第三話 王の寵姫、弟を憂い、英雄に弟を託す。
王城を辞して、宿泊の宿へ帰った時には日がとっぷりと暮れていた。
こんなに遅くなってしまったのには理由がある。なにも国王夫妻と話し込んでいたばかりでここまで遅くなったわけではない。王家の所蔵する書籍の保管庫で長い時を過ごしていたせいだ。
七志も近頃は駆け引きにも慣れてきて、今回の依頼をちゃっかりと交渉材料にさせてもらった。泥棒をする見返りとして、この保管庫への自由な立ち入りを許可させた。
七志自身、麻衣菜同様にまだ諦めてはいないのだ、元の世界へ戻る方法を探す、その目的のためにこの依頼を受けた。
初めて見た保管庫の内部は、まるでゲーム世界によく見る図書館のようだった。ぎっしりと詰め込まれた書籍の数々、この中に、来訪者に関するものも必ずあるはずだ、と。
「ふぅ、見立ては良かったはずなんだけどなぁ。」
乗り合い馬車に揺られ、七志は呟く。
甘かった。膨大な書籍の中で、七志のやろうとした事は、砂漠で宝石を探すようなことだった。
いや、まだ諦めるには早い。七志は頭を勢いよく振って、舞い降りてきた暗い思考を追い払った。
明日はアデリーンの屋敷へ出向く予定だ。そちらの仕事が片付いたら、もう一度、あの保管庫を訪ねてみようと予定を立てた。
翌日は、いよいよでアデリーンの許へ。以前に来た時とは違い、正式に正面玄関へと向かう。
王都は城の外壁に続く掘割に沿って、街並みが放射状に伸びて、密集した建物をもってさらに外郭としている。外に広がる田園との境界に、それぞれの建物は壁となり、門構えを繋いでいた。
空から見た時には、巨大な要塞のようなその威容がよく解かったものだが、それぞれの門戸を潜って出入りする状態の今は、あまり感じられない。ぐるりと壁に囲まれていても、上層部にはバルコニーがあり、洗濯物が風に揺れている。色濃い生活臭で誤魔化され、要塞のような外観は気持ちに止まらなかった。
王都を抜けると、景色はいっぺんに様相を変える。いきなり片田舎の田園風景になり、緑の絨毯が果てもなく続く。
ぽつぽつと農家の屋根が点在し、馬車を走らせるうちに、ひときわ大きな屋敷が見え始めた。
アデリーンの待つ、フィラルド侯爵の別邸だ。
貴族たちは皆、このような別邸を王都の郊外に建てているらしい。一族から王の愛妾となる者が現れた時の為に、王が渡るに適した、王都に近い場所へ広大な敷地を構えている。王の愛人を囲う場所ではあるが、費用は国が持つわけではないのだ。だが、王の寵姫を出した家には大きな見返りがある。国政への発言権の強化や、なにより貴族社会でのステイタスとして、一族から寵愛を受ける者が出たという誉れはどうしても欲しいタイトルであった。
「ようこそいらっしゃいました、七志様。」
王妃とまるきり同じ台詞で、国王の寵姫は来訪者を迎え入れた。
「シェリーヌ、あなたも一緒だなんて、さすがに件の英雄は気が利いていらっしゃるわ。感謝致しますわね、七志様。今のわたくしに彼女を引き合わせてくださるなんて、本当にあなたは人の心がお読みになれるのではないかしら。」
泣き笑いの表情で、アデリーンは七志に感謝の意思を表す。それは掛け値なしの本当の気持ちらしかった。
王政にまつわる駆け引きの続く中、いつでも緊張の糸を張り続けたままで過ごす日々。油断をすれば取って食われるような、政争の道具としての生き方。寵姫となり、登りつめた今も、王の歓心を得るための努力は並大抵ではない。
四方八方を敵と認める生活の中で、かつて共に遊び、慕った、懐かしい人を客人は従えてきてくれた。
七志の心遣いと素直に受け取って、彼女は感謝の言葉を述べた。
頷く七志の隣に一歩控えて立っていたシェリーヌが、おず、と言葉を挟んだ。
「お懐かしゅうございます、アデリーン様。お義父上様に弟君は、お元気でいらっしゃいますか?」
「ええ。二人とも元気過ぎるくらいよ、シェリーヌ。それと、お前の母も変わらず過ごしているそうよ。わたくしも、しばらく会ってはいないのだけれど、長年仕えてくれ、周りからも頼りにされているそうです。」
「まぁ、それは有難いことで御座います。母がお役に立てているならば、なによりですわ。わたくしはご無沙汰しておりますけれど、いつ何時も、侯爵様の御恩を忘れたことなど御座いません。」
シェリーヌは今日のこの日のため、特別に用意した新しい衣装を着て、優雅に一礼をした。こんなにも、今の自分は恵まれた生活をしている、心配はしなくてもいい、とアピールするために持ってきたものだった。受け取るアデリーンも、普段キツそうな同じ彼女のものかと疑うほど柔和な表情で、会釈を返した。目上から目下への挨拶。
そうして、彼女はもう一度、この奇跡の再会を演出した来訪者の英雄を、眩しい想いで見つめた。
◆◆◆
メイドが傍に立ち、ティーカップをそれぞれの前へ並べ、紅茶を注ぎいれる間、彼女は黙っていた。中庭に設えられたオープンテラスのテーブルに、七志の一行とアデリーンとがそれぞれ席についている。時折、彼女は隣に招いたシェリーヌの傍へ身を傾け、ひそひそと内緒の話に興じたりして微笑んでいた。
本格的に女だらけの会場となり、七志としては居心地が悪い。座りの悪さに身じろぎを繰り返していたが、逃げることも出来ずで、愛想笑いを終始浮かべて耐えている。
別のメイドがチェリーパイを運び、それぞれのデッシュ皿へ切り分けた三角のパイを取ってくれる。そっと、銀のフォークが傍に置かれ、一礼を残して去った。
真っ白なテーブルウェアに、降り注ぐ柔らかな陽の光。赤いルビーの輝きを思わせるスウィーツ。さざめくような少女たちの声。世界が、なんだか違って見えた。
「もう一人、七志様にはご紹介したい者が御座いますのよ。なれど申し訳御座いませんわ、朝から狩りへ出掛けてしまって、ご紹介は夕刻になってしまいますの。わたくしの弟、次期侯爵となるエドワードですわ。お見知りおきくださいませね。」
本人が居ないことを心苦しく思う、とアデリーンは申し訳なさげに表情を曇らせた。
「今日、お出でになると解かっていれば、留め置きましたのに。きっとあの子も驚きますわ、七志様の粋な計らいはわたくしとて予想外でしたもの。」
どうしてシェリーヌの事を知ったのかと、彼女は二人の出逢いの経緯を聞きたがった。
掻い摘んだ話を七志が告げた後には、そっとハンカチで涙を拭い、シェリーヌの不遇を嘆いてさらに七志に礼を繰り返す。救い出してくれてありがとう、と。
「やはり、貴方はわたくしの見込んだ通りの方ですわね。国王陛下の信任が厚いことさえ頷けますわ。皆、貴方の人柄に魅せられるのでしょう、わたくし同様に。」
アデリーンは少し考えるような仕草で言葉を切った。そして、そっと窺うような視線を七志に投げた。
「七志様、勇者様。」
意を決するような響きに、七志も自然と姿勢を正す。ここへ呼んだ本題に入ろうというのだろう。
「わたくしの願いを、お聞き届けくださいまし。」
実のところ、七志は事前に己の使い魔から公爵家にまつわる注意事を仕入れてからここへ挑んでいる。だから、聞かされる事情はすでに了承済みの事柄ばかりだ。彼女が話す弟エドワードの事に関しても……。
「困ったことですのよ。」ほぅ、とため息を吐いて、アデリーンは話を中断した。
再びメイドが彼女の傍に立つ。空になったカップへなみなみと紅茶が注ぎ込まれる。メイドの娘も庶民とはいえ、良家の子女を雇い入れ、使用人は皆しっかりとした後見を持つ者だけを周囲に配している。
侯爵ともなれば細かなところまでの厳重な警戒はむしろ当然となっている。黒髪の、頬を紅潮させた少女は七志の傍へ来た時には更なる緊張で手が震えている。なんとか無事にカップへ紅茶を注ぎ終え、一礼を残して下がった。全員のカップがふたたび琥珀色で満たされる。一口啜ると上品なミルクの香りが鼻孔をくすぐった。
アデリーンはメイドが下がるのを見計らって、ふたたび話を再開した。
「話というのは、他でもない弟エドワードのことですわ。」
エドワードと聞き、シェリーヌの手が止まった。七志はその様子を目に留め、怪訝に思いつつ話に耳を傾ける。
「あの子は甘やかされて育ちましたの。本来なら嫡男となるべき男子を二人も一度に失くされた後に、ようやく出来たお子ですもの。当然の成り行きかも知れませんわね。周囲にちやほやされ、養父上も晩年に出来たあの子が可愛くて仕方なかったのですわね。……けれど今は後悔していらっしゃるわ。あの子が、跡取りとしてはあまりにも頼りなく、使えない男に育ってしまったと判断せざるを得ないと……。」
彼女はまた、深いため息を吐いた。
「ある日、このような事が御座いましたわ。本家である侯爵家の屋敷の地下にあるワインセラーには、貴方がた冒険者と言われる者たちが一生遊んで暮らせるほどの金額ともなる、貴重なワインがごろごろと転がっているのですけれども、そこへ亡霊が出るとの報告が使用人から寄せられましたの。それを、あの子に始末を任せてみたのですわ、どのように取り仕切るつもりかと。……結果は最悪でしたわ。自身で単身乗り込むとでも言いだしてくれた方がまだマシ。あの子は、よりにもよって、冒険者を雇い入れるという暴挙に出ましたの。」
未だ腹に据えかねるのか、アデリーンは少々乱暴な仕草でカップを呷る。
「まったく、考え無しにも程がありますわ。いくらギルドが保障する者たちだと言えど、行き会っただけの、まるで信頼も結んではいない相手である者たちを、屋敷へ入れるだなんて……。しかも、貴重品が眠っていると解かっている場所をわざわざ教え、屋敷の誰も、見張りにも付けないままで送り込むだなんて。なんて愚かなんでしょう。」
眉を顰め、彼女はゆっくりと首を左右に揺らした。否定のゼスチュア。
「……養父は今、あの子を廃嫡にしようかと悩んでいらっしゃるの。出来のいい次男三男など、他家には幾らでも居ますもの。けれど、あたくしは反対です。他家、それも近しい貴族の家からだなんて、乗っ取りの為の工作員を入れるようなものではありませんの。けれど、そのくらい、養父は切羽詰っておられるのですわ。」
頷きを返してはいても、これらの事情も、先持って七志はカボチャに聞かされている。
いっそこのアデリーンが男であれば、と侯爵は何度となく考えたとも聞くが、それもありなん、と感じた。
「あの子はただ、臆病なだけですのよ? その臆病が高じて、弱みとなってしまっているのですわ。本当は頭の良い子ですの。臆病が、時に間違った判断に妥協を許してしまうだけ。少し考えれば解かりますでしょ? 冒険者などという得体の知れない者を雇い入れる危険を冒すよりも、自身が直接飛び込むほうがまだマシだと思うくらいのことは当然あの子にもありますわ。それを、臆病が妥協させるのですわ。人を信頼する、本来なら取り柄となるべき美点さえ、臆病風のために、間違いの上塗りと化けてしまいましたの。」
「エドワード様は、ご幼少の頃からお優しい方でしたもの……。」
おいたわしい、とシェリーヌがぽつりと呟いた。
この時の、アデリーンの視線が七志には気掛かりとなった。応えたシェリーヌを見る彼女の目が。なんとも言い難い、何か漠然とした不安を呼び起こすような、訴えるべきことを隠し持っている表情。
「……そうですわね。本当にシェリーヌ、お前はわたくしたちをよくよく理解してくれていますわ……。」
胸騒ぎがした。
「お願いというのは他でもありません、弟エドワードのことですの。ぜひ、七志様のお力添えを持って、あの子の性根を叩き直して頂きたいのですわ。」
アデリーンの締めの言葉を聞いたとたん、なぜだかジェシカが紅茶を噴き出した。今まで黙って聞いていたのに、どうしたことなのかと七志も訝る。
「や。ごめんなさい、ちょっと気管に。」
苦笑いで誤魔化して、ジェシカは口元を拭った。わざとらしく見えぬよう、巧く咳きも織り交ぜる。
「大丈夫か? ジェシカ。」
「大丈夫、大丈夫。そそっかしいから、わたし。」けほ。
知らん顔で隣のキッカが紅茶を口に含む。アデリーンは少々呆れ気味に少女たちを見遣っていた。
「ともあれ、宜しくお願い致しますわ、七志様。例の亡霊騒動も、まだ解決してはおりませんの。弟と共に本家へ出向き、そちらの騒動も解決して頂ければ助かりますわ。弟を、びしばししごいてやって下さいませね。」
どうやら拒否は念頭にもないらしい。七志は苦い顔をしたが、すぐに微妙な笑みへと変えて頷いた。
「解かりました、約束は約束ですから。俺に務まるかどうかは保障出来ませんが、お引き受けします。」
ジェシカにしてみれば、こんなに滑稽な劇はない。それは、先日、そっくりそのままで当の七志が師匠のライアスにやられた事だ。甘ちゃんな性根を叩き直す。それで直ったのかと言えば、見ての通り。
まぁ、逆に今回の依頼で七志も自身の考えを改めてくれれば上等だ。自身が甘い考えのままで指導など出来るはずもないのだから。なにはともあれ、面白くなってきた。
くすくす笑いでジェシカは紅茶のカップに口をつけた。
それを冷ややかに見つめている、キッカ。