第二十話 大商人とエルフの少女
昼も夜もない生活がエルフの少女のすべてとなった。
死の病。その恐怖はあったけれど、かつての追われる日々に比べれば随分とマシに思える穏やかな日は唐突に終わる。
物心ついた時には誰も信じてはいけない時代の只中に居た。エルフと人間の間柄は険悪で、エルフ同士も猜疑の目を向けあう。森に住むエルフと街に住むエルフは反目しあっていた。
森のエルフは嫌悪を込めて、街のエルフを『ダーク』と呼んだ。後々には、気狂いの季節と呼ばれることとなる時代。
エルフたちは巨大な悪意の根源がどこにあったのかを、以後、長い間探し続ける。
ダークの少女は大商人に匿われ、地下室で息を殺して家族の到着を待ちわびていた。一目でいいから会いたい。自由の天地へ旅立つ彼らを見送りたい。自身はここで朽ち果てる。けれど、そんなささやかな望みさえ叶えられることはなかった。
「嘘、」
「本当です。昨夜も、旦那様がお客人と話していましたもの。」
小さな嫉妬が少女に不幸を運んできた。幾重に重なる彼女の不幸をメイドの娘は彼女なりの正義感で憤った。
その末に。
「ご家族は、残念なことになってしまいました。ずっと待っておられる姿を見ていて、なんだかわたしが言わねばならないような気がしてきたのです。何も知らされていない貴女が、その……、」
小さな嫉妬と深い同情は、思い悩むうちに奇妙な義務感へと変わったのだろう。主人の怒りは覚悟の上だと娘は言った。
「わたしならば、耐えられないと思ったのです。大切な家族が失われて、それを知らないままに過ごすなんて……悲し過ぎると思ったのです。ごめんなさい、知らない方が良いとお考えかも知れません、差し出た真似かも知れませんが、どうしても、伝えなくてはいけないと思ってしまったのです。」
娘は涙をこぼしてそう言った。
メイドの娘は暇を出されて屋敷を去ったが、エルフの心に大きな傷は残った。
「ロバート、なぜ教えてくれなかったの? 来るはずのない家族を待ち侘びるわたしの事を哀れと思ったの?」
この怒りは間違っている、そうと解かっていてもほとばしる荒い感情を抑えることが出来なかった。
メイドの娘のことも、隠しごとも、暗い地下に隠れ住む自身のことも。
「弔いの祈りもしてあげられなかった。こんなに時が経ってから知って……わたしはその方が悲しいわ。」
責める口調になってしまうことも、改めることは出来なかった。彼が悪いわけじゃない、何度も心に繰り返す。
「すまない、言い出すきっかけが掴めなかった。もし、この事を知れば君は生きる希望さえ失くしてしまうのではないかと……僭越なことだ、君の言う通り、間違いだった、」
反論もなく、素直に頭を下げる商人の伏した目に、甘えてしまいたくなった。
「わたしの家族はどこで、どんな風に死んだの? 教えて、ロバート。知っているんでしょう?」
言い訳のような懺悔の言葉を遮って、少女は男の胸にすがった。
耐え切れなくなった。気遣うように回された腕が崩れる身体を支えてくれる。大声をあげて泣いた。
なぜこんなにも、世界は理不尽なのか。
麻衣菜は夢を見るように、過去の世界を眺めつづける。
嘆きの女神、その瞳に映る世界は常に涙で滲んでいるようだった。
タイラルの懸念した通り、エルフの少女はみるみるうちに弱っていった。それでなくても細い食が、さらに細く、何も食べない日さえある。
「君が心配だ。このままでは長い旅路に耐えられないだろう、新天地は遠いよ。」
「ごめんなさい、けど……少しだけ放っておいて……、」
こんな身体で、家族さえないのに、何を頼りに生きればいいのだろう。今では不安ばかりが募り、輝いていたはずの新天地への夢も褪せてしまった。エルフの少女には深い諦めと絶望が、人間の商人には憐憫と愛情が、募る。
外へ出ることを勧める商人の気遣いが、少女にとってはだんだんと重いものとなる。
日に日に痩せていくエルフの細い肢体が、醜く腫れ上がった患部よりも、商人には耐え難い姿と映る。
「こんな姿を人になんて見せたくないの、……なんて憐れで、醜いの、」
あまりにも残酷な姿が多くの人々の瞳に映し出されてしまうだろう。それは誇り高いエルフにとって、耐え難い苦痛でしかない。絶望の言葉を呟く少女に、姿かたちなど、何ほどのことかと商人は叱責した。
そしてある日に。
「なんなの、これ? ねぇ、なんなの? わたし……、助けて、ロバート、」
血みどろの服に、零れ落ちた涙が滲んだマーベル模様を付ける。地下室は惨状で、床一面に血が広がっていた。
タイラルはかすかに首を左右に振って、それから弾かれたように駆け寄った。
「バカなことを! なんでこんなこと、」
「なんなの、わたし、変よ、なぜ死なないの!?」
掻き切った首の肉はうすく膜が張り、すでに治癒が完了しつつあった。皮膚が再生し、声も普通に出ていた。
思い余って切り裂いた腹の傷さえ、目に見える速さで塞がっていく。はみ出した腸はそれ自体が生き物のように、不気味にうねりながら元の場所へと戻るべく、身を捩じりながら腹に収まっていく。
これは、象皮病ではない。タイラルは確信した。自身が調べた限りで、このような状態など報告されていない。
「まさか……変異、したのか?」
「なに? なんのことなの? ロバート、」
「なんでもない。」ことさら平静を装った。「いいかい、この病気は性悪だ。こんな事をしても無駄なんだ。大丈夫、きっと治療法は見つかる。君だけは、生きなくちゃいけない。」
まるで、この状態がこの病にとっては想定の範囲内であるかのように、そう言った。
希望を捨てるなと強く訴える商人に、エルフの少女は何度も頷いた。言い知れぬ恐怖がじわりと這い寄っていた。
少女は心を病んだのだと、商人はそう思っていた。
時折暴れるようになったエルフの少女。まさかに、その原因までがウイルスの為だとは思いもしなかった。
「よせ、正気に戻ってくれ!」
発作のように唐突に始まる暴力。
意味のない言葉を捲し立て、獣のように唸り声を上げる。細い少女のものとは思えない強い力で、自らの身体が傷付くことも厭わず壁を殴り続ける。タイラルは全力で少女を抑えこまねばならなかった。
無意識に壁へと向いた両手が、本当は誰を殴りたがっているかも後に知った。
「……落ち着いたかい?」
「あ……、わたし、いったい……?」
痛む両手をさすりながら、正気に戻った少女は決まって怯えた顔をしてタイラルを見つめた。
◆◆◆
あの少女が罹った病は、通常のものではない。
象皮病は伝染病の側面を持つ。もし……、タイラルは激しく首を振った。
王国政府に通報すべきだと、頭の中では解かっている。同情している場合ではない、危険すぎる。解かっている。
同情などではない、同情などとそんな安い理由ではない。人間社会に大打撃を与えかねない秘密、裏切りの理由。
憤りの末、樫材のテーブルに両手を叩きつけた。
政府に知られれば、少女は隔離されるだろう。自身も徹底的に調べ上げられ、この屋敷も封鎖されるだろう。そんなことは些末なことだが、二度と会うことは許されないだろう。なにより、少女の身はどうなるのか。
彼女が患う病は、不死の誘惑を持っている。切り刻まれ、実験材料にされ、治療とはほど遠い研究の対象とされるのは間違いない。
「そんなことは……させない、」
恐ろしい伝染病。まだ何も解かっていない新種の病が、どのような災禍をもたらすかも知れない。最良の選択肢は自明だ。けれど、その解答を選ぶ気持ちがなかった。自身も重篤な恋の病に冒されたらしい。後の世に償いきれない禍根を残すと解かり切った選択だ。
だが。
そしりはあえて受けよう、タイラルは決意した。
たった一人のエルフのために。愛した女の為に己の築き上げたすべてを捨てる。
「後の世で、俺は世紀の大悪党だろうな、」
それもいいだろう。
世界がこれで滅びたところで、俺の知ったことじゃない。
長く仕えてくれた使用人たちには、手厚いケアを行った。新しい職場の斡旋と、破格の謝礼金をそれぞれに渡し、念を入れて口封じも行った。伝染病という側面を仄めかし、類が及ぶ危険を知らせて脅しをかけた。
「彼女のことは、誰にも話さないほうがいい。後々、あのタイラル家で働いていたということが知れるだけで不条理な扱いを受けることもありうる。だから、通いで農園にいただけで何も知らないと、聞かれた時には話すんだ。いいね。」
それは単なる脅しの意味だけでなく、深い忠告の意図がある。懸念すべき事柄だった。
覚悟を決めた主人に、今さら何を言うことが出来るのか。それぞれが多かれ少なかれ、主が抱え込んだ荷物こそが、不幸の始まりだったことを承知している。あのエルフさえ来なければと、思わぬ者など居なかった。
使用人たちは不安げに頷き、ただ、立派な主人の行く末を祈りながら去っていく。
「お達者で、旦那様。きっと、秘密は守り通しますんで、心配なさらないでください。」
出来ることなら、旦那様も早くお逃げくださいまし。心の中で、使用人たちは願った。
タイラルはこの日より、日誌を綴り始める。
地下に篭もったエルフの少女とただ二人きりの生活が始まった。
人が居なくなったことで、少女は徐々に地下室の外へと出るようになる。人に見咎められることを畏れ、すぐに引っ込んでしまおうとする腕を、タイラルは掴んで日差しの中へと引っ張った。
「もう地下室へ戻る必要はない。せめて君が自力で自由に歩ける間は、景色を楽しんでいいはずだ。」
いずれは動けなくなる、二人ともにその覚悟は出来ていて、今を穏やかに過ごそうと決めていた。
ある日の事だ。少女の姿がどこにも見えなかった。
ようやく見つけたのは、出てきたはずの暗い地下室の隅だった。
「やめて! 触らないで、近寄らないで! こっちへ来ないで!」
壁と向き合い、小さくなってうずくまり、タイラルに向けた背中越しに少女はヒステリックに喚く。
構わず近付いた商人がその細い肩を掴んで振り向かせようとする、その手すらもはねのける。
金色の髪の合間から、醜い出来物が垣間見えた。白く滑らかな額が、醜く腫れていた。
「見ないで……お願い……」
少女の声は小さく震え、同じように細い肩も小刻みに揺れた。
「出ていって。お願いよ、ロバート。……今だけだから、……きっと立ち直れるから、だから、」
タイラルは膝を折り、少女の背中を優しく抱いた。
向けられた背はそのままに、後ろから抱き締めるだけで、少女の望みに沿うように努めた。
出来物の見えない反対側の尖った耳に金髪をすくって掛け、その白い耳を甘く噛む。
そして、黙って立ち上がりその部屋を出た。
背後に響く嗚咽の声を、忘れることなどないだろう。
日に日に、病魔は彼女を蝕んだ。目に見える形で現れるそれはこの屋の主をも苦しめた。
エルフの少女はその美しい顔の半分を、長い金髪で覆い隠すようになったが、それでも隠しきれない醜い出来物が徐々に徐々にと増えていた。
俯いて過ごすようになり、隠した方の肌を背ける癖が付いた。
この少女が、哀れで、悲しくて、愛おしい。
少女が生まれて十数年の年月は、大人の身勝手な都合に振り回される日々だったろう。時代が悪い、出会いが悪い、運も悪い、不幸続きの少女には恋をする余裕さえない。
恋は薔薇色の出逢いから始まるばかりでなくてもいい。こんな絶望に満ちた灰色の世界でも、一点の彩りを添えてもいいはずだ。せめて彼女のモノトーンだった人生に淡い色が一刻、乗せられるなら。
叶えられるならば、女神よ。
苦しみと愛の女神アモールよ、彼女の心に一滴の勇気を。
同情なのかも知れないその想いを疑いながら、あえてタイラルは二つの感情を分けることを止めた。
月の光が差す二階の窓際へとベッドを寄せて、独り少女は泣くようになっていた。
我が身を嘆き、死者を悼み、その想いはいつしか呪詛へと変わるものだ。
扉が開いた。
「あ、」慌てて少女は涙を拭い、「ど、どうかした? ロバート。」無理に笑顔を浮かべた。
一瞬にして浮く微笑みは、近ごろでは瞬く間に消えてしまう。
しょんぼりとしたエルフの少女に歩み寄り、タイラルは黙ってベッドのヘリへと腰掛けた。
「まるで力になれない俺を赦してくれ、」
そう言って、少女を引き寄せ、抱き締めた。
額にキスをして、頬にキスをして、首筋へと彼の唇が降りてきた時に、慌てて少女は拒絶する。
「駄目よ、やっぱり駄目!」
両腕で押し戻そうとする、その手首を捕まえて、ロバートは悲しげに少女を見た。
「君は、恋もしないままで終わるつもりなのか?」
打つ手は尽きた。ありとあらゆる手段を講じ、試せるものは全て試した。彼女の両足は醜く腫れ上がり、もはや一人では立つことも出来ない。拒絶した腕も、ぶよぶよとした水ぶくれのような出来物に覆われ、指が癒着してしまった。
その手を取り、ロバートは手の甲に口づけを贈る。
「ロバート……、わたし……醜い?」
「いいや、」
まっすぐに見つめる瞳に、同情や憐憫の色はない。
その穏やかな笑みには覚悟だけがあった。