第二十話 女神の夢
月の女王は、太陽の王と表裏一体。それがなぜここに一人だけ捕らわれているのか。一瞬浮かんだ疑問をすぐに七志は打ち消した。どうであれ、実際に人質が捕らわれている。
「仕方、ない……、」
願えばすぐに叶えられる、視界が急に眩しい白に染まり目を細める。ハッチバック形式のアーマードスーツ上半身部分が開かれた。ヘッドギアに指を掛けた時、待ち構えたアルケニーの糸が首に巻き付き、宙吊りに七志を装甲から引きずり出した。
「くははは! 手こずらせてくれたな、小僧!」
視界の隅に見えた青い機体が掻き消える。代わりに、右腕の籠手が戻ってきた。どうやら、この籠手の変形バージョンだったらしいと考えた時に、またしても首を絞められる。
「ぐ……、」
声も出せない状況で、うっすらと目を開く。信じられない光景が映った。
人質の女が、笑っている。
「ほーっ、ほほほほ! バカな小僧よ! まんまと騙されて!」
二人分の声がほぼ重なって聞こえてくる。
彼女は縛られてさえおらず、頭部のアルケニーと共に高笑いを響かせていた。よくよく見れば、女の下半身は蜘蛛の胴と一体化したもののようだ。
「な、なんで……?」
「バカなお前にも解かるように教えてやろう。もともとわたくしが本体なのだ。もっとも安全な甲殻の中に隠れる、当然ではないかえ?」
言うだけ言って、実演とばかりに女王は再び八足の合間へ収まる。そして、甲殻が閉ざされた。
「頭が一つだけと思うたか? 小僧、事実はいつも常識と同じ姿をしているとは限らぬぞ。」
上機嫌な声で、アルケニーの美女が妖艶な微笑みを浮かべた。
「さて、まずはその厄介な鎧を封じてしまうとしようかね。」
にんまりと厭らしい笑みに変化し、アルケニーは七志の身体をねめ回す。やにわに、鎌脚の一本が高速で動いた。
「ぐあぁぁ!」
肩に激痛が走り、絞められた喉からでも悲鳴が漏れる。視界の隅に見えた自身の肩から先が、無くなっていた。代わりに赤い流水がぼたぼたと床へ流れている。
「あ、ぐ……、」
締められているため頭にうっ血がある、おまけに激痛が加わり、意識が朦朧としてきた。
お構いなしに、アルケニーは捕らえた獲物に舌なめずりで、もう片方の腕も切り落とした。
死の痙攣が始まった七志の耳に、それでも残虐な敵の声ははっきりと届く。
「さぁて、では、頭から食ろうてやろうかねぇ。」
至近距離の女の顔は、胴の中に納まる女の顔とそっくり同じなのだと、今になって気付いた。
意識が、そこで途切れた。
時を少し戻す。
「ぬ、これは一体?」
黒騎士の忠告に従うかたちで七志の許へと急いだカボチャだが、そこで異変に見舞われた。
空中から眺めた展望は遠く、詳細を掴むことが出来ない。かと言って、これ以上は近付くことも出来ず、右往左往で七つの塔の周囲をぐるぐると飛び回るだけだ。結界があり、これ以上の侵入を阻んでいる。突き抜けようとして見えない壁に弾き返された。
「ぬぬー? 中央の塔、その最上階を中心にした球形のバリア、といったところでございますか。ここからでは見えませんな、はてさて、何が起きているのやら?」
懸命に目を凝らして見るのだが、遠く、またてっぺん付近は風が渦を巻き、霞んでいるかのように朧な霧がかかり、視界が悪かった。中心部を故意に隠しているかにも見える。
「むむ、やはり見えませんな。」カボチャの顔が歪んで幾度か瞼をしばたたかせる。ふと、気がついた仕草で表情を緩めた。騎士たちを見つけた。「おお、あちらに見えるのは残りの連中めでございますか、追ってくるとはみあげた忠誠。さっそく紛れ込んでおくとしましょう。」
こちらもまた、渡りに船の絶妙なタイミングで騎士たちが到着したと口元を歪ませる。連中が七志に合流出来るなら、それに紛れ込めば良いのだ。
ほぼ独り芝居のカボチャの呟きが終わり、そそくさと風の精霊に抱かれた一同の許へと合流する。何食わぬ顔で一同の傍へ身を潜めたタイミングで、これまたひょっこりとジャックが姿を現した。
突然訪れるカタストロフィー。塔が、半壊したということが、このカボチャの魔物にだけは察知出来た。精霊が叫び、間一髪で騎士たちとジャックを一まとめに脱出させたが、非常に危なかったのだ。
「……、」
容易ならざる状況だ。感じる魔力は、そら恐ろしい、桁外れの強さを示している。なにより、この禍々しさは今までにない危険な存在だとしか思えない。だが、現状で、結界の中の様子が解かる者は、おそらく七志と同じ来訪者である麻衣菜一人だろうと考えられた。
どうしようもない、ただ、無力なこの人間たちと共に成り行きに身を任せるしかない。
塔の中の人々と、塔の周囲の者たちと、そして別の次元からこの塔をじりじりとした気持ちで見つめ続けている者たちと。
「七志、……七志……!」
両目にはいつのまにやら一杯の涙が溜まっていた。虎目水晶の映し出す映像は、残酷なシーンを連続して見せつけた。瞬きも忘れた麻衣菜の頬を、大粒の涙が伝って落ちた。
「まずいでしょ、これ、」
直視出来ない場面に思わず顔を背け、後に付け足すように蘭花が呟く。麻衣菜を中心に、彼女の作り出した彼女の友達たちがぐるりと取り囲んで、緊迫のシーンを見守っていた。
「七志が、死んじゃうよ、……殺されちゃうよ、蘭花!」
水晶から目を離し、傍に控える少女に必死の表情を向ける。彼女なら、きっと助けてくれるのだとそう信じている。
「七志……、」
少女はぽつりと呟いて、自身の爪を噛んだ。幾度も恐ろしい魔物に対峙して、今度もまた何とか勝てるだろうと楽観視していた。なんとはなしに、かの少年は特別だという周囲の声を鵜呑みにしてしまっていた。
水晶の中の画面、恐ろしい魔物は今度こそ本性を現し、大きく口を開いている。サメのような尖った牙が、その口の中、全面にびっしりと生えているのが見えた。
「七志! いやっ! やめて! だめー!!」
「麻衣菜! 落ち着きなさいよ、ちょっと!!」
錯乱しかけた麻衣菜を押さえて、蘭花が首筋あたりに手刀を入れる。がくりと崩れる少女を慌てて受け止めた。
「ちょっと、誰か! この子、ベッドに運んで!」
鋭い命令の声に、慌てた様子で別の魔物が分け入ってくる。スケルトンの姿をして、簡単な造りの鎧兜を身に付けていた。この城の衛兵の役目を負った魔物だ。
お姫様のように横抱きにされ、涙のあとも拭わないままで麻衣菜が部屋から運び出される。
「待って! なんか、様子がおかしいよ、なにこれ?」
蘭花の命令を、自身のことと思ったスケルトンが立ち止まる。視線を向けた先で、誰ひとりこちらに注意を向けてはいない事を確認してから、ふたたび彼は歩き出した。
◆◆◆
「七志……、」
骨の腕に抱かれた状態で、麻衣菜は夢を見ていた。骨だけの腕に肉が付けられて、もとの姿を取り戻してゆくと、そこに現れたのは照れた笑みを浮かべたあの少年だった。
「大丈夫なの、七志? 腕、ちゃんと付いてる、良かった……、夢、だったんだよね?」
心の底から安堵した。自身を支える両腕は、これは七志の腕だから、彼がその両腕を斬り飛ばされたあの映像は、なにかの間違いだったんだ、と。
けれど、よく見てふたたびショックを受けた。
「七志、七志の腕……、」
自身を抱えるのは確かに彼の腕だった。けれど、それは彼の肩とは繋がっていなかった。
「いや、嫌だよ、七志、七志!」
急激に遠くなる。自身を抱き上げる両腕は確かに彼のものなのに、その本人はあんなに遠くに居る。
涙がぼろぼろと零れ落ちた。
遠くの七志は、寂しそうに笑い、そして麻衣菜に背を向ける。泣き叫びながら、麻衣菜は両手を伸ばした。届かない、どんどん遠ざかるその背中に向けて。
「行っちゃダメ! 七志、行っちゃ嫌、戻ってきて! 戻って!」
ふいに、誰かの声が自身の声に重なった。
―― 行かせない ――
パノラマが広がる。大気に抱かれて、麻衣菜が見下ろす眼下には青い惑星。
一瞬、地球なのかと思った。
そうであるはずはなく、一気に大気圏に場所が移れば、見慣れたものとは程遠い世界地図が広がる。
誰かの思考が麻衣菜の中に流れ込んできて、溢れた。
悲しい、悔しい、苦しい、憎い、けれど愛しい。
―― 愛しているわ、愛しているわ、貴方 ――
例え貴方がどんなに変わり果てても。
わたしは失われたりしないから。
眠りましょう、わたしと共に。
未来永劫の闇も、貴方とならば……
飛翔する七志の背に、麻衣菜はようやく追いついた。大きく、両の翼をはためかせ、風の速さで追いかけて、振り返りもしないその背にはいつしか黒い巨大な翼が生えて、さらに麻衣菜との距離を開こうと速度を上げる。
待って、行かないで、止めて、お願い。
必死の呼びかけにも、戸惑いさえ見せない彼の背が、一直線に闇へと向かう。
―― 彼を、止めて ――
腕を掴んだ。愛しいと思うこの気持ちは、いったい誰のものなのだろう。両の腕に抱き締めて、もう二度とは離さずにいようと思う、この悲しみに満ちた想いは。
麻衣菜はいつのまにか二人になった。誰かの背に縋り抱き締める自身の姿を離れた場所から見つめていた。薄紅色の麻衣菜の翼は、次第に長い長い帯のように変わり、雁字搦めに自身と縋りつく相手とをきつく縛り上げていく。二度と二人が離れることのないように。
ゆっくりと包帯を巻くように、くるりくるりと薄紅のリボンが二人を包みこんでいく。
そうして、成層圏の青い宇宙から、光の矢となって、地表へ向けて堕ちていった。
燃える大地。崩れ落ちる山河の中に、巨大な迷宮が地の底より揺れながら現れ出た。
その中央へと麻衣菜は堕ちていく。しっかりと、大切な人を腕に抱き締めて。
わたしと共に眠りましょう、未来永劫、時の果てまで。
―― 貴方の心をわたしが慰めてあげるから ――
「さて、頭から食ろうてやろうかねぇ、」
死に瀕して、もはや抵抗する力さえ失った宙摺りの獲物に、アルケニーは舌なめずりで笑う。糸を引っかけた脚を揺らすと、それに応じて小さな人の身体もふらふらと揺れる。
滑稽な動きに満足して、彼女はいっそうに両目を細めた。
ぶちりと、糸が切れた。
「おや、しくじったか、」
お遊びが過ぎて、糸が切れたのだと思った。
落下した獲物は、すとんと片膝をついて着地した。そこで、彼女は異変に気付いた。
だが、それでは遅かった。
斬り落とした少年の右腕が、いきなり彼女の顔面を鷲掴んだ。
「小賢しい、」
小僧の声ではない、別の誰かの声が小僧と思った身体から発せられた。驚愕の面持ちで、彼女はその存在を見つめている。瀕死であったはずの小僧は何処にもなく、目の前に居るのは、別の何かだ。
「我が左の腕、右の腕、……戻れ。」
冷酷無慈悲な響きが届くと、顔面を掴む腕は、彼女を掴んだままでズルズルと後退する。もがけど外れることのない、むしろ逆に食い込んでゆく指先が容赦なく彼女を締め上げた。
「い、痛い! 痛いぃ!!」
巨体が引きずられる。抗うことを許さない力が、恐ろしい空気を纏う何者かへと彼女を連行する。
瀕死だったはずの少年は、先に戻ってきた左腕を肩からぐるりと回して具合を確かめていた。そして、彼女の方を振り返り、にっこりと笑った。
「安心しろ、苦しまぬように消してやる。」
優しさの欠片もない笑みだった。