合して潰れるまで呑んだのだろう。
「ほほ。さすがの英雄も、お酒には呑まれてしまわれますのね。可愛いらしいことですわ。」
アデリーンが妖艶に微笑み、含みのある仕草で七志に目配せを送った。今夜を誘うような仕草、それ自体には実際通りの意味などなく、癖のようなものであったが。
それより気になるのはよそよそしいキッカの態度だ。目線を合わせてくれないし、話すことさえ拒絶するように人々の後ろへ控え、七志とは距離を置いているのが解かる。この状況でこの態度、消えた記憶の中身を嫌でも気付かされるようで絶望感一杯だ。
「んもー、七志さんってばドジですねー。」
ジェシカとシェリーヌは笑っている。何かあったとすれば気付かぬ二人ではないはずだが、三者の温度差は奇妙な感じがした。
事実、ジェシカとシェリーヌは演技をしている。
七志がこれほどの大怪我をしたというのに、なぜ自身は眠り込んでいたのか。その理屈が合わないからだ。
二人の記憶は消されていたが、うっかりと、整合性の部分を見過ごした。ジェシカもシェリーヌも、昨夜のうちに何かが起きたことを察知している。自分たちの記憶がすり替えられていることも。
そして、その犯人が、後ろに隠れているキッカ……"魔女"であることも承知して、茶番に付き合っていた。
来訪者の魔女はなかなか正体を現さず、尻尾も掴ませない。ジェシカは正直、舌を巻いていた。ここまでガードの堅いターゲットは初めてだ。何も解からない。末席とはいえ、ロシュト家の者が直々に貼り付いていて、このザマというのは屈辱でさえあった。
……これが、来訪者の力……。脅威をまざまざと感じさせられる瞬間だ。今回が初めてという事ではないのかも知れず、なおさら、"魔女"の目的が解からなかった。消えた記憶のその間に、一体何が行われたのか。
「二日酔いだけは魔法でもどうにもなりませんな、」
魔導師は治療を終える際にそう言いおいて苦笑いを浮かべた。魔法は怪我の類は治せても、病は基本、治癒が出来ないのだ。この世界で命を落とす者は9割が病気による。怪我を治しても感染症であっけなく、という事もままあった。
魔導師が辞去した後、アデリーンは酔い醒ましの薬をもってきてくれた。民間治療の類で効用のほどはお察しだ。
「効くと保障は致しかねますわ。けれど、頭痛程度でしたら治まりますわよ。」
「助かります、」
このひどい頭痛がどうにかなるならと、他の効能は一切問題にならないほど心底感謝した七志だ。
「飛竜便をご用意致しましたのに。今日のところはキャンセルですわね、後日、本宅へお送り致しますわ。」
手配が速い。亡霊退治のため、フィラルド侯爵の領地へ行かせるための手段がすでに用意されていたらしかった。
「エドワードも、どの程度飲んだものかは存じませんけど、酔いつぶれて廊下で眠るだなんて、情けないこと。多少ふらついてでも自室へ戻るくらいは出来たでしょうに。根性なしですわ、本当に。」
いや、そこは問題にしないでほしい、七志は心の中でツッコミを入れて聞いていた。
「どれほど呑んでも構いはしませんけれど、お酒に呑まれてしまうようではいけませんわよ。侯爵家の名折れですわ。酔い潰れたとしても、人前では毅然としておくものではありませんの。」
ずいぶんと立腹したようで幾らでも文句が涌きだしてくる。貴族というものも、大変らしいという事だけ理解した。
翌日に二人は亡霊退治のため、フィラルド侯爵領へ。
キッカやジェシカには遠慮してほしいとのアデリーンの要請により、今回の依頼は七志とエドワードの二人で行うことになった。姉として、次期侯爵である弟の醜聞は出来るだけ他人に洩らしたくないのだと言った。
「ゴースト系には何と言っても聖水がマストアイテムだと聞きます。」
二人乗りの飛竜の背で、エドワードが暇つぶしの薀蓄語りを披露する。この国は国土の半分が国王の直轄で、残りを貴族たちが分割で支配する。ゆえに、高速の移動手段は必須だ。
大空を飛ぶ余暇を持て余すのか、エドワードは饒舌だ。
「ゾンビはほとんどの場合が死霊術による召喚が原因で、自然発生することが少ないモンスターだそうです。これに聖水はまるで効果がありませんが、逆に自然発生の多いゴーストには多大な効果があるといいます。ゴーストに肉体を与えて甦らせたものがゾンビであるのか、はたまたまるで違う方法で死体を動かしているのか、死霊術というものは使役者自身もその理屈が解かってはいないそうですね。」
およそ、魔法と言われる秘術の多くがその仕組みを説明できないものばかりだが、エドワードは聞きかじりの知識を元にあれこれと話をした。
「教会の見解としては、死霊術によるゾンビに聖水が効かないのは彼らが招魂による操作ではないせいだとされています。つまり、魔法の力で動いているだけで、魂が戻ったわけではないからだ、ということだそうです。けれど、魔導師たちの中では、結論付けることは危険であるという見方の方が強く、ゾンビに魂は宿っていないと主張する教会とは対立しているという事ですね。」
聖水が無効である一事をもって結果論で決めつける教会に対し、魔導師協会は強く反発しているのだとエドワードは七志に教えた。かように、多くの論争で魔導師協会とリング教会は反目しあっているらしい。
どちらかといえば、聖水の成分のほうが興味があると思った七志だが、不敬と取られるのは明らかなので黙っておいた。
「まず、領地に建てられている教会へ出向き、聖水を分けて頂くことになります。聖水を大量に用意して、屋敷の地下に巣食うゴーストたちを殲滅するという作戦です。」
おそらくは、かつて彼が雇ったという冒険者たちが立てた作戦だったのだろう。結局、アデリーンの猛烈な反対に遭い、冒険者たちは地下へ赴くことはなかったとも聞き及んでいる。
「えらく大雑把ですね。聖水を大量にというけど、中に入るのは俺とあなたの二人だけですよ? どうやって運ぶかとか、携帯の手段だとか、その点は考えておられますか?」
運びこむ途中で襲われた場合の対処法など、エドワードの説明では足りない部分が数多くある。
「え、と……、それは……、」
七志が飛竜の前の席。後ろから次期侯爵の戸惑う声が聞こえた。