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第二十一話 タナトス降臨

「よ、よせ! やめろ、わたしを殺せば、この世界は滅ぶのだぞ!?」

 見えない恐怖に縛られ、アルケニーは必死の形相で叫ぶ。顔を掴んで離さぬ少年の腕を、自身の両手で掴んでなんとか引き剥がそうともがいた。

「嘘ではない、わたしは本物の月の女王、この精霊界の王だ!!」

「その片割れだな。知っている。」

 何を今さらと、小僧の姿をした何者かは小さく首を傾げた。この魔物の正体も、なぜこのような姿に成り果てているかさえ、七志に憑いた何者かは知っているようだった。この魔物自身が知り得ぬことさえ。

 ならば自分を殺せばどうなるかも知っている、アルケニーは瞬時の安堵を覚えた。

「知っているのだな? 知っているのなら、それなら、」

「だから、なんだ?」

 精霊界が滅ぶ、その事実すら、この存在にとっては何の足枷にも成りはしないと知らされた。

 取るに足りぬ、と返された。


「我が力、我が振るい落とす槌の鋼は先細り、薄く鋭い刃と化す、散り散りの力を紙縒こよりて結び、我が許へ還さん。」

 古代の言葉は精霊の女王にも意味が分かった。今では使われることのなくなった、古い古い時代の言葉であり、暗黒神へと捧げられた祝詞の碑文にのみ、残された言葉。生で聞くのは初めてだった。

「穿て。」

 咄嗟に彼女は右腕を見た。己の顔面を掴む腕に、武器の類は見えない。少し先に居る小僧の片腕にも武器はない。だからと言って安堵などは程遠い。アルケニーは混乱のままぎょろぎょろとしきりに眼だけを動かしていた。

 何処から来る、何処から。目玉が上を見上げた。

 青い切っ先が降り落ちてくる。成層圏を突き抜け、猛スピードで落ちてくる。見る間に近付くその刀剣は、あまりにも巨大な、悪夢としか言えない大きさをしていた。

 この、白亜の塔と同じくらいの大きさの剣。

「ひいぃぃぃ!!」

 絶叫が迸った。


「離せ、離せ、離せ、離せ!」

 もがけども、己を掴む細い腕はびくともしない。

「離して! 助けて、許して、誰か!」

 哀願する女の声は二重になった。けれど、断罪者は薄く笑みを貼り付けたまま微動だにしない。向けられる視線には、感情と呼ぶべき色は載せられていない。虚無が人の形を取っただけの存在。

 ばちん、と。

 突然、顔面を掴んでいた手が弾けるように彼女から離れた。さらに、その腕はまるでそれだけが別の意思を持つかのごとく、彼女の身を突き飛ばす。

 逃げろ、と幻聴のような声が聞こえた。


 身を翻す魔物の女、降り落ちる破滅の剣。


 白い塔は突き立つ剣によって真っ二つに裂かれた。崩落する側面の壁が、立ち上る灰色の土煙が、遠く中空へ避難した七志の仲間たちの目にもはっきりと映し出される。

「七志!」

「隊長が!」

 口々に叫ぶ声が重なり、動揺が人々を包む。

「おい、七志はどうした!?」

 ジャックが自らの足許へ向けて問うと、即座に答えが返った。

『生きては、いる。意識が消えている、いや、戻った。気絶でもしていたのかも知れぬ。』

「……そうか、」

 ほぅ、と安堵の息を吐く。何がどうなったものかも解からない状況だ。巨大な塔が現れたかと思えば、辿り着いた時にはもう崩落しようとしているなどと。天から降ってきたバケモノじみたあの剣も、まるで別世界の出来事としか捉えようがない。

 この世界に降り立った来訪者たちの多くも、このような不可思議な感情に翻弄されてきたのだろうか、と、今さらで得心した。現実とは思えない光景を前に、騎士たちはただ呆然と声を失っているだけだった。


 激痛と、酸欠と、頭部の鬱血とで、意識が朦朧として、その感覚はまるで睡魔に襲われた時のようにも思えて自然と恐怖心を失ってしまった。眠いのだと、逃避なのかどうなのかは解からないが、錯覚をごく自然に受け入れてしまえた。瞼が独りでに落ちて意識が静かなものに変わってゆく。眠りにつく前の状態と同じで、余計なことは何もかもが消えてしまう。柔術などでいう『落ちる』という感覚は、こういうものだろうか、などと呑気に構えている自分自身が滑稽だ。

 そして。

 気を失ったままで、死んでしまうのだろうと思った。

 暗い深淵へと落ちてゆく。

 これが、死の淵というものか、と、まるで他人事のように冷静だ。


 ―― いかせない ――


 誰かに呼ばれたような気がして、七志は立ち止まる。落ちていたという感覚は、いつの間にか歩いていたというものに変換されていたが、夢のような感覚で何もおかしいとは感じていない。

「七志! 戻ってきて!」

 キッカの声に、何が起きたのかと振り返った。

 急激に引き戻される感覚。

 自身が動いているのか、周囲が遠ざかっていくのか、一瞬でリアルの世界へ戻された。

 勢いのままに目を見開く。青い空が視界に広がっている。

 虚構と現実がないまぜで、いったいここは何処なのかと、混乱していた。異世界であること自体が、すでに七志にとっては虚構に近い現実で、夢との狭間などすぐに判断が下せるはずもなかった。

「あ……れ? えと、俺は確か、」

 自然に腕が上がって、顔にかかった砂粒を払う仕草で、初めて自身の腕が繋がっている事実を認知する。斬り飛ばされたはずの両腕を、まっすぐに伸ばした。日の光にかざしてみる。

「くっついてる、」

 我ながら、素っ頓狂な声が出てきたと思った。


 慌てて身体を確かめる。あちこちに付けられたはずの傷も、裂かれた服も、なんともなっていない。

 本格的に夢だったのではないかと疑い始め、身体を起こした。塔の周囲には靄が掛かっているのか、美しいパノラマ風景は見ることが叶わない。そして、半身を起こして初めて、塔が半壊している事実に気付いた。真ん中あたりから大きな裂け目が出来て、クレバスの底は真っ暗な闇だ。かなり遠い位置に向こう側の床半分がある。

「なんだ……? これ、」

 引き裂かれた塔の残骸を呆然と眺め、記憶を辿ろうとした。

 夢と現実がまぜこぜだ。巨大な剣が降ってくるのが見えた、ような気がした。あの魔物の女が貫かれそうに見えたから、慌てて逃げろと叫んだが、何が夢で現実なのかがすでに曖昧だ。

「あ、そういえば……、」

 あのアルケニーはどうなったのか、姿が見えず、つと心配が湧き上がる。

「まさか、死んじまったんじゃないよな?」

 月の女王だと名乗った本体の女、それが嘘か本当かもはっきりとは解からないままだ。

 お人よしだ、と自身に呆れ半分、もし本当だったらという危惧が半分で、あの魔物の姿を探した。


     ◆◆◆


 起こした半身の、ちょうど後方を見るだけで事足りた。ぐるりと回した視線の先に、臓物と体液を垂れ流し事切れた魔物の死骸を見つける。無残に裂かれた腹は引き千切られたものだろうか、脚の何本かと共に破片となって飛び散っていた。

 酷い有様に顔をしかめる。同時になんとも言いようのない悔しさを感じた。

 身体を起こし、立ち上がってみる。自身の身体はなんともないようだ。血まみれになっていたはずの衣装までが新品のようになっていた。

 居た堪れない気分でアルケニーの死骸へと近付く。正直、向こうを向いている女の身体の方は見たくない心持ちだ。

 すぐ傍にまで近寄った時、また、変化が起きた。思わず身構えてしまうのは、ここで酷い目に遭わされすぎたせいか。死骸はぴくりとも動かず、けれど、ぼんやりと発光し始めた。

 粒状になった光が、まるで蛍のようにチラチラと死骸から発せられる。それはやがて数を増し、大量の光の粒子となって、天へ舞い上がった。反対に魔物の死骸はぼんやりとその姿を薄め、透明に近くなっていく。幻想的な光景に見とれていると、光の粒子は寄せ集まり、別の物へと再構築されていった。

 美しい妖精の王、月の女王が再び、七志の前へ降り立つ。その表情は、先ほどまで戦っていた彼女のものとは明らかに違い、穏やかで優美だ。


 微笑みを浮かべ、彼女は慈愛に満ちた声を発した。

「ありがとう、少年よ。」

 また、七志に緊張が走る。危険によるものではなく、別の緊張だ。直立姿勢で背筋を伸ばし、どうにかこうにか頷いた。神々しい、これぞ女神と言えるような存在を前に、リラックス出来るような図太さはない。くすりと笑われたような気もしたが、流すことにする。

 女王も頷きを返し、そして言葉を続けた。

「貴方には、わたくしの知る限りをお話ししましょう。苦しめたことを、詫びましょう。死ぬほどの痛みを与えてしまいました、卑怯に屈してわたくしの為にと身を投げ出した貴方に、わたくしは……あんな、酷い事を……。なんと詫びれば良いのか、言葉も見つかりません。」

 口元へ手をやり、小刻みに震える女王の肩に、逆に七志のほうが申し訳ない気分になる。

「いや、あの、気にしないでください。ほら! 俺、もうピンピンしてますから!」

 大袈裟なジェスチュアで両腕をぐるぐると回して大丈夫のアピールをし、声に出して笑ってみせる。多分に無理やりな演出で、笑い声は裏返っていたが。

「……本当に、貴方は良い人間なのですね。七志。貴方の言葉に、わたくしは本当に救われます。ありがとう、七志。あの時、貴方が手を差し伸べてくれたお蔭で、わたくしは今も存在していられるのです。貴方のお蔭で、この世界も救われました。……本当に、ありがとう。感謝に堪えません。」

 美しい女王はいっそう深い笑みを湛え、その目じりからは一筋の涙が零れ落ちた。

 あの時、というその瞬間を七志ははっきりとは覚えていない。けれど、女王には解かっていたのだ。最後の局面で聞こえた声、自身を突き飛ばして逃がしてくれた腕が、この目の前の少年であった事が。

「この精霊界を代表して、この世界を救ってくださった貴方に、感謝いたします。」

 精霊界が衰退したその元凶が、まさか精霊の王であるとは誰にも解かるはずもなかった。どちらが欠けても滅ぶ運命、その絶望的なサイクルを七志は断ち切った。実の所の、あの神の意志は不明瞭だけれど。

 降臨したタナトスと、七志の関連について、女王は推論を口に上せることを躊躇った。


「わたくしは女神の神託により、この塔を護っていたのです。けれど、いつの間にかその目的は歪み、この世界に満ちる魔力の全てを我が身へと望むようになりました。そうして、あのような醜い化け物へと変わり果ててしまったのです。」

 女王の言葉が区切られる頃には、そのバケモノ、アルケニーの死骸もすべてが光の粒子と化して消えてしまい、その粒子は纏まって、月の女王へと変換されている。じきにすべて元通りとなるのだろう。

「長い、長い間、わたくしの本体はここに留まり、仮の姿を我が夫の身を借りて、表わしていました。どれほど長い時をそうしていたのかは、すでに記憶にありません。いつしか、二人は一心同体と思われ、わたくしもそれを信じてしまっていたのです。」

 昼と夜とに分断され、逢えない苦しみに心を裂かれてきたせいで、醜く歪んだ欲望を纏うアルケニーという魔物になってしまったのだ、と女王は告げた。

「戻りましょう、貴方がたも人間界へ戻らねばなりません。危急の時が迫っています。」


「なにかあったんですか!?」

 ピンときたのは、軍のことだ。黒騎士に連れられる前に、エミリアがリーゼンヴァイツの軍はまだ引き揚げてはいない、と言っていた事を思い出した。

「はい。貴方の味方の軍は敵を撃退したと思って油断していますが、彼らはまだ撤退してはいないのです。再び攻めかかる機会を窺っています。」

「そんな、それって俺たちのせいで危険に見舞われているってことじゃ……!」

 狼狽える七志の腕を女王は手に取った。

「行きましょう。すぐに城へ取って返し、人間界へのゲートを開けば間に合うかも知れません。休む間もなく行動する事になりますが、我慢してくださいますか?」

「そんなのは幾らでも! すぐに向こうへ還してください、お願いします!」

 言葉が終わるか否かという速さで、もう七志は風に運ばれ中空を舞っていた。女王の姿は光の塊となり、七志を包んでいる。

 自力でここを抜けた時にはあれほど苦労した行程が、瞬きの間だった。

 黄金の都が見えた。


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