第二十一話 キメラ
大商人とエルフの少女が悲劇的な最期を迎えたその土地で、百数十年が過ぎたころへ。
過去の時間から、麻衣菜は引き戻された。
「キッカ、キッカ。」
揺さぶったのは心配げな顔をして覗き込む年上の少女、リリィだ。少女と呼ぶのは失礼かも知れない、レディというべき年頃。
「大丈夫? お昼、食べられるかなと思って。聞きに来たんだけど?」
「あ、うん。大丈夫です。眠ったら少しマシになったみたい……、寝不足かな?」
苦笑で答えて、キッカは次に七志の様子を問いかけた。昼が近いというなら、もう戻っただろうか。
「七志はまだよ。色々と採取しながらだから、もう少し掛かるんじゃないかな。」
「そうですか。わたしが体調を崩したから……ごめんなさい、」
結局、自分は役立たずなのかも知れないと、キッカは沈んだ気持ちの中で思う。
肝心な場面でこれだ。あの時と、ただ見ているしか出来なかったあの日と、何が違うというのだろう。
結局、七志を助けてあげられない。
「ところでさ、キッカ。」
少し改まった口調で、リリィが切り出す。彼女はキッカの横たわるベッドのふちに腰掛けた。
「知ってる? 来訪者でもある『火の山の魔女』の話。」
微かに漂うよそよそしい感じは、隠しきれない警戒心の表れなのだと麻衣菜は気付き、小さく笑みを零した。
自嘲のようにも見えるその微笑は、反対側を向いていたためにリリィには見られていないはずだ。
何が聞きたいのだろう? わたしを、魔女だと知った上で。
ベッドに腰掛けたリリィは、少し背を丸めた猫背の姿勢で思案中にも見えた。言葉を選りすぐっているのかも知れない。ややもして、続きの言葉がその口から紡ぎだされる。
「あのさ。あの子ってさ、『碑文』を、探してるんじゃないかと思ってんのよ、あたしは。」
その通りよ。思いながらキッカは黙って話を聞いている。
「ルーディルアートにある碑文の言葉は最後の節を現してる。たった一行だけ、『生き残った最後の来訪者は、待ち望んだ世界へ戻る。』そう書いてあるだけよね。」
いいえ。その碑文には仕掛けがあるの。多量の空白部分を読める能力者が、ただ一人というだけ。
三国に跨って存在する6つの碑文を刻んだ石碑、それらのうち、読める文字で書かれたものは教皇庁に存在するただ1つだけだった。いや、正確にはレリーフと思われている部分が碑文だから、ほんの一部しか解読はされていない。
麻衣菜は答えるつもりがなく、心の中だけで回答を続け黙秘を貫く。眠っているフリで押し通すつもりだった。
「待ち望んだ世界って、なんのことだと思う? 願いが叶えられた世界へ、という意味? 殺し合いの末に、神の力の全てを手にすれば、確かに全能よね。不可能なんて無くなる。……そういう意味なの?」
教えるつもりはない。空白部分こそが重要で、他はフェイクであることも。
フリのつもりだった眠りが、睡魔のように舞い戻ってきた。
雲の合間を縫うように飛んでいる、そんなイメージから突如、抜けるような青空が広がった。
夢の世界なのか、現実なのか、過去へと戻された今日という日が何の日なのかはもう知っていた。
ロバート・タイラルは日課となったエルフの少女の病状記録を続けていた。
いつか、魔術がこの壁を破る日に期待して、少しでも有用なデータを残そうと考えてのことだった。
『――エルフの寿命は500年、あるいは長生きして800年生きたとして、彼女に与えられた残酷な不死性がその時には潰えるものであるかは現時点で推し量ることが出来ない。また、治癒の方法が見つかったとして、それが人道的な範囲を越す可能性をも懸念する。』
もしやと思い、七志の世界でいう移植手術に相当する方法を取った、後々の日誌だ。
『自らの罪の告白と共に、ここに明記しておく。私はその禁断の方法に手を染めた。不幸にも事変の争いに巻き込まれて死んだエルフの身体を手に入れたのだ。懺悔する、神を恐れぬ者たちを雇い入れ、その機会を窺ってきた。昨日は、その報いを受けた日だった。』
悪徳の中の悪徳、死者への冒涜と見なされる行為が、移植術だ。中世と同じ世界で、ごく一部の人々以外、普通の人々にとっては、他人の身体から臓器を取り出して別の人間の身体へ入れる行為は、受け入れがたかったのだ。
教会が特にこれを忌み嫌っていた。
『彼女に、死んだエルフの顔から剥いだ皮を移植した。彼女は知らないことだ、腿の皮を分けてもらい、魔法の施術で培養したものだと偽った。培養した皮膚での実験はとうの昔に行い、失敗している。』
魔法の力の力場が、この近辺では歪になっていることも、研究のうちに知れたものだった。神を恐れぬ魔導師たちが幾人か、タイラルに協力していたものらしい。
『培養皮膚は、魔力が強く残されている。だから、純粋に、天然のものを使えばどうなるかはまだ解からないと、結論付けていた。結果を、冷静な筆致を保ったままで書き記す自信が私にはない。神はどこまで非情なのか。いったい、彼女が何をしたというのか。』
そこまで書いて、タイラルは乱暴に最後の数行を黒く塗りつぶした。
そして、頭を抱えた。
長い間、彼は書斎の椅子に背をもたせかけたまま、じっと目を閉じていた。
もう一度筆を執るまでに、どれほどの葛藤を繰り返したか。
『――結論を書こう。培養皮膚の時には二日で病が侵蝕して元の状態に戻ってしまった。次に今回の結果だが、これも同じだった。日数は少し保ったが、一週間で元に戻ってしまった。新しい、他人のものであった皮膚でも関係なく、このウイルスは影響を及ぼす。ここに至り、魔導師は懸念があると教えてくれた。三度目の移植は、他種族、人間の皮だ。これは移植直後に拒絶反応が起きる、本来ならば。私にも秘密で行われたこの第三の手術で使われた皮膚は、先の二度と同じ結果に終わった。』
後の世でこの日誌を読む者は、悪魔の所業と戦慄を覚えるだろう。
自嘲の笑みで、タイラルは筆を滑らせ続ける。
『今回の結果を見て、魔導師は手を引いた。私もそれが良いと思う。手の施しようがなくなったと、彼女に告げるのは心苦しいが、覚悟していたことだ。それよりも、まず後の世に警告せねばならない。エルフ族特有と思われていたこの病、象皮病は人間にも罹患する可能性が隠されている。エルフに人間の臓器移植は、本来、成功すべくもないことだ。だが、今回の件では明確な拒絶反応は見られないまま、順応した後に象皮病の患部へと変化した。人間に、感染する可能性がある。エルフと人間の間にハーフは生まれてくる。その事実を蔑ろにすべきでない。』
再び、タイラルは筆を置いた。
自身は、長く彼女と過ごすが罹患の気配がない。離れた使用人たちも、後の便りにそのことを書いて送ってきた者は一人もなかった。おそらくは、魔力が関連するのだろう、とページの最後に書き記した。
◆◆◆
ため息と共に筆を置き、俯いたままでしばらく動かない。この奇妙な癖もいつのまにか付いたものだった。
洒落男で名の知れた豪商も、いまでは見る影もない。無精ひげなど残した試しもなかったと、自らの顎を手で撫でさすりながらで苦笑を浮かべた。
「ん? ああ、いつから来てたんだ? 気付かなかったよ。」
「真剣な顔してたから、邪魔しちゃいけないかなと思って、」
言葉も綴ることが困難になった喉を絞るようにして、途切れ途切れの単語を繋げて、彼女はようやくでそう言った。
他人の顔を奪ってまでして元に戻した彼女の美しかった顔は、ほんの数日で無残な状態に変わり果てていた。屋敷中、鏡という鏡を取り除いた。窓に映る姿さえ苦痛な様子に、窓のガラスさえ取り外して、今は木の枠組みだけだ。
憐みが心に浮き上がる度に、タイラルは己の心を無にした。感じてはいけない、それさえ彼女を苦しめる。
静かな時間が、これはこれで結構幸せなものだと思えるのだから。
それで満足していればいい。この穏やかな時ができるだけ長く続くことを願った。
彼女の今の姿を、辛くとも書き記して残さねばならない。
突き動かされるまま、タイラルは再び筆を執る。
『このような事を書き記すのは、私としても不本意だ。だが、書かねばならない。美しかったエルフの少女に、どれほどの辛い仕打ちを神が与えたもうたかを。出会いのあの瞬間を私は今も忘れてはない。輝くほどの美しい存在だった。エルフという種族が、見目麗しい者たちであるとは聞いていたが、実際に初めて目にした時の驚きは言葉に出来ない。引き合わせてくださった、その事には素直に感謝しよう。彼女に出会えた時の私は、一目で彼女の虜となった。あの日、すでに彼女に恋をしていたのだと思えるのだ。』
気恥ずかしさが勝り、照れ隠しに頭を掻いた。そしてまた、最後の二行ほどを黒く塗りつぶして消した。
『残念だ。いや、彼女の内面の美しさや愛おしさは変わりはしないが、損なわれた身体的美の為に、彼女自身がひどく塞いでいるのが、見ていて心苦しい。私はもう彼女の容姿など気にはならないのだが。言えばさらに傷付くだろう。彼女の美しい肌も今では無残な灰褐色に変わり果てた。文字通り象皮のようにごわごわとしている。――』
彼女を苦しめる悪魔。書き記した後で、またため息を吐いた。
ふと気付けば彼女の姿がない。
すでに立って歩くことは適わず、さりとてタイラルが手を貸してやれる範囲も超えて肥大化していた彼女が、どこへ移動したものかと不安になった。階段は危険だ。
立ち上がり、エルフの少女を探しに出た。書斎へわざわざやって来るということは、何か頼みでもあったのかも知れないと、今さらで気付く。
「――、どこだ?」
その名前がぼやけてしまうのは、この風景が重要な意味を持つからだ。
女神の視点は同時に、ある不幸な人物の記憶の視点でもあると、麻衣菜は気付かされた。
◆◆◆
百数十年後の未来の景色は、当時をそのままセピアにしたようだ。
暗い洞窟に、ライトのハイビームで無理やり昼間を作り出す。床に広がる黒いシミを採取するために、七志は屈んで地面を睨んでいた。このシミが血痕であるなら、その量は多量だ。リーフラインの言うように、本当に共食いが行われたのなら、ここに残る血のほとんどは同じ人物からのものとなるのだろうか。
その様子を想像し、七志は身震いした。
将来には、治すことが叶うかも知れない。可能性は残されているが、共食いまで起こした事を知って、本人は果たして生き残りたいと願うだろうか。先に見つけた日誌、書き残されていた一行が思い出された。
殺してください、という願いはエルフの少女が記したのだろう。いったい、何があったのか。どんな絶望的な状況で、あの一文は書かれたのだろう。居た堪れない気持ちになった。
もしかしたら、そう思う事すら、自身が勝手に抱くエゴかも知れない。本人たちが死にたいと言った、その言葉を今、聞いたわけではない。殺す理由を探している、そう思えて、胸が潰れそうな苦しみを感じた。
「本人たちは最後まで望みを捨ててなんかいないかも知れないじゃないか、」
呟かれた言葉を聞いた者はいない。静まり返った危険地区の只中で、七志の呟きは地面に落ちて消えた。
タイラルが望んだのは、あの少女の治癒だ。いつの日にか治療法が確立され、エルフの少女に笑顔が戻ることを。
きっと望んだに違いないのに。
殺すことをなお躊躇いながら、七志は堂々巡りの思考をいつまでもぐるぐると回し続けていた。
ずるり、ずるり、と。
背後に忍び寄ろうとする意図が、遅いテンポの中に見えていた。
這い寄る音は単音で、背後に存在する者は一つきりだと教えている。
七志は振り返った。出来るだけ刺激しないよう、静かに、ゆっくりと、落ち着いて。
視界に映りこんだモノを、形容する言葉を七志は一つしか知らない。
そこに居たモノは文字通りの怪物だ。
頭が4つもある。それぞれは意思の疎通がないのだろうか、それぞれに好き勝手に動こうとして暴れ、結合部分からは絶え間なく血が噴き出している。胴体は巨大な芋虫のように、白く、ぶよぶよとして、わずかに体毛が生える。
呻き声のような唸り声のような、分類のし難い奇妙な音色でそれぞれが勝手に口を開閉していた。
例えばそれは……、この形状を言い表す名称を七志はそれ一つきりしか知らないのだ。
『キメラ』
ヒヤリとした塊が、胃の中へ静かに流れ落ちていった。空気が冷えていく、いや、自身の心境の方だろう。
「そうか……、君たちはもう、助けることが出来ないんだな。」
自分でも冷たい声だと思ったほどだ。
この絶望の現実を見るに至り、ようやく七志は決意した。自らの意思で、彼らを殺す。