第十八話 vsワールドボス
七志は、塔のてっぺんにぽつねんと取り残されていた。
取り残されていたというよりは、動くに動けない状況に置かれていた。
目の前には、醜い怪物が蠢いている。
「小僧、小僧、小僧、小僧、小僧!」
憎々しげに、七志に向かって喚き立てている。
蜘蛛と、人体に出来るイボとを足したような容姿。背中というべき器官は膨れ上がった奇形の肉塊に似て、毒々しい泡の塊が溢れだし、ぬめった光を反射していた。
巨大な毒袋を背負っているのは蜘蛛に似た八足のまだらの昆虫の身体で、それが胴体のようだ。だが、その先にもまた胴体がくっついていて、それは人間の姿に似ていた。女性形のモンスター、名前を七志は知っている。ゲームでお馴染みの『アルケニー』だ。もっとも、お馴染みのモンスターでも、ここまで禍々しく醜い容姿のモノにはお目に掛かった事はないが。
――危険などないと言ったじゃないか――
ここに突き落としていった黒騎士に呪いの言葉の一つも浴びせたい気分になった。
激しい地響きがようやくと止まり、取りついていた岩の上で身を起こした七志が見た景色は、完全なパノラマで四方を遮るものもなく、精霊界の全土を見渡せそうな眺めだ。
七志の乗った岩は、塔の頂上に置かれた祭壇の天板のようだった。広い円形の広場の中央に、組まれた石の祭壇が乗っていたらしい。飛び降りるまでは良かった。そこへ、塔の壁をよじ登って怪物が姿を現したのだ。
「小僧!」
怒鳴り声に振り向いた七志が最初に見たのは、細長い節足動物の脚が一本だ。
距離的に、とても大きな生物の脚だと直感した。息を呑む間に、脚は広場の岩盤へ食らいつくように抉って取りつき、固定される。さらにもう一本。そして、二本の脚が支えながらで本体を引きずり上げる。
悪夢のような大きさの魔物が登場した。
醜く表情を歪めていなければ、それなりに美しい容姿の女性と思えるのに。禍々しい本体にくっついた女性の半身は、怒りに目を見開き、牙を剥き、皺という皺を寄せていて、酷い顔をしていた。抜群のプロポーションも台無しだ、目のやり場どころの騒ぎでなく殺気に押し潰されそうで照れる余裕もありはしなかったが。
「小僧!」
また、顔を歪めたアルケニーが怒鳴った。
「よくも!」
言葉が聴こえたと思う間に、次は言葉ではなく糸を吐き飛ばす。
「かっ!」
「うわ!」
咄嗟に飛び退いて躱した。
「邪魔をしたな、貴様! この塔を出して、わたしの邪魔をした! 許さんぞ、小僧!」
「邪魔……て、俺、なんかしました?」
引き攣りながらで問い返すと、女は口元をさらに歪めた。
「わたしが折角、長い長い時間をかけて集めた魔力を四散させた!」
「え……?」
周囲を見回して、さらに驚いた。毒の沼地が、湖面の輝きを取り戻していた。
満月が水面に揺れながら白く輝く。
美しい、白いさざ波がこの高さからでも煌めいて輝く。湖は大小の湖水が複雑に入り組んだ地形に緑の下草で縁どられ、織物のような独特の趣きがあった。七つの塔を湖面に写し、幻想的な――まさしく、ファンタジーの世界に相応しい景色が広がっていた。
木々の緑はまだ復活してはおらず、棘の林は枯れた灌木のままに、この塔の周囲に白い帯を描いていたが。緑の色彩も、おそらくはシダや草の類だろう、平面的な緑の絨毯に枯れた木々が奇妙なコントラストを醸し出している。激変した風景に、七志は戸惑っていた。
まさか、これっていわゆるゲームでいうところのワールドボスと言う魔物ではないのか?
無論、この世界はゲームではない、しかし魔物や魔法などとは無縁の世界に生きた七志にとっては、比較対象出来るような資料はゲームや漫画など、エンターテイメントにしかなかった。
この魔物が、精霊界の大地を涸らしていた元凶……そこまで考えた刹那、蜘蛛女の攻撃が再び襲ってきた。吐き飛ばされた粘液の塊が七志を狙う。
「くっ、」
心境としては焦りがある。だが、身体は意に反して軽やかに翻り、魔物の攻撃を容易く躱す。明らかなオーバースペックだ、自身の動きではない。まるで以前とは違う感覚に、七志自身が戸惑っていた。
精霊の都では騒ぎが起きていた。
攫われた上司を救い出しに行くと言って聞かぬ彼の部下を、精霊たちが阻んでいた。
「そこをどいてくれ!」
「行けば今度こそ死にますよ!?」
押し止める精霊たちが口々に無謀だと告げる。七志が連れ去られた地が、あの魔風穴のある場所だと彼ら精霊たちは知っていた。
「我々は騎士だ、命などもとより捨てて任についている!」
ハリーが怒鳴り付けた。隊長を捨てて、じっとしているなど、騎士の面目に関わる恥知らずな行動だ。それを良しとする臆病者など、この場の騎士には居なかった。
「行っても無駄だというのが、解からないのですか!?」
精霊たちには理解出来なかったようだ。行ったところで何が出来るわけもない、魔の風に煽られ命を落とすだけ、無駄死にだ。他の方法を探ることこそ懸命な行為だと、彼らを諭した。
騎士と精霊が押し問答を繰り返す傍で、エミリアは事の様子をじっと見守っていた。そこへ、知らせが走る。
「エミリア様、大変です! 精霊王様のご様子が……! 女王様が、様子がおかしいのです!」
驚いたエミリアが問い返し、慌てた様子で王宮へ向かい去ってゆく。その様を横目でちらりと見遣った上で、ハリー以下の騎士たちは大門を開けさせようと精霊たちを振りほどいた。
ジャックは交互に双方を見る。こういう時に、頼れそうなあの使い魔が居ない。妖精が飛び込んできた。
「ジャック! どうしよう、どうしたらいい!? 七志は心配だけど、女王様が……!」
「お前は城へ向かえ! 俺は七志を助けに行く!」
渡りに船だ、とばかりに指示を飛ばした。
精霊界の王、昼を司る太陽の王と夜の支配者、月の女王。その女王は、いつの日からか、深い眠りについたままだった。結界を張り巡らせ、オークは閉じ込められた理由さえ聞かされないままだ。夜の帳に似た沈黙の眠り。
「女王様のご様子は?」
エミリアが早足で駆け付けた時には、王宮内も騒然としていた。
「突然、苦しまれ始めて……。原因は解かりません、ひどくうなされておいでです。」
駆け寄るように、侍女を押しのけ、エミリアは豪奢な天蓋の幕を腕に絡め、中へと入った。
月の女王の眠る寝台へ。
「女王様、」
「う……、」
美しい女性が、ひどく苦しんでうなされていた。瞼はしっかりと閉ざされ、それでも目覚める気配はなく、けれど額には玉の汗が浮き上がり、流れ落ちそうなその滴をエミリアは自身の袖口で拭う。
「女王様、しっかりなさってください、」
大丈夫です、と、彼女がそっと、白く華奢な女王の手を取った、その時。
女王の口から絶叫と共に、言葉が迸った。
「おのれ、おのれ、……小僧!!」
◆◆◆
城門の扉は固く閉ざされ、騎士たちを阻む。
「出してくれ! 我々は行かねばならない!」
「死んでしまいますよ!?」
姿の見えぬ朧な影が纏わりついて、彼らの邪魔をしていた。
「それでも、だ! 騎士とは、そういうものだ、行かせてくれ!」
聞く耳を持たない影たちに、苛立ちながらでハリーが怒鳴り付けた。
「待って……! 魔風穴が、塞がりました!」
影の一つがいきなり叫んだ。揉みあっていた他の影と騎士も、その声に耳を澄ますかのように動きを止める。精霊は、彼らだけの言葉で会話をするように。人は、何を言ったのかを探るように。
「大きな変異があったようです、あの少年はその中心の地に居るようです。そこへお送りしましょう。わたしは風の精です、掴まって。」
一転した態度に、今度は騎士たちの方が不審の態度を彼らに向けた。
「なにが? いきなり態度が変わった理由は?」
「魔風穴が塞がったのです、理由は解かりません。魔力を奪う恐ろしい風がぴたりと止み、そして現在、あの場所には巨大な塔が出現しているようです。」
影の気配が広がり、5人の騎士を包み込む。そうと思う間に、5人は風に乗り、天高く舞い上がっていた。眼下に黄金の都市が見える。
「う、わ!」
「ひ!」
思わず声に恐怖が滲むが、さすがに恐慌に陥るまでには至らない。出かかった悲鳴を飲み込んで、彼らは景色の先に見えた七つの塔へ視線を向けた。
以前通った時には、あんなものは無かったと記憶している。
巨大な中央の塔と、周囲を取り巻くやや小規模な六つの塔が見える。なにより、毒の沼地であったはずのそこは、美しい湖水へと変化している。月の光に輝く水面は絵画のようだ。
「いったい、何が……、」
「解かりません、けれど恐ろしい気配はまだ途切れてはいません。特に、中央の白い塔の上層部からは、なんとも説明のつかない禍々しい気配が漂い流れています。」
姿の見えない精霊の声が、騎士の疑問に答えてくれた。
「あの場所へ、ああ、駄目です。強力な結界が張られています、近寄れない。」
「ならばどこかの窓へ投げてくれ。そこから昇れば済む話だ。」
反論しかけた精霊は言葉を言わぬうちに諦めた。騎士たちは全員が、それが当然と構えている。
「解かりました、中層階あたりであれば近付けると思います。あなたたちをそこで下ろしましょう。」
風が向きを変え、騎士たちを運ぶ。塔の側壁が近付いてきた。
ジャックは器用にイフリートを使い、そびえる首都の城壁を飛び越えていた。剣を立たせ、柄に足を掛けてジャンプしたかと見る間に再びイフリートを着地点へと突き立てる。そこへまた己の足を掛けた。
「よっ、と。無駄に高い城壁だな。」
『しかも自身で再生する。』
イフリートが賛同しつつ、情報を渡した。目をやれば、確かに傷付けたはずの壁に剣の刺さった跡はなかった。
「魔法かね?」
『違う、壁が生きている。』
「くすねて持って帰りてぇとこだな。」
大儲けが出来る、と、さして興味もなさそうに付け加えた。
『少し走ればあの小僧が射程に入る。』
ここでは距離がありすぎて、七志の影に合流できないとイフリートが告げた。
「走るのは苦手なんだけどな、仕方ねぇか。」
城壁から飛び降りた。これをまたイフリートが途中で足場となって地面の上へ下ろした。コンビネーションは抜群のようだった。
『主よ、障害が起きた。』
しばらくも行くとイフリートが告げる。七志の影に合流が出来ないと。
「結界か、なら先行した連中に合流しよう。ハリーの影に。」
『承知した。』
いつかの時とは違うバージョンで移動魔法が使われた。ジャックからすれば、道理に合わぬ不可思議はすべてが「魔法」だ。剣が大地に突き立ち、その影が自身の影へと伸びてくる。二つの影が合わさると、以前と同じに自身は自らの影に呑まれ、どことも知れぬ空間を移動する。
わけの解からないものはすべて「魔法」だ。魔導師あたりが聞けば、こんこんとその成り立ちから講義を語り始めるだろう。魔法を実際に収める者たち以外には、得てしてその程度の認識だった。
移動魔法の終幕は朧な光の渦へと飛び込むことで完成する。
足元の影が突然異様な形に変化しても、人はなかなか気付けないものであるらしい。
「よっ、と。」
「なんだ!?」
いきなり隣に飛び出た男を見咎めて初めて、ポイントに指定されたハリーは飛び退った。剣を抜き放っているのは、さすがは、本来なら隊長を拝命しただろう実力者というべきか。
「俺だ、斬るなよ、」
平然と嘯くジャックを見て、ハリーは剣を収めてのちに大きく息を吐き出した。緊迫の場面に乱入された割には素っ気ない態度だ。それだけ緊張が高まっており、構ってなどいられないという心境なのだろう。いつか見たような風景が展開している。石造りの小部屋には、何匹かの魔物が斬り倒されて転がっていた。やはり、見た目通りのダンジョンらしい。
「隊長は頂上におられるらしい。なんとかして合流しなければならん。」
「魔物が出るのか、厄介だな。」
その時、凄まじい揺れが来た。
天井がひび割れ、カケラが落ちてくる。
「地震か!? おい、どうなってる!?」
「危険です、一旦避難しましょう!」
ジャックが怒鳴る声と、風の精霊の声、そしてその場の全員を包み込む気配はほぼ同時の事だった。