第二話 大博打の型
岩の上で突っ立っていたゴブリンは七志と少女には気付いていない様子だった。単独でも余裕でいるこの状態から見ても、この付近はゴブリンの巣窟と言える場所なのだろう。渓谷は、少しだけ沢に広がりが出て、巨岩はなだらかに、人が立って移動出来る程度には転がる石の大小も均等になってきた。
少女は七志に動かないようにと片手で合図をしてから、この化け物の背後へ素早く近付いた。
猫が獲物を仕留めるようにしなやかな動き。
背を向けていた一匹を背後から襲い、少女は毒吐いた。
「まさかこんなに居るなんて想定外よ、こんな仕事、受けるんじゃなかったわ!」
ゴブリンの首に短剣を突き入れ、横へ捩じって引き裂く。声ひとつ上げず、緑の体液をまき散らしながらゴブリンが倒れた。手にあった剣をもぎ取って、七志に投げよこす。
「使って。」
あたしはこっちの方が得意だから、と血を振り払った短剣を見せて笑った。
「それにしても、ヘンななりしてるわねぇ? どこから来たの? 海の向こう?」
「えっと、なんて言うか……って、もう追いついてきた!」
「アイツらの相手は無謀だから、今は逃げるわ!」
名前も知らぬ少女の焦燥ぶりに不安がもたげる。
まさか、の念が。
まさか、本隊とか、討伐隊とか、そういうのは……居ない?
胃の底へ冷たいモノが落ちる。いや、まだ解らない、勝手な想像だ、と無理やり振り払った。
「夜になれば、他の連中は巣へ戻るわ! アイツ等さえどうにかすれば……!」
後方には相変わらず数匹のゴブリンが追いすがっている。デカいのの姿が見えないが、淵で暴れているのは吠え声でわかる。
途中移動出来そうな箇所があったにも関わらず、二人は下流へ向かって逃げ続けていた。
ゴブリンは夜行性ではないらしい、それで彼女が不利な川べりから移動しない理由が解かった。この辺り一帯がゴブリン地帯ともいえるような場所で、他にも沢山のゴブリンが居るのだろう。
ヘタに行動範囲を広げれば、落ち着いてきている他のゴブリンたちをも興奮させてしまうという意味に取った。それは、先ほど振り払った、討伐隊など居ないのではないかという疑いを仮定しての話だが。
詳しい事情を聴くだけの余裕もないのだから、仮定は最悪の方向でいく方がいい。涙が出そうになった。
彼女は恐らく、魔物たちが寝静まった後で脱出する予定を立てたのだろう。追ってくる連中をどうにか出来さえすれば、後は夜を待ち、息を潜めていればいい、と。
作戦には最大の難点が残されていたが。
とびきりデカい咆哮。あの巨体が淵から上がれず、もがいているのだろう。彼女が居なければ、ヘタをすれば自身が同じ目にあって、最悪、水中での乱戦を強いられていた。
咄嗟の判断だったが、そう考えればゾッとする。無謀だった。
今もそうだ。
岩場で足をとられ、思うように移動も出来ない。すぐに追いつかれるだろう。
無策のまま逃げ続けることは正しいか? 考えて、七志は独り決断した。
くるり、と反転する。向かってくるゴブリン、その数5匹。
無謀というなら、あのホブゴブリンをむざむざコイツ等と合流させるほどの無為無策はない。
今なら二人だ。少女の方は戦闘に慣れてもいる。おまけに奴等は素手。突然立ち止まった七志に釣られるように、少女も急停止した。
「無茶よ!」
「なんとかなる! なんとかしないと、それこそ絶対に助からない!!」
七志の意図を読み取り、少女も身構えた。
チャンスなのだ、あの巨体が水中でもがいている今、この数分で残りを片付ければ。
ヤツ自身とは、二対一!
飛び掛かってくるゴブリンは、まず一斉に少女を狙った。野生ではそれがセオリーだ。
少女の喉元へ牙を向けた一匹を七志が横殴りに弾き飛ばした。
「きゃああぁ!」
絶叫にも近い悲鳴。
完全に舐めていた、リアルなゴブリンは素手であろうと無かろうと、その牙がすでに凶悪な武器だ。
腕に食らいついた者、肩に牙をめり込ませる者、集団での狩りは連中の方が上手だ。七志には目もくれず、まずはより弱い者を倒しにかかる。先頭の三匹が次々に少女へ殺到した。
七志は少女の手のナイフをもぎ取り、肩に居るゴブリンの眼窩に突き刺した。もう片方の手で自らの剣を思い切り振り上げ、腕を食いちぎろうとするいびつな後ろ頭を半分に。今度、悲鳴を上げたのはゴブリンたちだ。
一瞬遅れて、残りの二匹がやはり少女を狙う。七志の動きもスムーズだ。
片足は少女の脇腹を食い破ろうと狙ったゴブリンの口に。
阻止しただけだ、噛みついた牙が靴を通して足に届く。そのまま思い切り蹴り上げて引き剥がした。無理な態勢から片足を振り抜いたおかげで体勢が崩れた。間に合わない。
視線の先、最後の一匹は少女の太ももに食らいつき、その肉を食い千切ることに成功していた。
即座に七志が踏み潰して殺す。
どうしてここまで動けるのか、そんな疑問がふと浮かんだものの、考えている余裕はない。少女は大怪我を負ってしまい、早く医者に診せないと命に係わるだろう。
攻防はまさしく一瞬の出来事だった。その一瞬で、七志は3匹のゴブリンを屠った。……不自然に。
まるでゲームのような動きじゃないか。
違和感に自身で首を捻り、けれど少女の発した呻き声に引き戻される。
「うう……、」
少女に肩を貸し、慌てて逃げる。
見回すと、仕留め損なったと思った2匹は這いずるだけで無力となっているのが知れた。
目にナイフを生やしてのた打ち回る一匹と、蹴りで顎が外れ怯えた目でこちらを見る一匹。
「止血しないと、どこか、隠れる場所は……っ、」
咄嗟の思いつきで行動するわけにはいかない、今度こそ絶体絶命。
怒り狂ったホブゴブリンの野太い叫びが木霊のように響く。
小さな洞窟、いや、岩場の中で自然に出来上がった巨岩と巨岩の隙間。
そこへ滑り込んだ。奥行きがある事を神に祈っていた。だが。
「ちくしょう! またやった! またしても、やっちまった!」
神頼みは無為無策の最上級、そんな言葉を思い出す。自身の迂闊さを呪いたくなった。ここへ来て何度目の失敗なのだか、河へ飛び込んだことも枯葉を踏みつけたことも、まったく懲りてはいなかったのか。
考えが甘かった、都合良く深い洞窟が広がっているなどと考えて進退に窮する結末を呼んだ。
絶望的な状況だ、洞窟どころか奥行きはほとんどない。巨岩の隙間は文字通り隙間でしかなかった。
奴が腕を伸ばせば届くだろう、そして捕まえられて引きずり出される。
それほどの距離しかなかった。
少女の息も上がっている、止血をする暇がないのだ、ホブゴブリンはもう追いついている。
少女を奥へ押し込み、七志は密着する形で出来るだけ身体を天井に貼り付かせる。もう、思いつく手はこれしかなかった。
胸に剣を構え、その時を待つ。
太い腕がなんの躊躇もなく伸ばされ、洞窟に侵入する。
少女に届く前に剣を叩きつけた。
「ゴアァ!!」
悲鳴を上げて、腕が引っ込められた。傷が付いたようにも見えなかったが、痛みは与えたようだ。
この最後の武器だけは持っていかれるわけにはいかない、もう選択肢を間違えるわけにはいかない。
叩きつけるのみ。決して突き刺してはいけない。自身に言い聞かせて、七志は待つ。
再び、逆の腕が伸びた。もう一度剣を叩きつけて追い返す。
洞窟の向こうでホブゴブリンが転げまわり、暴れているのが見えた。
それでも怒り狂った化け物は、二人を諦める気にはなっていない。
今度は、顔を直接洞窟に向け、中を覗き込んで咆哮した。
野太い声。すでに周囲は暗く、夜の時刻に入っているだろうに、この付近一帯にも届きそうな、馬鹿でかい声だ。
獣が騒ぎ始めた。
夜に入ったことで、余計にこの咆哮が遠慮なく静かな空気を掻き回している。
「……まずいわ、他のゴブリンが気づく……」
胸をかすめた不安を、確定にされた。だが、打つ手は何もない。
腕を伸ばしてくる度に叩いて戻す。顔を出すか、腕を突っ込むか、ホブゴブリンはそれ以外のことは考え付かないようだった。
顔か、腕か。
その時、三度目の閃きが七志の脳裏によぎった。
「いちかばちかだ、」
「え?」
顔か、腕か。
洞窟に籠城してから初めて、七志は構えを変えた。
身を低く、右肩を前へ、剣の柄元は肩、肩甲骨の窪みへ固定し、力の分散を防ぐ。
左手で柄をしっかりと掴み、右手は刀身を直接掴んだ。
少女が見たこともない構え。
当たり前だ、剣術など知らない七志のオリジナル。即興で作り上げたものだ、必要にかられて。
『大博打の型』とでも呼ぶのが相応しい。
確率、2分の1。
洞窟の入り口に影が差す。
顔か、腕か。
「ゴアァァ!!」
咆哮を聞くのを待ってはいない、タイミングを読んで、化け物が動いた瞬間に仕掛けていた。
捨て身の突進。
出てきたのは、顔!
「もらったぁ!!」
灰緑色の肌、真っ赤な両目のど真ん中、眉間の位置に狙いを定めて。
渾身のタックルをかけた。
切っ先が瞬間、抵抗したかに思えたがすんなりと骨を貫き、その柔らかい脳髄にまで届き、そして後頭部の頭蓋を破った。一瞬反応したホブゴブリンがほんの少しだけ顔を上げた、それが七志に勝利をもたらした。口の中へ吸い込まれた切っ先。柔らかい顎上の軟骨を貫いた。
どすん、という手応え。
断末魔と共に、巨体は思い切り伸び上がり、七志を引きずり出した。
そして、そのまま後ろへ倒れ込んだ。地響きを上げて。
◆◆◆
「や、やった……、」
顔、だった。
これが腕ならば、大した怪我も負わせられず、最悪、敵の警戒を呼び起こして反撃不能に陥るところだった。いや、七志の方が飛び出してしまい、死んでいたかも知れない。
なにより時間がないのだ。
少女は息も絶え絶えとなり、喘いでいる。
「大丈夫か?」
心配する七志の方へと視線を送り返すだけで精一杯という状況は危機的なものに見えた。
ようやく、息を整える程度の余裕が戻った二人だ。七志は重傷を負った少女を気遣い、負傷した幾つかの傷跡を確認していた。肩と腕に噛み傷、そして太ももは酷い状態だ。
「どうも、ここまでっぽい……かな、」
無理に作った笑みが痛々しい。嫌な気配に七志は為す術もなく狼狽えているだけだ。
確かにこのままではあと何分も保たないかも知れないと思えた。失血死には、何分ほどの余裕があっただろうかと記憶を探るのだが、気持ちが作業を拒否している。真っ白になろうとする頭を無理に働かせて、七志は尋ねた。絶望感で自然に表情が強張ってしまう。
「町まではどのくらいある? 俺が負ぶっていくから、」
「無理、……夜明けまで、かかるわ、」
聞かされた即答は、僅かな期待を打ち砕く。
「いい? この川を下っていけば、町があるから……。町に行ったら、ギルドを訪ねて。
『リリィたちは失敗した』と、伝えてちょうだい……。お願い。」
青褪めた少女の顔、唇は色を無くし、死が彼女の傍に佇んでいる気配がした。
否定するように、自然に首が左右に振れた。じわりと訪れる死が恐怖を煽った。
「死の気配は魔物を呼ぶわ、早く行って。
あたしを連れてくなんて無茶、言わないで。」
よく解らないが、なにか無理難題を言ったのか。少女は目に涙を浮かべて、七志の肩を押しやろうとする。自分を置いて早く行け、と。
肩を押されても、叩かれても、七志は動けずに彼女の傍に座り続ける。彼女の希望には添えないと拒否のために首を振り続けた。
涙を溜めた瞳が、七志に訴えた。
「いい? あんたの正体をあたしは知ってる。あんたは来訪者で、ここはあんたが居た世界とは全然違う世界なの。あんたの世界の常識がどんなものかは知らないけど、ここでは、助からない仲間は捨てていくしかないのよ。」
少女の言った言葉を、にわかには理解出来なかった。なんとなく感じていた事実を突きつけられ、それでも七志は首を横に振る。
『日本』にはゴブリンなど居ない。『地球』にはゴブリンが群れる山など存在しない。
この世界は七志が居た世界とは違いすぎて、何がなんだか解らなすぎる。
ゴブリンが居て、襲われて、ホブゴブリンともなると絶望的だった。
なんとか逃れたと思ったのに。
諦めの良すぎる少女に、居座り続ける死の影に、苛立ちが募った。
違う世界には、違う常識?
「なに言ってんだ、せっかく助かったんじゃないか! 見捨てて行けるか!」
感情が先にたって、気付けば怒鳴り返していた。
その時だ。ふと、妙に鼻を刺激する感覚に気付いた。
なんだ、この臭い、と七志は振り返る。
暗闇に、大きな獣らしき影が蠢いている。黒い茂みの中から、それは現われた。谷の岩場を見上げると、そこには薄暗い影となった森の木々。
ガサガサと派手な音をまき散らし、何の警戒も躊躇もないまま、獣は川べりへと降りてくる。臭気はどうやら、その獣が発しているらしい。
「なんだ、あれ?」
「……うそ、あんなのが居るなんて……」
少女の声が震えている。彼女の名前だろうか、リリィというのは。
状況の呑めない七志は、少女の恐慌とはうらはらの態度で両者を見比べた。何をここまで怯えているのか、不思議に感じる。
それどころじゃない、と思考を切り替える。何が出てきたのかは知らない、だが、構っている余裕がないことは確かなのだ。彼女の怪我は一刻の猶予もない状態だ。
振り切って逃げる事が可能かどうかだけを、七志は考えていた。
目を凝らす。
月明かりの下に、獣は姿を現した。
一つ目の、毛むくじゃらの、四足の動物。
一見ではなんとも形容がし難い。体は水牛、首はラクダ、そんな感じ。そして、やけに鼻を刺激する妙な体臭を漂わせていた。獣臭い、というのはこういうものだろうか。
「カトブレパス、」
「え?」
思わず聞き返していたが、その名を七志は知っていた。
ほとんどファンタジーなどに興味はないが、昔やった事のあるゲームの、強敵の名がそれだった。
確か、石化の魔法を使ったはず。
考えを巡らせながら、それでも七志は置かれた状況を正確には理解していない。
「逃げて! あれはゴブリンなんかとは全然違うわ! 敵いっこない!」
必死の声にも、七志は鈍い反応しか返さない。僅かに首を傾げただけだ。まだこの世界の、現状の拙さが理解に及ばないせいだった。
もし、七志に能力があるとしたなら、それはこの閃きかも知れない。
ピンと来る感覚。
もともと七志が持っていたのか、あの時、神がせめての情けで与えてくれたのかは解らないが。
「石化は解けるものか?」
「え? なに、言って、」
「ヤツの石化能力はどんな感じだ? 石化した人間を元に戻せるか? 一部だけを石に出来たりは!?」
一気に捲し立てると、少女は目を見開き、瞼をぱちぱちとしばたたかせた。
何をしようと思っているのかは、即座に理解して、叫ぶ。
「無茶よ! そりゃ、戻す方法はあるけど、その前に全滅がオチでしょ!?」
「やってみなきゃ解らない! さっきだって無茶だって言った! けど、成功しただろ!!」
ゴブリンと比べるべくもない事は百も承知だ。
けれど、やりもしないで諦める気にはとうていなれなかった。
絶望はまだ、七志の自由な思考を縛り付けるところにまでは来ていない。
七志は自分の服の両袖を引きちぎり、細かく裂いて応急の包帯を作り出した。飛ばされた時に学校の制服だったのが幸いした。学生服の下に着ていたカッターシャツは素手でも裂きやすい生地だ。
場所が場所だけに完全に止血出来るわけもなかったが、少女の足の付け根あたりを固く縛る事でさっきよりは随分と顔色もマシになった。色々な雑学を脳みそに詰め込んでいた事に感謝する。応急処置の方法に何の関心も持っていなかったら、大腿骨の下を縛る意味さえ知らなかっただろう。
小説家になりたい、と、色んな事柄をネタとして蓄えていなければ、こんな芸当は出来なかった。
どくどくと流れていた血が止まる。
「君だって、ここで死にたいわけじゃないだろ、本当は生きて帰りたいんだろ。」
本当にリリィという名だろうか、少女が言葉を詰まらせる。
意を決したように、途切れ途切れでも強い口調で、彼女は七志にアドバイスを寄越した。
「……目から光線を出してくるわ、
掠っただけでその部分が石になってしまうなんてのは、ヤツを語る上では常套句よ。」
「遮るものさえあれば、その足の怪我だけを石化させる事が可能ってわけだ。
大丈夫、俺たちは上手くやれる!」
リリィは目を伏せた。とても楽観的になれるような状況ではない、という意味だ。
それでも七志は余裕を見せて笑う。
たとえ、その笑みを少女が見ていなくても、自分自身への暗示を含めて、そうしなければいけない理由があった。
やりもしないで逃げる、かつてはそれが当たり前だった自分を振り返り、苦笑して。
「逃げるなんて選択肢は、この世界にはなさそうだもんな。」
少なくとも、逃げても当面は問題がないという状況ばかりではなさそうだ。現に、今。
「こんな場面では誰もが躊躇なく逃げるわ、あんたが馬鹿なだけよ。」
リリィが半ば呆れた様子で訂正してきた。
「そうかな。」
「そうよ。」
心はいやに落ち着いている。諦めの境地という奴かも知れないな、と七志は思い、目前に迫る新たな脅威に向かって、新たな対処法を思案していた。
かつての自分、元居た世界で安穏と怠惰に日々を過ごし、不平不満だけは一人前に、運の無さだけを嘆いていた自身を思い出す。あの時の自分は、確かにあの世界を疎んじていた。
「こんなのは、本当の俺じゃないんだ、か……。」
急に呟かれた言葉の意味を理解せず、隣の少女は首をかしげる。
それきり黙った七志はそのままに、作業に戻った。砥石を掛ける音が低く洞窟内に響く。
例の獣は、すぐ外で、さきほど七志が倒したホブゴブリンを食い漁っていた。
大した努力も必要とせず、適当に力を抜いて過ごしていても、生きるには不自由のない世界。精一杯に頑張って何かを成し遂げた事があるかと問われたら、一点の曇りもなく「はい」とは返答出来ない。
死にもの狂いに努力して何かを為した経験などない。
さっきのように、一歩間違えば死ぬ選択肢など、選ぶ機会さえなかった。
そんな環境にはなかったし、そんな未来を望んだつもりもない、けれど、自分の目一杯の力をすべて注ぎ込んだ経験があるかと聞かれたら、答えに詰まる。
精一杯だったろうか。
これ以上は無理だと思うほど努力しただろうか。
平和ボケしていたんだ、とつくづく思う。
いつにない真剣な眼差しが刀身に映し出されている。
この真剣な目は、誰のものだろう。
手には磨き抜かれた一振りの剣。
リリィがポーチに入れていた砥石を使い、徹底的に磨き上げた。
鏡のように、今、剣を構えている七志の顔を映し出す。
「器用なもんね、砥ぎ師なの?」
「包丁以外を砥いだのは初めてだよ。」
刃の部分は砥いでいない。均等に砥ぐ自信がなかったから、触れないことにした。
用があるのは刃ではなく、刀身の方だ。
鏡のように月の明かりを反射させてみた。