第二十三話 おかえりなさい。
七志がようやく隔離された外壁の傍へ姿を現した。そこには待ち受けていた数人の傭兵たちが居る。
「俺達は感染しない種類だ、安心していいぜ、坊主。」
感染リスクにはグレードがあり、一番高リスクである魔導師系の人間はそこに居ない。ただし、彼らが用意した魔法陣が地面に描かれており、淡く青い光を放っていた。描いたのはリーフラインとシェリーヌだそうだ。
シェリーヌが居てくれたお蔭で、色々と今回は助けられた。傭兵の一人がズボンのポケットからくしゃくしゃになった紙切れを引っ張り出して、読み上げる。
「ええっと。まずは坊主、その魔法陣の上に移動してくれ。」
言われるまま、素直に移動する。
「そんで、この呪文を……と。『開け、ノズル』」
言葉が終わるか終らないかというタイミングで、七志の頭上に大量の液体が中空から降り落ちた。
どばしゃ。
この後に金タライが落ちてきて「カンッ」とでも音を叩けば上出来だ。
魔法陣はプールの役割をも果たすのだろう、落ちてきた強酸の液体は筒型に溜まり七志の機体を浮かべる。今度は七志の側で気圧を調整して、頭の先までその溶液に沈み込んだ。
「悪ぃな、坊主。リーフの旦那によれば、他人任せに発火出来る魔法ってのは単純仕様になっちまうんだとよ。シャワーみてぇにやさしく振りまいてやりたいとこだが、そういう訳だ、カンベンしろよ。」
ゲラゲラとまだ腹を抱えて笑っている傭兵たちの間で、先ほどの男が苦笑を浮かべてそう言った。遠隔魔法の変形判、他者にスイッチさせる高度な魔法だそうだ。
気を悪くするほどの事もない、いつもの扱い、通常運転だ。
機体の消毒作業が完了し、ようやく七志は拠点の宿屋へ戻ることが出来た。
体調を崩したというキッカのことが心配だ。機体の装着を解除、青い機体は一瞬で分解し、そのままサイズを縮めながら七志の腕で再構築されて元の腕輪の姿に戻る。
システムがどう、質量保存の法則がこう、という難しい理屈はもう考えないことにしている。神の奇蹟、超科学、オーパーズ、好きに呼んだらいい。
「おかえりなさい、七志さん!」
真っ先に駆け寄ってきたのはジェシカだ。気配に敏感な彼女の次にリリィが寄ってきた。
「おかえり、七志。キッカは今寝てるから、見舞いの前に食事とお風呂を済ませてね。」
「予定外だがまぁ結果オーライだ。ごくろうさん、七志。」
リリィの後ろに居たジャックが言った。
「じーさんがダイニングで待ってるぜ、美味い茶を淹れてやるってさ。」
「え、先生が?」
師匠にそんなことは恐れ多い、と七志は駆け出した。
「お、」
「おかえりなさいませ、七志様。」
ダイニングにはライアスの他、シェリーヌがキッチンに立っていた。台詞を奪われたカボチャが口をぱくぱくさせているのが妙に滑稽だ。七志に続いて、出迎え組も戻る。
シェリーヌは微笑みを湛え、キッチンから出てくる。
「今はお疲れでしょうから、食事とお風呂を済ませたらゆっくりお休みになるのが宜しゅうございますわ。」
おおかたのところは皆、承知していて、屋敷の地下で何があったかなど聞く者は一人も居ない。
「リーフライン様は、明日の朝、改めていらっしゃるそうですわ。」
湯気の上がるリゾット皿を七志のテーブルの前へ置いて、シェリーヌが言った。
その皿のとなりに、ライアスがティーカップを添える。
「キッカの顔だけ見て、今日のところはゆっくり休むようにな、七志。」
「先生、キッカは大丈夫だったんですか?」
「心配ないそうじゃ。疲れが溜まっておったのだろう、強行軍でわしらを追いかけてきたという事実をうっかり失念しておった。わしの落ち度じゃな。」
七志は慌てて首を振った。気付かなかったのは、誰も同じ、ライアスのせいではない。
再びシェリーヌが来て、七志の前へ銀のスプーンをそっと添える。
「今はゆっくりとお休みになっておられますわ。でも、七志様のことを一番心配していらしたのも彼女です、お休みになられる前にでも、ご無事な姿をお見せになられたらいかがでしょう。」
そうする、と答えて、七志は熱いリゾットを口に運んだ。ホワイトソースの甘い香りが、腹が減っていることを思い出させた。
あの場にキッカが現れたことを、彼女には話したほうがいいのだろうか。
なによりキッカの感染が心配な七志だが、自分でも理屈の通らない話だと解かっていて、説明出来る自信がない。なぜ、あの場に突然キッカが現れたのか、あの時に見えた数々の風景は……、あの4人のエルフたちの姿に、七志自身も救われたことは確かだが、なにか狐につままれたようで納得がいかなかった。
「何か引っかかる事でも起きたかの? 七志。」
「はぁ、先生。実は……、」
胸に秘めておくのも苦しくて、迷いながらも七志は正直に、地下で起きた事を話すことに決めた。
「彼女はなにせ……な、何があってもおかしくはないのだが。もし本当にその場に現れたのが彼女だとしたら、やはり念のためにもう一度くらいは検査をした方が良いだろうな。」
彼女の身を借りて降臨した女神と、彼女自身との関係については、現時点では下手に推論することは避けたほうがよい、とライアスは締めくくった。七志も師の意見に賛成だ。
本当に、キッカが真実を打ち明けてくれればよいのに、と七志は願う。魔女と呼ばれるまでには、人には言いたくもない辛い出来事もあっただろう、だから問い詰めるようなことはしたくないが、もどかしいと感じていた。
「キッカ、……寝てるよな。」明りも点けずに暗い室内へ向けて小さな声を漏らす。ドアの外からなら、眠りを妨げずに済むかと気を使って、七志は廊下からキッカの部屋を覗いて続けた。「心配かけたけど、無事に帰ってきたから。それじゃ、おやすみ。」
差し込んでいた四角い光の帯が、すぅと細くなり、室内はまた暗がりに戻る。
ぱたん、と静かな音がした。
ぱちりと目を開けて、キッカは鼻を啜りあげた。無事に帰ってくれた事を知り、涙が止まらなくなったのだ。
枕元に、小さな妖精がすやすやと寝息を立てて眠っている。ずっと寝ずに付いていたパールは七志が来た事にも気付かず眠っていた。
◆◆◆
朝になって、約束通りの時間にリーフラインはやってきた。
七志が疲れているかどうかは基本、彼には二の次だ。眠っているところを叩き起こされて、七志は彼をしばらく待たせた。先に、まだ休んでいると聞いたキッカの許へ行きたかったからだ。
「キッカ、気分はどうだ?」
戸を開けてそう尋ねた七志の前へ、妖精の光がくるくると踊った。指先を唇に当て、「しーっ、」と咎める。
ベッドへ伏したまま、キッカは顔だけ七志へ向けた。
「あ、七志。昨日はごめんね、おかえりも言えなくって……、」
そんなことはいい、と七志は以外にも強い口調で言い返す。
「それよりキッカ、昨日のこととかは覚えてるか?」
「え? なんの話?」
だいたいの予想はついたが、彼女はシラを切った。
「洞窟に、キッカが現れたんだ。いや、キッカがというか……誰かが乗り移ってるというか、怪物になってしまったエルフたちが口々に言うんだ、君に向かって、女神様って……。」
「え……、なに、それ? わたし、覚えてないよ。」
パールにも話してはいない。あの夢の出来事は誰にも秘密にしていた。
明らかに落胆した七志の表情に、キッカは慌てて取り繕った。
「あ、でも、夢は見てた。変な夢だったよ、わたしが……女神さまが、わたしだった。わたしそっくりの女神様を、夢の中でわたしが見てるの。なんか変でしょ?」
「えー!? なによそれ、わたし初耳なんだけど!?」
パールがショックを受けたとばかりに抗議した。何でも話し合える親友ポジションとでも思っているのだろう。
伝わったのか、伝わらなかったのか、七志は首を傾げていた。
「とにかく、気をつけてくれ、キッカ。この世界では、神は決して俺達の……人間の味方って訳じゃないから。」
七志の発した最後の言葉に、なぜだかキッカは胸を刺される感じがした。
「キッカ。君はもう少し休んだほうがいいよ、出立の準備が済んだ頃に起きれれば充分だからさ。」
「うん、最後までお荷物でごめん、」
「気にするなよ。それに、こっちこそ気付かなくてごめん、皆も言ってたけど無理させてたのに誰も気付かなかったもんな。今度からは辛かったらすぐ言ってくれよ、遠慮されるほうが、皆も嫌なんだからさ。」
うんうんと、キッカはベッドに横たわったままで何度も頷いた。
実際に、今から起き出せと言われても巧く立って歩けるかどうかも解からないほどに、酷い虚脱に襲われていた。
「そーなのよ、七志。今朝は特に酷いみたいだからさ、出来れば出立を伸ばしてくれるようにライアスに頼んでみてよ。」
ふたたびパールが飛んでいき、七志の周りを巡りながらそう言った。
慌ててキッカが取り繕う。眩暈がして、途中で弱音になったが。
「大丈夫、すぐよくなるから。て、……やっぱり、昼までは休ませてもらえないかな、ごめん。」
「出立予定は明日だよ、今日はゆっくり眠って。キッカ。じゃ、おやすみ。」
七志はまた一歩も部屋へ踏み込むことなく、そっと扉を閉めて帰っていった。部屋へ入れば長居する、気を遣わせることを避けたのだろう。
キッカはベッドでため息を吐く。きゅっ、と瞼を固く閉じた。
今は眠って、体力を戻さねば。これ以上、七志の足手まといにはなりたくない。
懸命に、眠るように努めた。
◆◆◆
「これが……今回の収穫です。」
七志は、念を入れて真空パックにしておいた日誌をテーブルの上に乗せた。
「血が。乾燥してるし、ずいぶん時間も経ってるようだから、どうかは解かりませんが念のために。」
もしかしたら、タイラルのものではなくて怪物のものである可能性を考えて用心した。
「ありがとう、七志。本当に、君には何と言えばいいのか……辛い仕事を引き受けてくれて、本当にありがとう。」
真剣な声で、リーフラインは言った。表情は深くかぶった帽子のつばに遮られて見えない。
「エルフたちはもう全員引き揚げてしまったんだ、……彼らは危険を冒してここに来ているから。くれぐれも君によろしくと、そう伝えるようにと頼まれている。彼らはこの恩を決して忘れないだろう、世界中の、まぁそれは言い過ぎとしても、この三国にまたがる地域のエルフたちは皆、君の味方になってくれるだろう。君が困った時には必ず助けに来ると、例のリーダーが言っていたよ。」
「七志、お前はどんどん味方を増やしてくな。末恐ろしいぜ。」
場の空気を軽くしようと、ジャックが七志の肩を突いて言った。
調子を合わせて、七志も照れ笑いを浮かべる。苦い笑いにしかならなかったが。
「あの、今回の見返りっていうと何なんだけど、頼みを聞いてもらえませんか?」
「なんだい? 僕に出来ることなら何でも協力するよ。君には本当に助けられたからね。」
「では、遠慮なく。」七志は一呼吸置き、タイミングを計った。
「タイラル氏の、名誉を回復したいんです。世間に流れている噂は、まるで真実じゃない。このままでは彼等が可哀そうです、いや、彼に申し訳ないんです。」
命懸けで少女を守り、未来に希望を託して死んでいった、その願いを踏みにじったのは紛れもない七志自身だ。責任を感じていた。罪が軽くなるわけではない、そんなつもりもない、ただ、何かしてやりたかった。
「君が贖罪意識など持つ必要はないんだよ、七志。」
リーフラインは少し困ったような顔をした。
「何か不都合がありますか? 秘密にされている事から少しだけはぐらかして、危険なウイルスの事は伏せて、なんとか真実を世に公表することは出来ませんか?」
「難しいことだよ、七志。僕の一存ではもちろん、王様にもそれは難しいだろう。」
「けど、」
このままでは、あまりにも彼らが可哀そうだ。
「このままだなんて……あの噂を耳にする度に、きっと俺は世間を憎んでしまいたくなる。」
呟くような一言に、魔導師は慌てた。
「おいおい、脅すのかい? 困ったな、君が人類の敵に回るなんてゾッとしない未来だよ。」
苦笑を浮かべ、リーフラインは頭を掻いた。
「七志さん!」その時、ジェシカが割り込んだ。「わたしに良い考えがあります!」
「良い考えはいいけど、もう少し静かに喋れないのかい? 君?」
耳を塞いで、リーフラインがぼやく。ジェシカは彼の隣で喋っていた。
「あ、これは失礼しました! わたし、声が大きいんだそうです、ごめんなさい!」
堪らず逃げ出す魔導師。空いた一人分を詰めて彼女が七志の隣へ移動すると、すかさず七志も耳を塞いだ。
テンションが上がると声のボリュームも上がる事を、同じチームの者はよく弁えている。
意にも介さずジェシカは気負いこんで叫ぶ。
「姉上にお願いするという手があります!」
目を輝かせて、彼女は意見を発表した。
「いいですか、七志さんが今回発見した日誌、これで得られた事実をより効果的に世間に広める方法があります。この悲劇的な背景! 後の世に伝わる誤解! エルフと大富豪の禁断の恋! これは、宮廷小説の題材として、またとないほどの逸品です!」
「小説って……、」
彼らを見世物にしようというのかと、七志は不快な声を零した。
「誤解しちゃいけませんよ、七志さん! 宮廷小説はゴシップな内容ばかりじゃありません、芸術にまで高められた作品も数多く存在するんです! だから姉上はそういう上質で希少な価値を求めて、かの小説たちをコレクトしているのですから!」
「え。王妃様ってそういう系の人なの?」
例えるなら、隠れヲタを見たような。そういう表情でリリィがぼそりと言った。
「何を言うんです! リリィさんだって大好きでしょ!? 宮廷小説!!」
「うん。そりゃそうだけど。」
庶民の手に渡ることなんて滅多にないけどねー。リリィが答える。
「宮廷小説の及ぼす影響力はバカに出来ない一大勢力なのですよ! 政治の世界ではごく当たり前に考慮すべき事案です。特に貴族や富裕層に与える影響はとても大きいため、制御には常に神経を尖らせているんですよ!」
情報操作は世の常である。程度の差こそあれ、七志の世界の民主主義な陣営ですら、それは当然と行われているのだから。
「印刷とかの技術はそんなに進んでないのかな? こっちの世界って、俺から見ると色々とちぐはぐなんだけど。」
「例えば?」
「例えば……、普通にトイレが水洗だったりしたのが。」
「バカにしてません? それ?」
ジェシカはぷぅと頬を膨らませた。
しかしながら、かなりちぐはぐな印象を受ける市井の暮らし向きなのだ。
印刷物がほとんど見えないくせに、都心は普通に道路は全面舗装が為され、上下水道は近代設備だ。けれど、王都以外の中堅都市となるとまた、グレードがバラバラに、街の衛生管理も杜撰だったりする。物価は都市ごとに乱高下しがちなところを、物流商人が行き来してなんとか均一を保っている、という感じか。王都と地方都市を往復し、価値の異なる商品を運び込んで売りさばくだけで儲けが出るという。近代と中世が奇妙に融合して、独特の風景を作っている。
一見、中世のヨーロッパ辺りの街並みが、よくよく観察すれば七志の住む世界よりも機能的だったりする。王都、特に王宮に近しい一角ともなれば、地面には塵一つ落ちてはいないのだ。
アパートメントは一階に共同の水回りがあるものというのが、この世界の常識だ。ポンプは魔法動力で、値が張るからだそうだ。都会で、少しばかり裕福な家庭であれば、個人宅でもトイレを水洗に出来る。七志のホームであるカナリア亭は水洗だが、近隣はみなくみ取り式だった。多数の人が共同生活を営みコストを低く抑えられるところと、元々の金持ちが多く住むところとは、魔法科学の恩恵に浴することが叶う。湧き水の源泉自体は限られる為に、人が多いということは飲み水が高騰するということでもあったが。
紙は貴重品で、だから当たり前にウォシュレットだ。乾燥機能まで付いている。……どちらにせよ、七志の知る中世とはまるで違う世界だ。魔法のある世界は、無い世界から来た者にとっては色々とデタラメに見えた。
永久機関として利用される魔導アイテムはドラゴン・オーブ。とても貴重で高価なシロモノだ。