第二十七話 帰路の一幕
騎士たちが包囲網を敷いていたために出られなかったという事実は綺麗さっぱり隠蔽されて、王都では、件の勇者が大胆にも国王の愛妾に手を出した、というまことしやかな噂が流れていた。
店先で見知らぬ誰かがひそひそと話しているのは、たいていはその話だ。
「フィオーネ様との婚約を破棄したのは、つまり、アデリーン様に一目惚れしてたからってことかね?」
「フィオーネ様にアデリーン様かー。どちらも輝くばかりにお美しいからなぁ、勇者様の気持ちも解からんでもないやね。」
こんな具合。
それはさながら、アデリーンよりフィオーネの方が劣ると言いたげにも聞こえるが、負けた当人の姫将軍が意に介していないので問題はないようだ。奥向きに生きる女性ならば由々しき事態かも知れないが、戦に生きる彼女にはまるで意味がない。美しさを気にかける女性であったなら、炎天下の闘技場を駆けまわったりはしないだろう。
「あんまり気にしてないみたいですね、七志さん。」
街中を歩けば、嫌でも噂は耳に入る。異界へ来て数か月、少しは逞しくなり日焼けもした七志は、仰々しい恰好さえしなければ、至って平凡な一市民としか見えず、普段の様子で通りを闊歩している。御大層な騎士の鎧は返品した。
隣のジェシカが感心したようにそう言うと、七志は平然と答えた。
「別にいいよ、何と言われようと。俺は英雄でも勇者でもないし。彼らはマボロシを相手に噂しあってるだけだ。」
現に、こうして通りを歩いていても、誰一人気付かないだろ? 七志は笑った。
「ふふーん、そんなこと言って。どうせ、キッカさんは事実を知ってるから、他はどーでもいいってだけでしょ?」
「そうとも言う。」
にんまりと笑って、七志は自信満々の態度で認めた。惚気のようなものか。
国王からの許可も出た。アデリーンは機嫌よく執筆にかかってくれた。
万事巧く運んでいる。
七志はずいぶんとタフになった。外見だけでなく、中身が段違いに成長した。
それを知るわけではなくても、ジェシカは眩しげに目を細めて隣の英雄を見遣る。この世界へ来る以前の七志なら、きっと彼女は惚れたりしなかっただろう。優柔不断で、流されるままに何も考えずに日を送っていただけの、元の世界に居た七志には何の魅力も感じなかったに違いない。ごくごく普通の平凡な高校生が、ここまで変化した。
二人の様子をじっと窺い、遠い空の向こうに居る麻衣菜とて、リリィを助けようとする七志を見るまでは、敵に対する冷酷な目を向けていた。
今、二人の少女が、同じ切ない想いを抱いて一人の英雄を見つめている。
ジェシカはぱっ、と視線を七志から逸らした。
「七志さん、お昼ご飯にしましょう! 魔導師街のゲテモノ料理をまだ味わってないでしょう!?」
今から馬車に乗れば昼過ぎには到着しますよー、と彼女は七志の腕を取り、引っ張った。
「ゲテモノって、なんでわざわざそんな食事を勧めるかなぁ?」
「いやー、やっぱりここまで来たなら、一度は食べないと! タラバも食べ損ねたでしょう?」
結局、麻衣菜と七志の二人はあの時にタラバを食べられなかったのだ。巨大カニは国王が食べたものかと七志は思っていた。そういう噂が囁かれていたからだ。
「あのカニ、結局、王様がたらふく食ったんだろうなぁ。」
「え? 違いますよぉ、姉上が取り上げてしまいましたもん。陛下に食べさせても勿体ないだけだって。味わって食べるという意識がないって、以前、姉上が嘆いてましたっけね、そういえば。」
呆れ口調を装ってはいたが、実際はやはり魔力異常の影響を考え、国王の食卓には出さなかったものだ。
「徹底して調べて、危険はないと知れたそうです。で、その結果を踏まえた上で、市民に振る舞われたそうです。」
御前試合の商品となり、市街対抗のなにがしの競技で優勝した地区の住民に下賜されたという話だった。
「すっごい盛り上がりだったそうですよー。」
「へー。あの王様もけっこう良いトコあるんだ。」
王様というより、王妃の入れ知恵だろうか。独り勝手に納得の七志。
七志の抱く王家のイメージが最低であることを知って、ジェシカは苦笑を浮かべる。兄からはイメージアップを図るようにとも命じられているが、前途多難に思えた。
盗み見た七志の横顔は、初めて会った時とは違う、自信に満ちた表情。いや、何か吹っ切れたような、確かに以前とは違う七志がそこに居る。
「どうしたんだ、ジェシカ? 急ぐんだろ?」
「え? ああ、そうですね、じゃあ急ぎましょう!」
じゃあって何だよ、と苦笑する七志を手を取り、ジェシカは駆け出した。
らしくもなく、どぎまぎしてしまった。誤魔化すために走った。
国王の許可を取る際に、王妃から条件を付けられた。実際、どんな条件であるかはまだ聞かされていない。ジェシカと二人、馬車に揺られながら七志は考えていた。王都は広く、市街地を結ぶ幹線経路には馬車が多く行き交う。乗合馬車だけでなく、雑多な種類の馬車がある。大通りは埃っぽい。
王妃の出してくる条件とは、どんなものだろうか。アデリーンにも含みを持たされているから、おそらく彼女も何か頼み事を言いだすだろう。国王の様子を見る限りだと無理難題を持ち出す気配はなかった。第一、そのつもりならもう吹っかけられているだろう。
ああ、忘れていたが教皇府からも呼ばれていたっけ、とついでのように思い出したり。
俄かに忙しくなり、交通路の発達していない中世世界が苛立たしくなった。移動の時間が長すぎるのだ。
こつん、突然肩に重みが掛かった。
見ればジェシカがうたた寝で、七志の肩に頭をもたせている。自然と笑みがこぼれた。
移動の時間はやたらに長く、手持無沙汰だ。考える時間がたっぷりあるという風に切り替えれば、ずいぶん深く色々な事柄を考えることが出来るわけだが。
街の喧騒。人々の活気に賑わう市場。少しセンチメンタルになっているのかも知れない。揺れる馬車の座席に腰掛け、人の流れを見ているだけで物寂しい気分になる。異邦人だ、と。
「もうじき魔導師街を過ぎるけれど、誰か降りる方はいらっしゃるかねー?」
御者席のおじさんが呼ばわる声に、七志は引き戻される。
「あ、はい! 降ろしてください!」
「うにゃ?」
肩が大きく動いたせいでジェシカが目を覚ました。素っ頓狂な声を出して目をこする。
「あ、いつの間にか寝ちゃいました、すいません七志さん。」
「いや、気にしなくていいよ。ほら、魔導師街に着いたってさ。」
馬車がゆっくりとスピードを落とし、やがて街角で停まった。停留所の看板は、角の建物の壁にぶら下がっている。
二人を降ろした馬車はふたたび鞭の音と共に走り出し、見送るうちに建物の角を曲がって見えなくなった。
「着きました、七志さん! わたしのお勧めのゲテモノはー、やっぱりクラーケンですねー。」
「クラーケン……イカか。別にゲテモノってほどでもないんじゃないか?」
日本では普通にタコもイカも食卓に上る。ポピュラーな食材だ。外国ではゲテモノ扱いの国があるという話を、そういえば聞いたことがあるなと七志は思いだした。
「えー。」ジェシカは不満げだ。「やっぱり来訪者には通じませんか。ゲテモノ食いだっていう噂は本当だったんですね。」どんな噂が流れているのだか、日本という国はゲテモノ食いの文化と思われているらしかった。
「イカなんて普通だって。ゲテモノって、カエルとかの方がよっぽどだよ!」
「カエルなんて普通じゃないですか! イカですよ!? クラーケン、信じられませんよ!!」
ぎゃいのぎゃいのと騒ぎすぎたせいでヘンに悪目立ちしてしまい、注目を浴びた。
「……いこう、」
ジェシカの腕を取り、そそくさと場を退散した。
この先もまだゴタゴタしそうな気配もあるが、それはまたその時に考えよう。
「ジェシカ、ちょっと付き合ってくれよ。たまには皆にお土産でも買って帰ろうかと思うんだ。」
皆の待つカナリア亭へ向かう、帰路の途中の一場面だった。