ド陰キャな私が当て馬王子に尽くした結果(なぜか執着されています)
――出会った瞬間にすべてを理解した。
ここがとある漫画の世界で、目の前で虐められている王子こそが私の推しだと。
「おい、外れ王子。お前、臭いんだよ!」
「とっとと塔に帰れよ。お前みたいなのがいると王家伝統の茶会が穢れる!」
「何か言えよ。こんなのが王族の血を引いているだなんて情けない。アストラ様にも申し訳ないと思わないのか?」
三人の貴族の令息に囲まれているのは、みすぼらしい格好をした十五歳くらいの少年だった。彼こそが外れ王子……キルシュ・グランベルクだ。
銀髪に燃えるような赤色の瞳。とある漫画のダブルヒーローの片割れで、妾腹だという理由で王妃から疎まれ、ろくに使用人もつけられずに、王城内にある塔に軟禁されている。時折、王妃の嫌がらせでお茶会なんかに呼び出されては、惨めな格好を揶揄われる……そんな不遇な少年時代を過ごしている。
ダブルヒーローの片割れ、アストラ・グランベルク……彼の腹違いの弟と比べると、明らかに扱いが違った。アストラは王妃の子どもだから尚更だ。我が子を将来玉座に据えたい母心がそうさせているのだろうが、少年にはあまりにも残酷な仕打ちである。
実際、繰り返される差別がキルシュの心を蝕んでいる。
漫画のストーリーが始まる頃……二十歳くらいの彼は、誰にも心を許さず、反抗した者は容赦なく手に掛ける冷血漢と成り果てていた。誰にも愛されず、誰も愛さない。戦場で敵を殲滅する姿は味方からも恐れられるほどで、自ら進んで死地に赴く姿はひどく痛々しい。
凍てつく心を持て余した孤独な王子――それがキルシュ・グランベルク。
そんな彼が、漫画のヒロインに出会うことにより徐々に癒やされていって――
……みたいな話なのだが。
所詮、彼は当て馬だった。
ダブルヒーローといえど、ヒロインが結ばれる相手はアストラなのだ。太陽のようだと誰からも褒めそやされるアストラは、横暴な王妃の存在にずっと頭を悩ませてきた。王妃の犯罪めいた手段によって自分の地位が守られてきたからだ。そんな自分が本当に王になっていいものなのか……みたいな葛藤を抱えたキャラがアストラ。そういう彼を健気に支えるのがヒロインなのである。
ヒロインはそんなアストラに一途だった。
キルシュと親しくしつつも、ずっとその目はアストラを追っていた。
だから、キルシュは身を引いた。結果的に刺客に毒を盛られ、ふたりに王国の未来を託して息を引き取るのだ――
(ああ。なんて可哀想なキルシュ。哀れで惨めで、初恋すら叶わない)
そんな彼が私は大好きだった。
彼が死ぬシーンを何度も読み返しては号泣した。誰よりも悲惨な人生を歩んできたのに、どうして幸せにならないの? なんで彼が死なないといけないの。
彼は何も悪くないのに。悪いのは周囲の人間なのに。
幸せになるべき人間が不幸になる世界に、何の意味があるの?
(まさか、あの漫画の世界に転生していたなんて)
不思議な感覚だった。そして驚いてもいる。目の前に幼いキルシュがいること以前に、一瞬にしてすべてを理解出来た自分自身にも。
(……そうか。そのために生まれ変わったのか)
前世を自覚した時から、自分が転生した意味をずっと探していたのだ。
だから、次の瞬間には、キルシュに向かって歩き出していた。
「うわ」
私の存在に気づいた令息のひとりが引き攣った顔をする。
じり、と後ずさった瞬間、いきなり怒鳴った。
「こっち来るなよ。化け物令嬢!」
長い髪の毛の陰で、私はクツクツと笑った。
(化け物かあ)
言い得て妙だ。
事実、私の容姿は普通とは言えない。
癖の強い黒髪はうねっていて、その癖、量が多いのでまとめることもできず、そのまま背に流してある。食が細いから体はガリガリだし、自分に自信もないから常に俯きがちで、伸ばしっぱなしの前髪で顔を隠していた。
派手な色も清楚な色も好きじゃないし、そもそも似合わないので、地味な茶色のドレスにアクセサリーも申し訳程度。母はすでに私を着飾ることは諦めているし、歳が近い姉からは茶会では近寄るなと言われているし、宰相である父は私の存在を無視している。
身分だけはご立派だが、家族から持て余されている化け物――それが私。
アキ・リステリア。
前世の記憶を持って生まれただけの、ド陰キャである。
(……ううん。違うか。前世の記憶を持って生まれたから今の私がいる)
最悪なことに、前世の私もまったく冴えなかった。
取り柄がなくて、才能もなくて、コミュ障で、ブスで、誰よりも劣っていて、生きている価値がない。漫画だけが癒やしだった。私を許してくれた。紙面越しにキルシュが見せてくれた笑顔だけが救いだった。そんな前世を覚えたまま生まれてしまったのだ。
(最悪だ。転生なんて)
忘れたかった。クソみたいな前の人生のことを。
覚えていたくなかった。修学旅行、誰も班を組んでくれなくて、先生と過ごした虚無な時間も、好きだった人が「あれはない」と自分を揶揄した夕暮れ時の記憶も、せっかく就職できたのに「使えないゴミ」と同僚にいじめられ、家から出られなくなってしまった日に感じた外の世界の眩しさも。
最悪だ。最悪だ。最悪だ。最悪だ。最悪だ。
すでに中身が腐ってしまっている。生まれ変わったからといって、割り切って生きていける訳がない。
……早く、こんな人生が終わればいいのに。
そんな風に投げやりに生きてきた。それなのに――彼に出会ってしまったのだ。
前世、誰よりも幸せになってほしいと願っていた人に。
(ならするべきことはひとつ)
彼を助ける。彼のために生きよう。そう、決めた。
「やっ、やめ、やめなひゃいよ! キルシュ様からはな、離れなさい!」
久しぶりに発した声は裏返っていた。
「なんだあ?」途端、令息たちの顔が嘲笑に彩られる。
「化け物令嬢には関係ないだろ」
「俺たちは国のためを思って忠告してやってんだ。わかんない? 馬鹿なの?」
「ブスが何の用? さっさと帰れよ。俺たちを誰だと思ってる」
三人三様の嘲りを向けられて、心の中に様々な感情が渦巻く。
私だって王国民だ。そして貴族である。王族が馬鹿にされているのを見て見ぬ振りはできないし、大勢いる場所で王子を蔑む方が馬鹿だとか、親の身分的には自分の方が上のはずで、バレたらマズいとわかっていないのか、とか。
言いたいことは山ほどあった。――でも、言い返せなかった。
言えるはずがない。前世からやられっぱなしの人生だったからだ。
前世の私なら逃げ出すような場面だった。こんな脳みその足りない連中に構うくらいなら、誰にも迷惑を掛けないように気配を消していた方がよほど平和だ。
でも、今世の私には役目が出来た。出来てしまった。
そこにキルシュがいる。大好きな――辛かった過去を救ってくれた救世主が!
「――……うわああああああああああああああああああああああああっ!!」
雄叫びを上げると、私は髪を振り乱しながら令息に殴りかかった。
「うわあ!」
拳が令息の頬に当たってひどく痛んだ。痩せぎすなせいで体力がまるでない。目眩がしたものの、すかさず爪で相手をひっかいてやった。
「このっ……!」顔を真っ赤にした令息が私の髪を引っ張る。ぶちぶちぶち。鈍い音。激しい痛みが襲ってきたものの、構わずに手に噛みついてやった。ぎゃあ、と悲鳴が上がる。弾みで歯が取れたらしい。口の中に血の味が広がった。「お前!」もうひとりの令息が私の脚を思い切り蹴ると、たまらず地面に頽れた。すかさず、私の腹を誰かが蹴り上げる。
「……ひぐっ……」
息が出来ない。
痛い。痛い。痛い。誰かが私に馬乗りになっている。
「なんでこんなことをするんだよ!」
頭が痺れて感覚が麻痺していた。涙が溢れている。鼻水も。顔がぐちゃぐちゃだ。口許だって血で濡れている。
令嬢としてあるまじき姿。でも――これだけは絶対に譲れないと思った。
「キルシュ様は何も悪くない!!!!!!」
思いの丈を叫ぶ。ようやく素直に言葉が出て来た。
ああ、痛い。痛い。吐きそう。帰りたい。けれど、口からあふれ出た言葉は止まらない。
「すべては環境のせいだ。キルシュ様は何も悪くない!!!!!!」
どこぞの転生ものの小説みたいに、理路整然と相手を論破出来ればよかったのに。
私の口から出た言葉はあまりにも拙く、根拠に乏しく、正義もなかった。
けれど、想いだけは誰にも負けない。何せ前世から温め続けていた感情だ。
「キルシュ様を馬鹿にするなあ……!!」
「うるさい!」
瞬間、脳天がひどく揺れた。左頬が熱い。殴られたのだ。何度も何度も痛みが走る。激昂した令息が何度も殴りつけてきているらしい。どうして誰も止めないのか。大人は何をしているんだ、などと思うものの、そのうちどうでもよくなった。
(意識が薄れてきた。もしかしたら死ぬのかも知れない)
それならそれでいい。陰キャが死んだって誰も悲しまないのだし。
そんな風に思った瞬間、視界の隅に何かが映った。
私に馬乗りになった少年に誰かが襲いかかっている。銀髪に赤眼。それは推しのキルシュだったような気がしたが――
理解をする前に意識がブラックアウトしたので、正体を確かめることは叶わなかった。
*
目覚めた時、目の前に父親がいた。
この国の宰相で、可愛い娘が前世のせいで陰キャになってしまった可哀想な人だ。
「どうしてあんなことをした」
彼はようやく目を覚ました娘を心配するでもなく、淡々と問いかけた。血の繋がった父親とは思えない対応。情がない子どもに対する態度なんてそんなものか、とひとり納得する。
少し顔を上げると、全身に激痛が走った。包帯で顔をグルグル巻きにされている。視界が狭くて景色が霞んで見えた。顔が腫れ上がっているようだ。お腹辺りもズキズキ痛む。満身創痍とはこのことだ。
(やっちゃったなあ)
でも――後悔はない。やるべきことをやっただけだ。
「キルシュ様は悪くない、から、です」
ようやく絞り出した声は、年寄りみたいにしゃがれていた。
そんな私を見つめていた父は、しばらく考え込んでいたかと思うと、
「そうか」
それだけ言って小さく頷いた。
(何がわかったのだろう)
元々、言葉数が少ない父親の意図はまるでわからない。
しかも、父はこんな状態の娘にとんでもないことを言いやがったのだ。
「殿下が……キルシュ様が見舞いたいと言っている」
「断ってください」
秒で断りを入れた。
普段は鉄面皮の父親の表情が揺れる。訳がわからないだろうとは思った。私のキルシュに対する好意は丸わかりで、普通ならば近づきたいと考えるはずだからだ。
でも――そんなのまっぴらごめんだ。
「わ、私の願いは、キルシュ様がお健やかに、す、過ごすことだけです。お会いするつもりは、これからもありません」
冗談じゃない。推しの視界に醜い自分が映るなんて耐えられなかった。
想像しただけで寒気がする。彼には美しいものだけを見ていてほしい。私は遠くから眺めているだけでいいのだ。彼が生きている、それだけで心は満たされるのだから。
「…………。そうか」
父は少し残念そうにしながらも、そのまま部屋を出て行った。
怒りもしないなんて不思議だった。
変な話だ。うら若き令嬢が令息に襲いかかったのに?
(……まあ、いいか)
説教を覚悟していた私は、拍子抜けしつつも安堵していた。
この先も、推しと関わり合うつもりはない。けれど――
(彼を不幸にするものはすべて排除する)
それが私の使命。
やるべきことはたくさんあった。煩わしいことは少ない方がいい。
そっと目を瞑る。今は一刻も早く体調を戻すべきだ。
*
頬骨と肋骨が折れていたらしい。なのに、回復にはそんなに時間がかからなかった。
父が最上級の治癒師を派遣してくれたからだ。
王族を診ることもあるという治癒師への報酬は莫大なはずだった。
それなのに父は奮発してくれたらしい。醜く腫れ上がっていた顔は、そんなに時間がかからずに元の冴えない姿に戻っていたし、折れた肋骨は次の日には痛みがなくなっていたし、欠けていた歯は見る間に元通りになった。
(父が私にお金を掛けるなんて、珍しいこともあったものだ)
きっと王族を助けたご褒美なのだろう。
私に対してお咎めはなかったから、その信憑性は増していた。
反面、キルシュを揶揄っていた令息たちはえらい目にあったらしい。
特に私に馬乗りになった令息は廃嫡が決まり、その親も処分を受けたようだ。
キルシュに対するああいう発言は、私に馬乗りになった少年に限らず、特段珍しいものではなかった。しかし、あんな騒ぎになった以上は見過ごせなくなったようだ。被害者が腐っても宰相の娘となれば尚更だった。
そのお陰もあって、表面上はキルシュに対する扱いも改善したようだ。
塔に使用人が追加され、まともな衣服が用意されるようになったし、軟禁状態は解除され、自由に城を出歩けるようになった。
「キルシュ殿下は何も悪くないからな」
朝食の席で、父が零した言葉が印象的だった。
どうやら父が尽力してくれたようだ。それでも王妃側からずいぶんと顰蹙を買ったようで、お茶会で夫人達から嫌味を言われると母と姉が愚痴っていた。
「あなた、王妃様に目を付けられるようなことはやめて」
「そうよ! あのお方に嫌われたら、社交界で居場所がなくなっちゃう……!」
母と姉が父に詰め寄っている。それほど王妃の影響は莫大なのだ。
(王妃はよほどキルシュが憎いのね)
これは漫画の筋と変わらない。自分の息子を王位に就けることに命をかけているのが彼女という人間だ。あの女がいる限り、キルシュはこれからもひどい目に遭うのだろう。
(……なら、排除するだけ)
そうすれば、キルシュが毒を受けて倒れることもなくなる。
彼が生き延びる可能性だって出てくるはずだし――
王妃の横やりがなくなれば、キルシュがアストラを差し置いて、ヒロインと幸せになる未来だって訪れるかも知れないのだ。
(彼の恋が実る……! なんて素敵なの)
そのためには何でもしよう。
それさえ叶えば、他に何もいらなかった。
*
王妃を排除する。
方法は? 宰相の娘とはいえ、一介の令嬢が出来るの?
しかも、私はただのモブだ。漫画には影も形もないくらいの。
正直、とても困難な道のりに思えた。
けれど――私には宛てがあった。もちろん前世の記憶である。かつて読んだ物語で、王妃は主人公達に倒された。アストラを王とするために、キルシュの暗殺を企み、そして隣国と密通したからだ。
そんな王妃は魔女の力を借りていた。
犠牲を捧げれば、何でも願いを叶えてくれる――そんなお伽噺みたいな存在に。
(魔女の助力を願えれば、王妃をなんとかできるかもしれない!)
怪我から回復した私は、さっそく魔女のもとを訪れることにした。
とはいえ、一介の令嬢がひとりで出歩くなんて非常識だ。なのに、外出許可はすんなり出た。
「アキがしたいようにすればいい」
父は相変わらず私に無関心なようだった。書類に視線を落としたまま、こちらを見もしない。けれど、私にとっては好都合でもある。小さく礼をしてすぐさま去ろうとした。
「……キルシュ殿下だが」
途端、父が口を開いたので、慌てて足を止めた。
勢いよく振り向いた私に、父は何やら苦笑している。
「ここのところ、とても穏やかに過ごされておられるようだよ」
机から封筒を取り出す。そして彼からの手紙だ、と言った。
「部屋で読みなさい」
「……っ! は、はい……」
ドキドキしながら部屋に戻った。
震える手でペーパーナイフを使う。
『拝啓 アキ・リステリア様――』
手紙には、几帳面そうな文字で以前助けてもらった件についての感謝が綴られていた。
一度、直接会ってお礼をしたいとも書いてある。
「うわ……」
心臓がバクバクと鳴って、体がひどく熱かった。
どうしよう。推しに感謝されちゃった……!
とんでもなく嬉しい。同時に困惑もしていた。やっぱり彼と対面するなんて考えられない。できれば私のことは忘れてほしいくらいだ。
(断りの手紙を書こう。大丈夫。漫画のキルシュは人嫌いだった。面倒事が減ったって喜んでくれるはずだよね)
すると、封筒に何かが入っているのに気がついた。
取り出して見ると、燃えるような赤色の石がついたシンプルなネックレスだ。
お礼の品だろうか。太陽の光に透かして見ると、赤い石の中に柔らかな陽光が乱反射して、見惚れるほどに美しかった。彼の瞳を思い出させるそれに、たまらず口許が緩む。
鏡台の前に移動して、慎重に身につけてみた。
私の首元で鮮やかな赤色が躍る。
(私みたいなブスには似合わないな。……ああ、でも)
彼が側にいてくれるみたいで、泣きたいくらいに嬉しい。
「……やっぱり、キルシュは救われるべき」
私なんかに礼を尽くしてくれる真摯さがある。漫画と同じ。この世界の主人公格だ。
――数日後。
魔の森に向かう馬車には、父によって最低限の護衛がつけられていた。
赤髪の若い護衛と、丁稚の少年だ。護衛は見慣れない顔だ。新人だろうか。丁稚は深く帽子を被っていて顔は見えない。どうやら私と同じくらいの年頃らしい。
(いらないのに……)
そうは思ったものの、彼らを追い返すのも面倒だった。そのまま少年が繰る馬車に乗って、王都の外れにある魔の森を目指すことにした。
鬱蒼とした森――魔女が棲んでいるという魔の森に到着すると、私は彼らに待機するように命じて、ひとりで歩き出した。
「おいっ……! お嬢様、さすがにひとりは……!」
護衛の男が文句を言っていた気がするが無視をする。
よく知らない人間と関わるなんて面倒だ。逃げるように駆け足で森を進んだ。
道なんてわからない。日の光を通さない森はどこまでも昏く、遠くから聞こえる獣の声は恐怖を誘った。けれど――不安はなかった。原作を読んで知っていたからだ。
魔の森に棲まう魔女は、来る者を拒まない。
敵意さえ持っていなければ、必ず魔女の元へと連れて行ってくれる。
「……ようこそ。お嬢さん」
前世の記憶通り、そこに魔女はいた。
淀んだ沼の中央。禍々しいオブジェで彩られた庵。少女とも女性とも老婆とも取れる不思議な雰囲気を持つ彼女は、豊満な肉体を柔らかそうな椅子に沈ませて私を待ち受けていた。
「お望みは? 対価をくれるならば叶えてあげましょう」
紫煙が煙る室内で、魔女は私の行動を待っている。
私は彼女の前に進むと、懐から革袋を取り出した。机に置いた袋から零れ落ちた宝石は大粒で、今は亡き祖母から引き継いだものだ。
「お、王妃の命がほしい、の、ですが……」
冷や汗を掻きながら必死に声を絞り出す。
蚊の鳴くような声ではあったが、魔女には届いたようだ。顔色をなくして反応を窺っている私に、彼女は小さく噴き出し――やがて大きく笑い出した。
「あはははははは! あははははははははははははははははは!! 冗談でしょう!? そんなチンケな対価で王妃の命を!?」
魔女は私をあざ笑うと、手に持っていた煙管を高らかに机に打ち付けた。
彼女が私に向けた目は据わっている。明らかに怒りと嘲りが浮かんでいた。
「さすがに贅沢だわ。お嬢さん。身の程を知りなさい」
息を呑む。向けられた悪意に体が竦んだ。
でも――
「……何を、た、対価に差し出せばいいの……」
ここで諦める訳にはいかない。
震えながらも、けっして目を逸らさない私に、魔女は楽しげだった。値踏みするような視線を寄越されて、嫌な汗が全身から噴き出す。漫画の中の魔女も大概だったのだ。人に無理難題を押し付け、絶望する姿を楽しむ悪趣味なところがある。
――彼女はいったい、私に何を求めるのか。
「そうね。あなたの自身、でどうかしら?」
魔女はふてぶてしく笑うと、私の体を煙管で指した。
「まずはその髪。処女の――それも貴族の髪は、魔法薬の媒体として優秀なのよね!」
彼女の声にはありありと侮りが含まれていた。
令嬢にとって髪は命も同然だ。髪が短い女性は、世間では花街で働く女性くらいのものである。貴族女性の髪が短くなるような事態になったら、命を絶ってもおかしくはない――だからこその条件なのだろう。まさしく無理難題を突きつけられている。
けれど――
「ああ! よかった。そ、そんなことでいいのね」
「――へ?」
「これでいい?」
隠し持っていた短刀で髪をバッサリと切り落とした時、魔女は目が零れ落ちそうなくらいに驚いていた。美しい顔を引き攣らせ、慌てたように立ち上がる。
「……ま、間違ったわ。髪だけじゃ足りないわよ! だって王妃よ? この国で一番偉い女。だから――そ、そうよ。処女の右目! 右目がほしいわね。これも、とってもレアな材料で……いやああああああああああああ!」
突然、悲鳴を上げた魔女はひどく動揺した様子で叫んだ。
「――あなた、何をしているの!!」
私はただただ微笑んでいる。
右手には、抉られたばかりの眼球が載っていた。
「……こ、これで、対価は足りますか」
ぽとり、と机の上に眼球を落とす。ついでに髪の毛も置くと、元々あった宝石と並んで、なんともグロテスクな光景だった。
――けれど、これは必要な犠牲だ。
「他に必要なものがあれば、なんでもおっしゃってください。なんでも差し上げます。私に差し出せるものなら」
晴れやかな気持ちの私とは対照的に、魔女はひどく顔色が悪い。
「……王妃を殺してどうするつもりなの」
獣が唸るような声で訊ねてくる。
魔女からの突き刺さるような視線を浴びながら、私はごくごく自然体で答えた。
「キルシュ様が幸せになるために、あ、あの女が邪魔なんです」
「……キルシュ。第二王子ね。彼はお前の何? 婚約者? 恋人?」
「ま、まさか! そ、そんなことあり得ません。あの、あの。私にとってキルシュ様は」
頬が熱くなるのを自覚しながら、私はうっとりと彼を語った。
「神様、みたいな人で……彼の幸せが、私の幸せなの」
「彼と結ばれたい、とかそういうんじゃないの?」
「まさか! 彼の幸せだけが、の、望みです。その対価が自分自身なら……すごくありがたいと、お、思う。私が死んでも誰も悲しまないもの……!」
――そうだ。私自身ですら、死を恐れていない。
目を瞑って陶酔に浸る。
(きっと、この日のために生まれたんだ)
好きな人の踏み台になれるなんて!
(なんて幸福なのだろう――)
「……は、ははは……お前、どんな神経してるのよ……」
魔女は力なく笑っていた。椅子に深々と腰掛けて、深く煙管を吸う。
勢いよく紫煙を吐き出した後の彼女は、明らかに表情が変わっていた。
「――気に入ったわ! なんて私好みなの。その歪んだ愛情……! 素晴らしいわ。お前の願い、叶えてあげる!」
上機嫌で立ち上がると、魔女は私を抱き締めてきた。
ふわふわもちもち、やたらいい匂いのする体に包まれて困惑している私に、魔女は毒を潜ませたような声で言った。
「――その代わり、約束は違えないで。何でもくれるのよね?」
じわり。私の鼓膜が妖しく震える。
もう二度と後戻りは出来ないのだと、そう実感させられる声だった。
*
こうして私は、無事に魔女との取引を成立させた。
それもかなりの好条件でだ。
「キルシュを幸せにしたいんでしょう? なら、性悪王妃を片づけただけじゃ駄目よ。王城に巣くう闇はそんなに単純じゃないもの。だから、キルシュを害しそうな人間を悉く排除してあげる。一気には無理だから、少しずつ減らしていきましょうね。もちろん、対価として体の一部を貰うわ」
「……体の一部……」
「大丈夫よ。見た目ではわからないように魔法で隠してあげるし、義手や義足もつけてあげるわ。痛みや体調不良は誤魔化せないけれど。そして最後に王妃を排除した暁には」
――私の命を魔女に捧げる。そういう話になった。
「安すぎない、ですか? 本当に約束を、ま、守ってくれるの?」
「あはははは! 命を貰うって話なのに、安すぎないかですって? 私、お前のそういうところ本当に好きだわ!」
「……だって。私よりも価値があるものは、この世に、た、たくさんあるでしょう?」
後になって追加で対価を求められたら堪らない。
まぎれもない本心を吐露すると、魔女は途端に破顔した。
「――やっぱり、お前は面白いわね!」
ゲラゲラ下品に笑う。
そして魔女は、ちらりと私の胸元に視線をやると――歪に口許を吊り上げた。
「とっても楽しくなりそう。しばらく退屈しないで済みそうね!」
結果、定期的に魔女のもとへ通うことになった。
キルシュを煩わせる人間をすべて排除するには、結構な時間がかかる。
それでも漫画のストーリーが始まる頃には間に合うはずだ。そんな気がしていた。
「……お嬢様……」
森から戻ってきた私を見て、護衛や丁稚は絶句していた。
髪が短くなっているから当然である。右目は――魔女に義眼を嵌めてもらったから、傍目ではわからないだろうけれど、それでも動きがぎこちないのは隠せない。
「お嬢様、アンタ――」
「これから定期的にここに来るわ」
気遣わしげな護衛を無視して、私は馬車に乗り込んだ。
たいして親しくもない相手に事情を話す必要なんてないだろう。
護衛は困惑していたものの、私が話す気がないとわかると、素直に従うつもりになったようだ。静かに動き出した馬車の中で、私はひとり遠くを見ていた。
右目を失い、視界は半分に減っていた。義眼を嵌めた頭蓋の奥が疼くように痛むものの、じゅうぶんな達成感のお陰で、それほど気にならなかった。
それからの私の人生は痛みと共にあった。
決して辛くはない。大好きな人が幸せになるために必要なものだったから。
魔女はしっかり仕事をしてくれた。
キルシュが住む塔で働く侍女が変死したのが最初だ。当時はそんなに騒ぎにならなかったが、数ヶ月おきに王妃の息が掛かった人間だけが次々と死んでいったら話は別である。
「王城の空気が最悪だ」
宰相である父がそう零すくらいだ。王妃はずいぶんと焦っているようだった。
けれど、あの女がいくら探してもそうそう犯人が見つかるはずはなかった。
相手は魔女だ。簡単に気取られるようなことはしない。
月日が経つごとに、王妃の周囲から人が減っていく。
そして私の体も不完全になっていった。
侍女がひとり命を落とすごとに手足の生爪が剥がされ、王妃と癒着していた財務大臣が心臓麻痺で死んだ時は、腎臓をひとつ失った。王妃の後ろ盾である公爵の売国行為が公になった時には、右手右足が義手義足にもなった。
魔女から貰った魔法薬で痛みを抑えているものの、とっくに普通に歩くこともままならなくなっている。最近は、松葉杖をついて歩くようになっていた。
父や母、そして姉はそんな私に何も言わない。むしろ腫れ物を触るような扱いを受けている。娘が頻繁に出かけているのに、彼らは咎めることもなかった。姉も気味悪そうに遠くから眺めてくるばかりで、私の事情に深く踏み入る気はないようだ。
(私なんてどうでもいいんだろうな)
以前から計画していた私の婚約が白紙になったと聞かされたのは、キルシュを助けてから数ヶ月ほど後の話だ。ショックは受けなかった。令息に殴りかかる令嬢と婚約を結びたい人間なんているはずがない。その後、新しく誰かと婚約を結ぶという話も出ていなかった。
たぶん、貴族の嫁としては不適格と判断されたのだろう。
そうなると、貴族令嬢である私の価値はなくなったも同然だ。父も母も貴族らしい考えを持つ人たちである。私なんかに心を砕く必要はないと判断したのかも知れない。
(その割に、鬘の手配は早かったなあ)
私に興味はないようなのに、何故か生活必需品についての用意は父も母も手を抜かなかった。魔の森にいった数日後には上質な鬘が届けられている。松葉杖だってそうだ。それに、最近はやけに、新しい装飾品やドレスが届けられるようになった。
「お、お母様。私、こんなにドレスは……」
「いいのよ! もらえるものはもらっておくの!!」
(……いったい、誰から?)
両親が何を考えているかわからない。
人付き合いは前世から苦手だった。だから、そのうち深く考えるのをやめた。
煌びやかなものは苦手である。贈り物のドレスなんかはクローゼットの奥に仕舞い込んでおく。私にはキルシュから貰ったネックレスがある。それだけで心は満たされていた。
――最初に、魔の森に足を踏み入れてからいくつか季節は巡り、もうすぐ冬を迎えようとしている。あれから三年。王城に残る王妃の関係者も残り少ない。
運命の日が、すぐそこに迫っていた。
*
その日、王都は雨だった。
鈍色の雲が空を覆い尽くし、みぞれ交じりの雨が辺りを濡らしている。
まだ昼間だというのに、どことなく昏い世界の中、私は教会にある鐘楼に上っていた。
そこから王城を一望できるからだ。
共も伴わず、不自由な手足を懸命に動かし、ひとりで最上階まで上りきった私は、弾んだ息を整えるのも忘れて、王城の方角を眺めた。そして、とあるものを視界に認めると、勢いよく手すりから身を乗り出した。
「――王妃が死んだ!」
城の天守閣から黒い喪章がはためいている。
王妃の訃報に伴って掲げられたそれは、雨にしとどに濡れて暗い影を城壁に落としていた。
けれど、私の心はどこまでも晴れやかだ。
王妃が死んだ! 王妃が死んだ! これでキルシュを傷つける人間はいなくなった!
(やりきった……!)
松葉杖をそこらに放り投げる。辺りに響いた乾いた音すらも祝福の鐘のように思えた。
ここのところの王妃は自室に引き籠もっていたらしい。彼女の影響力はすっかり失せて、王城の雰囲気が軽くなったと父が零していた。味方を殺していく犯人捜しに躍起になっていたせいか、彼女は例の漫画にあったような悪事を働く余裕はなかったようで、キルシュだけでなく、アストラも自由な空気の中で育ったようだ。
私の元まで聞こえてくる第二王子・キルシュの噂は素晴らしいものばかりである。
漫画で描かれていた冷酷さは成りを潜め、将来の王であるアストラを健気に支える様は賞賛の的になっていた。今は、とあるご令嬢――おそらく漫画の主人公――と一緒に、アストラの治世を万全にするために、各方面で大活躍しているという。
(よかった。本当によかった。これできっとキルシュは幸せになれる)
毒で死ぬこともない。彼なら自分なりの幸福を掴んでいくに違いない。
後は――対価を支払うのみだ。
(何て清々しいの)
この世に未練なんて欠片もなかった。
忌々しい人生を終えられるのがこんなにも嬉しいなんて。
(あ、ヒロインとキルシュが並ぶ姿くらいは見たかったかも)
そうは思うものの、別に構わないとも思う。
もし――自分が望まない光景が広がっていたら、もっと欲が出て来てしまいそうだったから。けれど、今の私には支払うべき対価がほとんど残っていない。王妃を排除できた。それだけで満足すべきだ。それが私の身の程。
「……魔の森へいかなくちゃ」
このくだらない人生に終止符を打とう。
(どうか、来世ではクソ忌々しい前世の記憶を忘れていますように)
――たぶん、この時の私は浮かれていた。
だから、背後に人が近づいていたのにも気づかなかったし――
「見つけた」
勢いよく振り返った時、視界に入ってきた銀色の赤色の輝きに目を奪われ、ろくに抵抗も出来ずに薬を嗅がされて、意識を喪ってしまったのだ。
*
(なんで。どうして。なんでなの。意味がわからない。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで――)
目が覚めた時、私は混乱の最中にいた。
目の前には荘厳なステンドガラス。説教台にむけて、空の長椅子がずらりと並ぶ。
どう見ても、ここは王城にある大聖堂だ。
私は美しい白いドレスを身に纏っていて、誰かに抱き抱えられていた。
男だ。正装を着た男。上質な仕立ては金を惜しみなく掛けて作られたものだとわかる。ステンドガラス越しに差し込む光に、柔らかな銀髪が透けていた。一分の隙もなく整った鼻梁。真っ赤に染まった瞳はどこまでも柔らかく、その視線は何故か私に注がれていた。
見間違うはずがない。キルシュだ。キルシュ・グランベルク――
それなのに、何故か違和感が拭えない。
「あ、起きた」
その時、彼が浮かべた笑顔はどこまでも無邪気で、それでいてどこにも険がなかった。
(漫画の中では常に無表情だったのに)
彼の寂しそうな横顔が好きだった。なのに、目の前のキルシュはどこまでも朗らかだ。
顔は同じ。なのに、この人は――本当にキルシュなのだろうか?
(そうか。彼はキルシュ・グランベルクであって、キルシュ・グランベルクではない)
私が介入したことによって、変わってしまった――誰か、だ。
そんな彼がどうして私なんかを抱き抱えているのか。
「なっ……なんで」
意味がわからなかった。慌てて彼の腕の中から逃れようともがくものの、彼は決して私を逃さなかった。思いのほか強い力で押しとどめられて、泣きそうになる。長い前髪の間から睨み付けた私とは対照的に、キルシュはとても楽しそうだった。
「今日は僕たちの婚約式だよ」
「えっ……えっ?」
目を白黒させている私に、彼はどこまでも笑顔だった。
「王妃が死んだ記念すべき日だからね。ほんの少し不謹慎だけど、これほど相応しい日はないと思うんだ。君も賛成してくれるだろ?」
「……い、意味が、わか、わからな……」
「あはは。そんな戸惑うこと? 宰相の娘と第二王子の婚約だよ。家格だって釣り合っているし、別に不思議な話じゃない。それに――王妃を排除してくれたのは君だ。自身が持てるものをすべて捧げて、僕のために努力してくれた。君の犠牲に報いたい。そう思うのは当然だろう?」
そして綺麗だよ、と彼は笑った。知らぬ間に真っ白なドレスに着替えさせられていることに気がついて、息を呑んだ私にキルシュは笑顔のままで続けた。
「今日という日ほど、僕たちが幸せになるのに打ってつけな日はないよ」
(なんで魔女のことを知られているの)
ぞわぞわと全身に悪寒が走る。
彼とは一切接触を断っていたはずなのに、どうして知られてしまったのか。
「君自身に婚約の件を伝えなかったことについては謝るよ。そうしなければ、また逃げられてしまうと思ったから。僕も必死だったんだ」
顔色をなくした私とは対照的にキルシュはやたら上機嫌だった。
手袋に包まれたしなやかな指先が、私の胸元で光る赤いネックレスを弄んでいる。
彼の瞳が私の肌の表面を彷徨っていた。こわごわと見上げれば、とてつもなく整った顔に昏い陰が落ちているのに気がつく。表情は朗らかなのに、赤い瞳に光は宿っていない。そこに漫画で見た面影を見つけた気がして、ほんの少し感情が浮き立った。
(……ち、違う、こんなこと考えている場合じゃない)
一刻も早く、魔女に魂を捧げたかった。それが私の願いだから――
できるだけ早く、この異常事態から脱しなければならない。逃げなければ。
(でも、この不自由な体じゃ)
無事に逃げ出せるだろうかと不安になっていると、体の異変に気がついた。
おかしい。右の手足が普通に動く。それに、年がら年中感じていた貧血感も、剥がされたせいで歪んでしまった爪の痛みもなくなっている。
恐る恐る目の前にかざした右手は滑らかで、魔女が用意してくれた義手とは似ても似つかなかった。目を丸くしている私に、キルシュはクツクツと喉の奥で笑う。
私の手を、二回りも大きな彼のそれで掴まえると、親指の腹で擽るように撫でた。
「……ああ、それ? 魔女から取り返しておいたよ」
「え」
「魔女と取引をしてね。心配しないで。ちゃんと必要な犠牲は払ったから」
(何を捧げたの)
正直、恐ろしくて聞けなかった。彼の右手。手袋越しに肌に触れた感触が少し硬質な気がしたし、両の瞳の色がわずかに違う気もする。
けれど、それに気づいてしまったら。
自分が犯した取り返しの付かない間違いを思い知ってしまう気がして――
「か、帰ります……」
勢いよく目をそらした。ここにいてはいけない。早く魔女のもとにいこう。そしてこのくだらない人生を終わらせるべきだ。
「……君は相変わらずだね。けっして僕に近づこうとしない」
――けれど、私の願いはついぞ叶わなかった。
底冷えするような声が鼓膜を擽って、動けなくなってしまったからだ。
キルシュの瞳に――隠しきれない濃厚な闇を見つけてしまったからだった。
「君が僕を助けてくれた後のことを覚えている? 君が次に目覚めた時、あの邸に僕もいたんだよ。すごく感謝していたから、直接お礼を言いたかったんだ。扉越しに呼ばれるのをソワソワしながら待っていた。だって、王城で……いや、それまでの人生で、僕に味方してくれる人間なんていなかったからね。初めて他人に庇われた僕は嬉しくて嬉しくて――君なら理解者になってくれるんじゃないかって、愚かにも期待してしまっていたんだよ。なのに」
ほの暗い瞳で私を見下ろした彼は、どこか泣きそうな顔をしていた。
「なのに、君は拒絶した。会うことすら許してくれなかった。僕の幸せだけが望みだと口にしながら、会いたいという僕の願いは叶えてくれない。それがどれだけ僕を傷つけたか――君は理解出来る? 僕を幸せにしたいだなんて、口ではなんとでも言える。身を挺して自分を助けてくれたあの子も、実は他の人間と同じだった。僕のことが嫌いなんだって思い知らされた僕の絶望が!」
「キ、キルシュさ……」
「なのにだよ? 傷を癒やした君は僕のために動き出した!」
一転してキルシュの表情が明るくなる。
頬を紅く染めた彼は、ひどく歪んだ笑みを浮かべていた。
「王妃を殺そうと魔女に犠牲を捧げたんだ。ああ! 何で知ってるのかって? 君の護衛。彼は僕が雇った人間だからだよ。監視させていたんだ。君が王妃の手先である可能性もあったからね――場合によっては排除しようと思って。でも、違ったんだ。君の愛は本物だった!! 自分を犠牲にしてまで僕を守ろうとしてくれた!!!!!」
(……たぶん、私は勘違いしていた)
私は絶望的な気分でいた。
漫画登場時、彼は精神的に追い詰められていた。心を凍てつかせて、他人の命を奪うことすらも厭わない人間になっている。それは、漫画スタート時まで王妃の脅威に晒されていたから。絶え間なく命を狙われて、彼自身が追い詰められていたから――そう考えていたのだ。だから王妃の影響さえなくなれば、彼が幸福になると思い込んでいた。
――けれど、実際は違ったのだろう。
あのお茶会の時点で、キルシュは既に壊れていたのだ。
愛情に飢えて飢えて飢えて飢えて飢えて――
誰かに認めてほしくて。慰めてほしくて。手を伸ばしてほしくて仕方がなかった。
化け物令嬢なんて呼ばれている人間が気まぐれで助けただけで、執着してしまうくらいには限界だったのだ。
(間違えた。間違えた。間違えた。間違えた。間違えた。間違えた。間違えた。間違えた。間違えた。間違えた。間違えた。間違えた。間違えた。間違えた。間違えた。間違えた。間違えた。間違えた。間違えた。間違えた。間違えた)
私は彼に幸せになってほしかった。もうひとりのヒーロー、アストラみたいに健やかに育ってほしかったのだ。そこに私は必要ない。必要なはずがない。
なのに、私のせいで彼は歪に成長した。
漫画の彼なんて比べものにならない。私なんかに執着してしまうくらいに、猛烈に病んでいる。
「アキ。君は僕が好きだろ?」
キルシュは私の右手に頬ずりすると、うっとりと目を細めた。
「僕も好き。だから婚約しよう。と言っても、三年前には家同士で婚約を結んでいたけどね」
「だ、だから婚約がなくなって……」
「当然でしょ。君の隣にいるべきなのは僕だからね。贈り物もしたでしょ? このネックレス以外、何ひとつとして身につけてはくれなかったけれど」
それに、婚約はアキにとっても都合がよかったはずだ――
彼は続けてこう語った。
「君の両親に、自由にさせてやってくれと頼んだからね。誰にも文句を言わなかっただろう? 髪が短くなっても、体が不自由になっても、好き勝手外出しても――君が僕の婚約者だったからだ。嬉しい? 嬉しいよね? よかったね。楽しかった?」
(どうしよう)
私はひどく動揺していた。心臓が破裂しそうなほどに鳴っているのに、なぜだか凍えそうなくらいに冷たい。とある事実に気づいてしまったからだ。
(死ねなくなってしまった)
私の願いはキルシュが幸せになること。
だけど、こんなクソみたいな私と結婚して、彼が幸せになるはずがなかった。
そもそも――
私にベタ惚れするキルシュなんて、とんだ〝解釈違い〟だ。
絶対にあり得ないし、それは〝間違った未来〟だ。
(生きなくちゃ。生きて、私以外と彼が幸せになる姿を見届けなくちゃ)
なんてことだろう。あんなに死にたかったのに。
死ねない理由が出来てしまった。
「愛してる。アキ。死ぬまで一緒にいよう。君は僕のものだよ」
混乱のあまり、推しであるはずのキルシュの愛の言葉すら、頭に入ってこない。
(どうやって魔女の対価を支払おう)
彼の腕の中でひたすら途方に暮れる。
解決方法なんて、まるで思いつかなかった。
*
――この時の私は、ちっとも想像していなかったのだ。
この先、王妃殺害の対価だと魔女にとんでもない試練を課されることも。
『また、僕を捨てるの?』
目の光を失ったキルシュに監禁紛いのことをされて、命懸けで逃げ出すことも。追っ手を放たれることも、結局逃げ切れなくて、彼に捕まってしまうことも。
想像以上に愛情不足なキルシュに、なんだかんだ絆されていく未来も――
まるで想像できないでいたのである。
これは、ド陰キャな私と当て馬でヤンデレ気味な彼とのプロローグ。
私たちが幸せになれるのか――未来はまだわからない。
ここから「推しに認知されたくないオタク(でも推しには幸せになってほしい)」と「ファンにズブズブに嵌まって抜け出せなくなってしまった(無駄に)ハイスペック男子」のおっかけっこが始まる……!とか、始まらないとか。
陰キャなヒロインが書きたかった。
前世でコミュ障だと、転生後もこれくらいどんよりしてそうだよなあと思って。
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