第二十二話 女神の福音
七志の意思を反映し、機体の両腕が変形を始める。ガシンと重い音を最後にガトリングガンが完成。
静かに銃口を向けた。
覚悟は決めた。そのはずなのに、ここへ来てまだ七志の心は迷いを断ち切れないのか、照準を合わせることを両の瞳が拒んだ。霞んでぼやける視界に、何度も目をこする。無意識の抵抗に我ながらで辟易した。
銃口がブレる。小刻みに震えるのが自分の感覚として伝わった。
――なぜ、襲い掛かってこないんだ――
彼らが口々に「たすけて、」と発している。確信に近付いてゆくその感覚をただの思い込みだと振り払うことは困難だった。
『たすけて、』
『たすけて、』
『たすけて、』
やめてくれ、俺にはどうしようもないんだ。
視界が水中に潜るカメラのように突然ぼやけた。一瞬、自身の目に涙が浮き上がったことさえ気付かなかった。
「どうして、襲ってこないんだよ!」
待っているのに。言い訳が出来るそのタイミングを待っているのに、彼らは一向に飛び掛かってこない。
ただ喘ぐように、呻くように、口を開閉して、見えているかも定かでない肉に埋まった両目を七志に向けていた。
無抵抗の者を殺さねばならない。彼ら自身には何の罪科もないと知っているのに。
ただの、犠牲者なのに。
ハッチバックの中へ仕舞い込んだ血みどろの日誌が、背中へずしりと重くのしかかる。
最期まで諦めなかった男の、最後の希望すら粉々に粉砕しようとしている。
「ごめんなさい、タイラルさん……。俺には、無理なんです、」
心の奥で何度も詫びた。命懸けで守り通した彼の望みは、ここで潰える。七志の手にかかって。
両腕のガトリングが火を噴いた。
粉々に砕けていく肉体。引き裂かれ、引き千切られ、飛び散る肉片すら逃すまいとする容赦ない銃弾の雨が、弾けうねりながら小さな断片すらもすり潰していく。焼夷弾が混じり込み、カケラとなった肉を焼く傍から、霧となって散布された強酸が細胞の一つすら残さぬ勢いでウイルスを死滅させていく。
高温の水蒸気が立ち込め、岩肌は灼熱に焼けた色へと変わりかけている。
断末魔の悲鳴が四重奏を奏でた。
人生で初めて味わう敗北感に打ちのめされながら、七志は涙に滲む視界の中でその光景を心へ焼き付ける。
『運命』という、抗いがたい力に負けた。心まで打ち倒された。
「ちくしょう……、ちくしょう! ちくしょうっ!」
心の中ではタイラルの記した文章が、未来に託した希望が、七志を責め立てている。
最期まで諦めることのなかった男。彼のような強さは、七志には持ち得ない。
泣きながら、果てるともない弾丸の雨を哀れな怪物に見舞わせ続けた。
助けて 助けて 助けて 痛い 痛い なんで どうして
怪物の中ではパニックが起きていた。
もう何一つ満足に考えることも出来ない状態に至り、成り行きで4人は行き会った誰かを呑み込んだだけだ。
何が起きたかも理解になかった。
自身が何者か、そんな疑問さえもう浮かんでくることもない。単純な生物のように、ただ腹を減らしていた。
そんな中で、突然、激しい痛みが襲ってきた。
引き千切られた腕を追おうとして、さらに全身を引き裂かれて、痛みにのたうつ。
怖くて、苦しくて、ただ、ただ、恐ろしかった。
恐慌を来たした4人の前へふいに、舞い降りた者がある。
優しく微笑み、両腕を優雅に広げた。
柔らかな光があたりを照らす。
恐ろしい、火を噴く腕を持つ鉄の塊は、女神が見えないようだった。
音が消え、痛みが消え、景色が消え、恐ろしい鉄の人型が消え……。
ああ、女神様が助けてくださるのだ、と4人は理解した。
長い間忘れていた自我が、戻ってきた。
記憶が巡る。
なんとしても忘れたくはない、彼らの大切な記憶だ。それぞれに、それぞれが生きた分だけの。
とても大切な記憶が、呼び戻される。
◆◆◆
「――か、こんなところに居たとは、」続きの言葉は発せられることはない。永遠に。
強かに壁へ叩きつけられ、タイラルは即死の状態で息絶えてしまった。
自我を失ったエルフの少女が、魔物の雄叫びを上げる。今のその姿に相応しい、禍々しい声で。
僅かに自我が浮上した。
自分の名前は、なんだっただろう? 最初に浮かんだ疑問。
彼が発した先程の台詞に、その名詞があった気がする。
解からない。
どうしてこんな場所へ来たのかも、解からない。獣臭い、枯草の匂いが入り混じっている。
微かに正気を取り戻したエルフは、ぼんやりとしたまま、醜く膨れ上がった槌のような手で、動かなくなった男の肩をそっと揺さぶった。
起きて。
なぜこんな所で眠っているの?
男が死んでいることに気付くのは、もっと後になってからだ。
興味を失くしたように、自我が奥底へ沈み込んだ後の少女は、そのまま這い出ていく。
微かに光が差しこんで、ほんの少しだけ、眩しいと感じた。
はっきりと意識が覚醒した。ぼんやりとしていた少女本人にとって、それはほんの僅かな時間としか感じない。
地下の暗い洞窟の中だった。じめじめして、カビた、嫌な臭いがする。地下室ではない事が不思議でならない。
なぜこんなところにいるのかも解からない。近頃はずっとそうだ。
記憶は後から呼び覚まされた。
両手を持ち上げた。震える指先、この手が何をしたのかを、思い出した。
這い出していく。洞窟の地面は尖った小石が無数に散らばって、彼女の肌を容赦なくえぐる。泥の上にコケが生え、気持ちの悪い汁が滲み、彼女の肌にまとわりつく。ムカデが、彼女と同じに這いながら横切った。
覚醒している時だけは、正しく計算が出来る。
あれから何日が経った? 彼を殺して、それから……。
這いずりながらで昇る階段は、角が容赦なく肌に食い込み、まるで拷問のようだ。
いつもはゆっくりと、身体に負担をかけないように工夫して昇る。そも、よほどの用事でも無ければ、彼が来てくれるまで待っていた。痛みに歯を食いしばり、地獄の拷問器具を這い登る。
――嘘だと言って――
信じたくなかった。自身のした事を、認めたくなかったから確かめに来た。どんな痛みにも耐えて。
書斎の扉はそのままだった。
あまりにもそのまま過ぎて、まるで時間が経っていないのではないかと、期待した。
もしかしたら、あの後に彼は起きだして、首でも振って痛みを堪えていたのかも知れない。
驚いたよって、笑顔を向けてくれるかも知れない。
あの扉の向こうで、何事もなく……、
勇気を振り絞って、飛び込んだ。
書斎の中は、記憶にあるままだ。
風に飛ばされた書類が床に散らばって、けれど彼の姿はなかった。
そうだ、ここに彼は居ない。
わたしを探して、馬小屋へやってきて……、
階段を降りることは難しく、転げ落ちてしまった。いつもなら、息を切らして飛んでくるのに、そう思った。
少女は痛む身体にも構わず、ホールを抜け、裏庭へ向かう。
あの時は、確か、馬は暴れ出したのだ。それを見て、わけが解からなくなった。
それから……、
「こんなところに居たとは」
安堵したような彼の声が聞こえたのだ。けれどその時、自身は奥深いところに居て、なんだか解からなかった。
馬小屋のひさしから、陽の光が漏れて目に眩しい。これも、見た覚えがある。
暗い小屋の中は嫌に臭いが籠もっていた。
慟哭の声が屋敷に響く。遠く、風に乗って街まで届いた嗚咽の声を、人々は魔物の雄叫びだとして畏れた。
樫の木で出来たテーブルの上には分厚い日誌が残されていた。不自由な手で大事に抱え、二階のバルコニーから身を投げた。死ぬことのない我が身を忘れ果てていた。
痛みだけは異常を来たすことなく正常で、茨の中でもがくほどにあちこちが裂かれ、痛む。すぐに地面は血だまりを作った。
茨の茂みを抜け出した時、全身から血を流し、その血を吸ってずっしりと重くなった日誌をそれでも大事に抱えていた。雨が降って、身体の血を洗い流していく。僅かな傷などすぐに塞がるこの身が忌まわしかった。
同じ日誌に自らの望みを書き記し、いつか訪れるだろう誰かに託す。
殺してほしいという願いは、きっと彼の望むものではない。
彼? ふと、気付く。
喉の奥に絡んだかのように、大切なその名は、少女の脳裏へは戻ってこない。
霞の中へ迷い込むように、そのまま彼女の自我も暗い闇の中へと落ちていく。
僅かな自我は浮き沈みを繰り返し、大事なその名は霞んでいった。
なぜこの日誌を抱えているのか解からない。
けれど、これはとても大切なものだから……そうだ、埋めておこう。
右に生えてきた白い塊がうねうねと動いて、とても持ちづらい。
だから、持っておかなくてもいいように、埋めようと、幼稚な思考が閃いた。
四本の腕はバラバラで、二本は思うように動くけれど、残りの二本はいう事を聞かない。
◆◆◆
女神は微笑んでいた。
慈悲深く、穏やかな笑みで憐れな怪物を見下ろしていた。
「……キッカ?」
信じられないものを見るような、七志は混乱する頭でそれでも女神の名を呼んだ。
もうじき終わる、ようやくこの地獄から解放されると、つめた息を吐き出したその瞬間に、見えた。
モニター越し、背後に浮かんでいるのは紛れもなく、仲間である占い師の少女だ。
混乱した。なぜ彼女がここに居るのかが解からない。
ここは危険で、いや、こんな一方的な殺戮を彼女に見られてしまった、いや……
一歩、後ずさった。
頭の中へ、少女の声が響く。違う、キッカではない、女神の声が――
死の淵に横たわり、しばし眠りなさい。
おだやかで苦しみのない世界で。
わたしが抱いていてあげるから。
いま再び目覚める時まで……
故郷はどうなってしまったのか。
残した家族はどうしているのか。
恋人は。
それぞれが、それぞれに問う。
女神が答えを与えてくれる。
わたしの名前などいいの。
どうか、お願いです、あの人の名前だけは返して。
その名を抱いて、眠りたいのです。
どうか、女神様。
憐れな少女に女神は微笑み、両手を広げ、手招いた。
女神の唇がうごき、一つの言葉を紡ぐ。
今までどうしても思い出せなかったその名が、記憶の中へ戻る。
―― ロバート ――
エルフの少女は最期の一瞬、笑みを浮かべた。至福の微笑み。
彼が、迎えに来てくれた。
駆け出す腕は、脚は、なびく金色の髪は、あの日のままだった。
血煙が立ち込める洞窟内。
たった一人、立ち尽くす機械の騎士。
『七志、七志、聞こえるかい? 状況は? ずいぶん遅くなってるようだが、一体――』
「すべて、終了しました。」
疲れの滲む声に、それきり通信の向こう側は沈黙した。