第十二話 シャドウ・ドール
王は自身の頭と格闘している。否、無礼にも王の頭に被さった、得体の知れぬ魔物。小賢しくも、この王者たる肉体を意のままに操ろうと画策する不埒な輩と。
王の頭上に被さるべきは王冠のみとする、自らの矜持が傷付けられた。
「ぬんっっ!」
力任せに引き剥がした。自身を操る魔力の枷と、頭に嵌り込んだ呪縛の源を。
そのまま足元へと叩きつける。続けて踏み潰そうと足を上げた。
「ひゃぁ~!」
人を小馬鹿にする含みに気付いて、ぴたりと動作を止める。罠かと訝しんだ。
魔物が、ふぃ、と消え失せた。
「……逃げおった。」
「陛下。ここから先はワタクシめにお任せを。」
いつの間にか、背後に小さな影が立っていた。まるで王の影から這い出てきたかのように、黒衣の影が前方へと回る。
黒いドレスに身を包んだ、この国の王妃がそこに居た。
「おお、我が愛しのエリーゼか。あいも変わらず、油断の為らぬ女だ。
これほど簡単に背後を取られるようでは、我もまだまだ鍛錬が足りぬ。」
「滅相もございませんわ、陛下。それに……わたくしを一般の兵などと御一緒になされては困ります。」
優雅な仕草で黒い羽扇子を広げる王妃は、一見すればなよなよとしたか弱き乙女としか見えない。
幼さの残るあどけなく柔らかな頬のライン、しなやかな細い指先、穢れを知らぬかのように純真な濡れた瞳、唇。
けれど、王妃は恐ろしい毒蛾だった。
「後の始末はお前に任せる、好きにいたせ。」
王は、王妃が捧げ持つ羊皮紙の束ねを、軽い仕草で受け取った。
「来訪者の懐にありましたわ。ライアス殿の使者として参ったものでございましょう。」
「そうであったか。……言えばよかろうに、馬鹿者め。」
呆れたような響きを含ませた声に、王妃の忍び笑いが添えられる。
「陛下のあまりの強さに、怖れを為したのでございましょう。無理もありませんわ。」
「あ奴は問題にならぬ。まったくの無害。我も多くの人間を見てきたが、あれほど無害な人間というものには初めて出会った。毒にも薬にもならぬとはああいう者を言う。
だが、あ奴が使役していた、あの魔物……あれは、少々、気に障るのだ。」
「お任せください、陛下。」
エリーゼが恭しく礼を正した。
「すぐに引きずって参りますわ。……しばし、お待ちを。」
王の影に潜み、いつの間にやら七志の懐からライアスの書簡を奪い取っていたこの王妃は、ある意味で国王よりも厄介な人物だった。
かつては王の命を狙ったアサシン。
莫大な財産と領地、一族郎党までをも召し抱えるという破格の条件を提示され、あっさりと寝返った。そういう噂のある女だ。
実際は違う。
王の、捨て身のプロポーズに絆された。
「わたくしの身も、心も、この命さえ、あの夜より先は陛下お一人のものですわ。」
「我はな、……いや、なんでもない。」
あの日。お前にならば殺されてやってもよい、と。そう思っていたのだとは口にしない。国王の重責を顧みないそのような発言を、この王妃が喜ぶとは思えなかった。
「使い魔には気をつけよ。あれからは、邪悪な念を感じる。」
一方、その頃。
王にして、毒にも薬にもならぬと評された男、七志はといえば。
「カボチャのやつ、ちゃんと逃げたかな……。潰されてたら……、ちくしょう、俺があん時……、」
他人の心配をしていた。
考えてもどうにもならないと十分に承知した上でも、後から後から後悔の念は沸いて出る。不審者に対して、まったく警戒を持っていないらしい王宮の警備体制に疑問を抱きもせず、先ほどの戦闘を思い出してシュミレートし直すことばかりしていた。
時間が過ぎた。ここへきて、ふと気づく。
闇雲に逃げたため、現在地すら解からない。王宮の壮麗な廊下はいつの間にか石造りの質素なものに変わっている。……なんだか、ゲームの舞台を思い出してしまう、地下牢辺りの。
人の姿もなく、心なしか空気もひやりとして冷たい。
黒い影が前方の床にじわりと広がった。
緊張して立ち止まる。ここは魔法の世界、何が出てきてもおかしくない世界だ。
心臓が痛いほどに早く打ち付ける。影は伸び上がり、人の形を作り、少女の姿を取った。
黒いドレスに身を包む、美しい少女。肌は白く、艶やかな唇がうっすらと微笑みをかたどる。
見覚えがある。王座の隣に控えていた王妃だ。
キツイ一言で、七志を侮辱した。あの時と同じ、どこか人を見下す視線を向けてこちらを見ている。
彼女の意志は、彼女の両手に表されていた。
その両手にあるのは、死神の如き禍々しき大鎌が二振り。
「えっと……、あの、ごめんなさい、不法侵入とかするつもりじゃなかったんです、本当に。」
彼女の鎌に視線を向けたまま、七志は言い訳を述べた。
喉がひりついていて、巧く言葉にならない。視線を凶悪な武器から逸らすことも出来なかった。
一瞬でも目を離せば、首ごと持っていかれる、そんな予感がある。
王妃の声音は、聞く者の本能的な警戒をいとも容易く破り去らせ、薄紅色の濡れた唇へと問われた者の視線を向けさせる。
「あら。気にする必要などなくてよ。警備は手薄にしてあるの。……わたくしの趣味の為にね。」
王妃がにっこりと微笑んだ。大輪の薔薇が咲き誇る、そんな表現さえ陳腐な程に美しい少女。思わず視線が釘付けになる。その言葉の中に潜む猛毒にも気付けない。
「国王陛下がお会いになられます、謁見の間へお戻りなさい。」
「あ、ありがとうございます!」
シャラン、と薄い刃が鳴った。
「この刃を避けてから、ね。」
人形のように美しい少女の、人形のような微笑み。
血の通わぬ、人間らしさの見えない、絵画のような、完璧な微笑。
◆◆◆
「武器を持ってきた事は賢明ですわね。
丸腰だからと情けを掛けるというような教育は、我が国の兵士に施してはおりませんの。」
冷血の微笑み。
この様子では、国王以上に聞く耳は持っていないのかも知れない。説得を試みようとして、しかし口を開くより先に躊躇が走る。無駄な事ならば隙を突いて逃げるか。いや、時間稼ぎにはなる、その間になにか考える事も出来る、と気持ちを切り替えた矢先に、王妃が先回りして七志の希望を断ち切った。
「会話は無用ですわ。時を稼ぎ、敵の油断を誘い、間合いを掌握する、……戦闘におけるセオリーですものね。さすがはライアス殿が弟子に取るほどの逸材、この短い期間に、基本はしっかりと学んでいる様子ですわね。」
それは買いかぶりです、王妃様!! と、叫び出しそうになった。
王といい、王妃といい。こんな化け物じみた人物たちに認められるのは御免蒙りたい、いや、生きた心地がしない。まるで、蛇に睨まれる蛙、否、生殺しに遭っているかのような気分だった。
眼前の毒蛇が赤い舌をチロチロと覗かせる。口を開くたびに、王妃の薄紅の唇に映える赤い舌先が扇情的に七志の視界を刺激した。蠱惑の魔法にでも掛けられたようにクラクラする。
殺意と魅惑。混ざり合って奇妙な空気だ。
「……もっとも?
陛下の御為、如いてはこの国の為に、貴方のような方にはさっさと退場して頂いた方が良いと、わたくしは思うのですけれど。貴方が反王政に転向し、陛下に牙を剥く可能性というものを考えた場合、当然の結論だとは思いませんこと?」
王妃の、隠しもしない殺意が重圧となって、七志の周辺の空気を圧縮していた。
「けれども……。」
王妃は、ほんの少しだけ表情を和らげて、言葉を継いだ。
「陛下の命は絶対ですわ、貴方を殺すことは致しません。けれど、同時に陛下は、傷付けてはならぬとも申されておりませんの。おわかりかしら?」
表情を緩めたと言って、油断のならぬ相手に違いが出るわけもない。この殺意が完全に殺す意思を持つ殺意ではない、と明言されたとて、言葉自体には意味がない。
殺しはしない、と言っているだけだ。
「貴方はまっすぐにこの廊下を駆け抜けるだけで良いのです。わたくしはこの場でゆっくりと数をかぞえましょう。10を数え終えたなら、貴方を追い、……戦闘不能にして差し上げますわ。」
「もう一つ。この廊下をまっすぐに行くと、十字路へ出ますの。貴方が取れる選択肢は三つですわ。
右へ行かれるか、中央か、左か。いずれか二つは行き止まり、残る一つは貴賓室の一つと繋がっていますの。貴方が貴賓室に辿り着くまでに、わたくしが追いついたら、始まりですわ。貴方とわたくしの殺し合い、楽しいお遊びに致しましょう。ルールはそれだけ。簡単でしょう?
……では、始めますわよ。」
一方的な宣言の後、王妃は鈴の音のように可愛らしい声で、最初の数字を読み上げた。
「ひとぉーつ、」
何一つ話をする間もなしに七志はゲームの中へ放り込まれてしまった。
王妃の仕掛けた鬼ごっこ。鬼は、凶悪な武器を掲げる美貌の悪魔。
「ふたぁーつ、」
巧い手も見つからぬまま、とりあえずの判断で七志は走り出した。
「もう一つ、言い忘れておりましたわ。わたくしったら、うっかり者ですわね。ホホ。」
王妃の声が後方から響く。
「わたくしは歩いて参ります、貴方はお急ぎなさいな。くれぐれもお気をつけて。」
王妃の言葉を反芻。
歩いてくる、ということは……よほど自信があるのだろうか、貴賓室には辿り着けないと。と、いう事は、なにかの罠? 急激に疑心が湧き上がる、夢中で駆けていた足がゆっくりになった。
そして、七志の足は完全に止まる。
目の前の光景に愕然と息を呑んだ。
今までは、何の変哲もない石造りの廊下が続いていた。そこへいきなり、異様な光景が混ざり込む。
片方の壁が、これ見よがしに一部分だけ、異様なのだ。
鋭い棘がびっしりと生えている。上下に二本づつの鎖が、もう片方の壁へと続いて、壁に開いた穴の中へと引き込まれている。穴の隣にはのぞき穴。
仕掛けられた罠。
一歩、歩を進めると、弛んだ鎖がぴくりと揺れた。
壁の向こうに誰か居る。恐らくは、王妃の部下のアサシンか。
「参ったな……、」
内心の焦りを押し隠して、七志は大仰にため息をついてみせた。ダッシュの素振り、ピンと張る鎖。
殺る気満々の棘付き壁の仕掛け人たちに、再び七志はため息を零した。
なるほど、歩いてでも追いつけると豪語するわけだ。
こんな所で立ち往生していられない、王妃はすぐに追いついてくるだろう。
けれど、いくら考えを巡らせようとも、この危機を脱する名案は浮かんでは来なかった。
「これは油断なりませんぞ、七志様。茨の道とでも申しましょうか、この罠は。恐らくは奥にもまだまだ続いていそうな気配ですなぁ。」
「カボチャ!」
いつの間にか斜め後ろに控えて浮いていた使い魔のほうを振り返る。
「わたくしはジャック・オ・ルァンターンだと申しておりますでしょうに。」
やれやれ、という声音。
なんでもいい、と七志は宙に浮くカボチャ頭の使い魔を捕まえ、ぐりぐりと少し強めに撫で回した。
「痛いです、七志様、ご主人様!」
「このヤロウ、心配したんだからなー!!」
「こ、こんなところで再会を喜んでいる場合では御座いませんぞ、七志様。」
「おう、そりゃそうだった。……コイツ、なんとかなるか?」
「ふーむ。この棘が引っ張られて……この鎖を引いて……この覗き穴が……なるほど、なるほど。」
ふよふよと宙を漂いながら、カボチャが呟く。
七志は後方を気にするあまり、使い魔の行動には注視していなかった。
「解かりましたぞ、七志様。つまり、このように廊下を迂闊に進んでしまいますとですなぁ、」
言いつつ、ふよふよと棘廊下の中へ進むカボチャ。
ガシャーン!
恐ろしい音と共に廊下が移動し、反対側へ突き刺さった。