第二十一話 両陣営
ライアスの許を辞して、フィオーネは本陣に控える兄、アレイスタの傍へと駆け戻った。部下を信用しないわけではない、だがいつ何時も兄王は命の危険を抱えている為、目が離せなかった。平時の王宮内ならば何よりも信頼のおける義姉が控えている。しかし、頼りの義姉エリーゼは留守居として城に残っているから、遠征中の今は、とにかく兄の身辺警護に気を配らねばならなかった。
満天の星空さえ霞むほどにまばゆい、丸く大きな月が頭上に浮かぶ。
そのために、あたりは仄かに薄暗い程度だ。今宵は一晩中、真の闇が訪れないだろう。夜襲にはうってつけの環境が整い、気象観測を司る魔導師が数人、確認の為に空を見上げて相談をしている姿を横目に、フィオーネは騎馬を衛兵に預けて陣屋の大きなホロをくぐった。
本陣、王の控えるホロは周囲のモノより一回り、二回り大きく、中央に威圧感を持って控えている。
何年も前から準備を進めてきた遠征だ、今宵、月は大きな満月となり、例年通りならばこの季節の雨は少なく、雲に隠され闇に撒かれる恐れもない。そういう日を選んだ。元々は昼間の行動を予定していが、この好条件の揃う時期、夜襲をかけぬ手はないというライアスの言を入れるにも丁度良かった。
そのライアスの気になる一言を兄にも報告すべく、妖姫は国王アレイスタの元へと歩み寄る。
「兄上、宜しいですか?」
「うむ、何用か、」
近衛の指令、参謀数人と共にいた兄王に、ライアスとのやり取りを聞かせて反応を待った。
「七志か。あれは面白い子供だ。我も多くの来訪者を見てきたが、僅かな時間でここまで幅広い人脈を広げてきた者は初めて見た。素朴な人柄ゆえ、目を掛けてやろうという気になりやすい故な。嫌味が無くてよい、そうは思わぬか。」
兄の返答に、妹も納得の頷きを返す。最初は尊敬するライアスの弟子という、ただそれだけの面しか見てはいなかった者だ。が、今では何かと気にかけてやっている自分が妙に可笑しいと思う。自分だけでなく、兄王にもそれは言えるようで、言葉の端々に彼の少年に対する賞賛が見え隠れしている。本人の前で態度にして見せるほど、迂闊でも全幅の信頼をもっているわけでもないのだが。
続けてアレイスタは、場の上層軍人たちにも聞かせるように言葉を継いだ。
「何の力も持たぬ無能者ゆえ、誰もが甘く見る、気を許す、しかし、それゆえに多くの者はあやつの持つ人の連なりには気付きにくいもののようだ。
皆、承知であろうが、為政者に必要な第一はなによりもまず人脈だ。だが、あの者は、猜疑心の強い我からしても有害とは見えぬ、まことに不可思議な来訪者なのだ。」
「確かに。」臣下の中でも切れ者で知れる参謀の一人が口を開く。「よほどに平穏な田舎町にでも育ったのでしょうか、一種平和ボケとでも言えそうな穏やかさを持っている様子ではありますな。」
あれを騙すのはいとも容易いことでございましょう、とその男は続ける。
「あの少年自身は陛下の言われるとおり無害な者でありましょう、しかし、多分に利用され易い危険も含んでおりますれば、警戒されるにしくはないかと。」
言われてみれば、確かに、今や七志の人脈は冒険者ギルドのみでなく、王宮内、果ては教皇庁にまで届いている。先日、当の教皇からの使者がやってきて、正式に招待状を届けてきたところだった。
教皇じきじきに来訪者ごときを招きよせるなど、前代未聞の出来事だ。企みを感じるところでもある。
あの少年は、何かを期待させる不思議な魅力を持っている、そうフィオーネは思う。彼の力を利用する目的をもって近付いてくる勢力は、今後、ますます増えてゆくだろう。
優秀に過ぎれば危険視される、それは何も王に限ったことではない。この世界を変えうる力を持つ来訪者たち。彼らとて、警戒をもって観察されるべき対象である。
王家を脅かすほどの影響力を持つならば、排除せねばならない。過ぎた『力』というものは、敵を作りやすいものだ。
七志自身の知らない場所で、彼の行く末は微妙に歪められつつあった。
緊迫した状況は、当事者たちには気取られぬうちに刻々と近付いてくる。
七志の依拠する軍勢、リーゼンヴァイツの正規兵たちも、現在は灯を消して仮眠を取っているものが大半だ。二つの設営地に控える傭兵軍も出兵時刻を目前に控えて慌ただしい。今後の作戦行動に備えて、それぞれ準備に余念がない。
それとは別の場所でも、この大舞台の立役者たちが密かに侵攻を開始していた。
隣国エフロードヴァルツの正規軍に傭兵を足し、その数5000。夜陰に乗じ、敵本陣へ針路を向けている。
「この調子ならば、一気に敵軍を叩くことも簡単だな。」
調子のいい言葉を吐いて、華美な装飾を施した騎馬に跨る将軍は鼻歌を披露した。
「御冗談を。慎重にも慎重を重ねてゆかれよとの我が将の助言をお忘れですか。」
冷たい響きを持つ言葉だ。発した者は年若く、少女に見えたが、これで齢30を超えるれっきとした軍人将校だ。エルフ族は成人までは人間と同じスピードで成長し、後は緩やかにしか年を取らない種族だ。
彼女はエルフであり、有能な参謀でもあった。ドメル将軍の懐刀と言われている。
「なぁに、君が居るのだから緒戦危うからずだ。それに見給え、敵軍のこの配置を。まるで挟み撃ちにしてくれと言わんばかりの布陣ではないか。彼の王は自身の戦闘力に驕り、自らを破滅へと追い込むのだ。」
一騎当千とも言うべきアレイスタの戦闘力ではあるが、それでも、たった一人の人間に為せることなどたかが知れる。ただ一人を除いて他は、文字通り『ただの人間』に過ぎないという事こそが、肝心な点だ。
ただ一人の特別ならば、相手にしなければ良いのだ。
国王を囲む正規兵1000に対し、こちらは5000。その内には20名もの魔導師が含まれている。いくら敵国王が名にしおう化け物であっても、20名もの魔導師に囲まれてはひとたまりもないに違いなかった。
片や、国王を含めて2000の兵力と数え、片や、一人は無いものとして1000と見ている。
だが、エルフの将校は気付かれぬように、その秀麗な眉を潜める。
この布陣は、明らかに策略であろうと見抜いていた。
◆◆◆
エフロードヴァルツの軍勢を率いる若き将軍は由緒ある貴族の一門に名を連ねていた。
ベルンスト・バルテン子爵。国務尚書バルト侯爵の甥っ子である。貴族の血によって、現在の地位に就いただけの軍人ではあるが、無能というほどに悪くはない、と副官として付けられた参謀カーミラは思っている。
エルフ族出身の彼女は、人間のコミュニティで暮らす数少ないエルフの一人だ。どうにも肌が合わないという彼らエルフの中には珍しく、彼女は群れて暮らすことに違和感を覚えなかった。エルフはみな、大集団というものが苦手なのだが。
輝くブロンドの髪は邪魔にならぬよう短くしており、美しいが愛想のない表情は完全に武人のものだ。
むっつりと黙ったまま、上司であるベルンストの述べる講釈を聞いている。
この将軍がまだ従属以下の、騎士見習いとして自身の下に居たことがつい昨日のことのようだ。初めて会った時は、ぼんやりと頼りなげな子供にしか見えなかったが、変われば変わるものだなどと思う。
得意げに、かつてのハナ垂れ坊主が言葉を綴る。
「かの国の推定兵力はざっと見積もっても30000は下るまい。それも、寄せ集めの農民兵ではない、戦闘にこなれた熟練の兵力が30000だ。あそこに居る兵士は明らかにそれよりも少ない。
我が国エフロードヴァルツが、国の事情により、此度は仕掛けて来ないものと見越しての作戦だ。だからこそ、たった3000の正規兵しか動かさなかった。」
黙って聞いているエルフに向かって、若き将軍は意気揚々と自身の見解を述べてゆく。
今の時期、戦争に持ち込みたくないのは、両者ともに暗黙裡の了解と見えている。こちらは火の山の事情があり、おいそれと戦端を切って落とすはずはない、と見ているのだろう。
「あまりに大人数を動かしてしまえば、逆に我が国を刺激する。それを避ける為だろう。……すでに我が国が教皇庁と手を結んでいる事も、あちらには情報が通じていようからな。」
まずまず及第点、といえる見立てである。
敵の、常備の兵力はあの明りの元に参集する3000が全てだろう。それは職業軍人とも言うべき存在であり、本当に戦時ともなれば国民から徴収した傭兵が主力になる。
つまり、冒険者たちがそれぞれの国にとっては、全兵力と言える存在である。職業軍人を国費で養うよりも能率が良く、戦闘技術に至っては徴収制で駆り出された平民などよりよほどに優れる。
冒険者という職業がある世界での、これは軍事の常識である。冒険者はイコールで非正規兵だ。だからこそ、冒険者ギルドという存在は成り立つ。
敵国リーゼンヴァイツの潜在兵力は、すなわちギルドの規模である25000に正規兵5000を足した、30000という計算が成り立つ。これは、かなり大きな軍隊だ。さらに総力戦を視野に入れれば、国民120万として徴兵可能な60万程度が加わることになろう。
この数はおよそ、エフロードヴァルツと同程度とみることが出来た。
騎士に必要なものは一にも二にも、王権への忠誠である。国が軍人に対し、武力と自由の行使を約束する代わりに求めるものが、決して裏切らないという約束、つまり忠誠心であり、同様に冒険者にも約束手形が求められた。彼らに代わって、彼らの為に国が利益を損ねないという保障を請け負うのが、すなわちギルドになるのだ。
冒険者はならず者に近い者も多い。それゆえ、ギルドは彼らが徒党を組んだ場合よりは強権を持ち、武力で鎮圧出来るだけの組織的な軍事力を有する。
騎士との違いは、彼らには出仕に対して拒否権があるために、戦争で駆り出すためにはそれ相応の大義名分が不可欠だという点くらいか。
この世界で戦争を起こすことは、権力者の一存では不可能だった。
「ベルンスト、貴方はまだ思考の悪癖を克服してはいないようですね。きちんと整理整頓してみなさい。」
冷たさが少し薄らいだ声音で、エルフは話しかけた。顔は正面を見たままだ。
「いえ、その、…サー。」
何が不興を買ったかが判らず、名指しで呼ばれた将軍は視線を泳がせる。
この状況を整理して考える。師である彼女に言われた言葉を、その時の状況を思い出しながら、彼は思考を巡らせた。
戦略と軍略の違い、局地での戦略には自信があるのだが、大局で物事を見るという事は苦手だと自覚している。
この布陣から見える敵の思惑が、当確であるなどと馬鹿げた思い込みをするわけではないが、他に目論見があるとしてもそれが何なのかまでは推し量る技量を持たぬ。
それでも懸命に知恵を絞って考えているうちに、美しいエルフの師はもう一度口を開く。
「我が国にとって火の山がネックであるように、あちらの国ではこの山がネックなのです。近年は、火の山があるため、我が国に遠征依頼が来ることはあまりなく、その分をかの国が一身に負っている。かなり切迫していると見ていいでしょう。常備の正規兵ではなく、戦時には主力となるべき冒険者たちに多大な犠牲が強いられていることが問題なのです。
内在する問題は二点、冒険者たちに不満が募っていること、我が国とかの山の二つの敵を抱えることです。時が経つほどに、あの国は疲弊してゆき、いずれ王権は倒れることになるでしょう。」
冒険者たちの蜂起によって混乱が起きても、あるいはゴブリン山の勢力に押されて衰退しても、エフロードヴァルツには都合が良い。いずれ、戦乱は避けて通れぬものと見られていた。嫌がおうにも。
「エルフがこの地を見捨てた時に、すでにこの地は荒廃する運命が決定されてしまったのだと言ったはずです。」
大規模な戦争に発展し、どちらの国がどう版図を塗り替えようが瑣末なことでしかない。
どのみち、この近辺はすべて魔物の勢力下に置かれてしまうのだから……。
エルフの参謀は深く頭を垂れ、暗い目を周囲の人々から隠した。
人と人とが争っているような状況ではないのだ。
だから人間は愚かだと、エルフたちは口を揃えて言う。