婚約破棄の痛みを消すため記憶を売り続けた令嬢ですが、私がゴミと思って捨てた記憶を、その男だけがずっと持ち続けていました
記憶を売りに行ったのは、婚約が破れた翌々日のことだった。
灰街は昼でも薄暗い。
貴族街と下町の間に挟まれたその一角は、石畳が古く、看板の文字がどれも少し滲んでいる。
路地に入ると、どこかの家から煮込み料理の匂いがして、その後すぐに薬草の鋭い臭いに上書きされた。
「アストール商会」の扉は錆びていて、押すと低い軋みが鳴った。
店の中は思ったより静かだった。
棚には同じ大きさのガラス瓶がいくつも並んでいる。
中身は無色なのに、なぜか光って見えた。
瓶と瓶の間に薄く積もった埃がある。
来る人間がそれほど多くないのか、あるいは商人が掃除をしないのか、どちらかだろうと思った。
「何年分、売りたい?」
カウンターの奥には見知らぬ男がいた。
黒髪で、深い色の目をしていて、感情の読めない顔をしていた。
指に銀の指輪をつけている。声は低く、無駄がない。
「二年分です」とセラは答えた。
「婚約していた期間の記憶を、全部」
男——レイン・アストールというらしい——はしばらくセラを見てから、何かを書き付けた。手続きは短かった。
彼の指先がこめかみの近くで止まる。
何か静かな声が聞こえたと思ったら、瓶の中に光が流れ込んだ。
セラは、体がじわりと軽くなっていくのを感じた。
「これで終わりだ、これは二年分の記憶の代金だ」
そう言って彼は金貨がたくさん入った袋を手渡した。
二年分の記憶がなくなったのに、悲しくなかった。
失ったものの形が分からない。
ただ、肩から何かが降りたような感覚だけがあった。
セラは挨拶を言って店を出た。
扉が閉まる直前、レインが何か言ったような気がした。
でも聞き取れなかった。
一週間後、セラは古書店の前で立ち止まっていた。
なぜここが好きなのか分からない。来たことがあるかも分からない。
でも扉を開けると、懐かしいと感じた。古い紙と木の匂いがする。
本棚の間を歩いていると、棚の向こうに人影があった。
その男は記憶商人のレインだった。
「レインさん、奇遇ですね」
「そうだな」と彼は言った。
「本が好きなんですか」
「まあ」
話題が続かないかと思ったら、セラが手に取った本を見て、レインが口を開いた。
「それは途中から話が変わる。最初の三章と後の三章で、別の作品みたいになるんだ」
「読んだことがあるんですか」
「客に勧めてもらった」
セラはその本を買った。
家に帰って読んでみると、確かにそうだった。
最初の三章は静かな話で、後の三章は全然違うテンポになっていた。どちらも好きだと思った。
なぜかその理由が思い出せなかった。どちらを読んでいても、懐かしかった。
翌週、花市場でレインを見かけた。
「また奇遇ですね」
「そうだな」
セラが白い小さな花を手に取って「これは何ですか」と聞くと、レインは少し間を置いてから「スノードロップだ。春の最初に咲く。雪解けを待たずに地面を突き破って出てくる」と答えた。
「強い花ですね」
「頑固なだけだ」
なぜかセラは笑った。
何かを思い出したような気がしたが、何かが分からなかった。
その後、雨が降りかけた。
傘を持っていないことに気づいた瞬間、レインが黙って後ろから傘を差し出した。
「どうして……」
「持ってこないと思っていたから」
「なぜそれを知っているんですか」
レインはしばらく黙った。
それから「聞いたことがある」とだけ言った。
誰に、とは聞けなかった。代わりに傘を受け取った。
手が触れそうになって、レインがわずかに指をずらした。
その動作が、どこか丁寧だと思った。
なぜ知っているのか、答えは出なかった。でも「帰れ」と言われた。
声は静かだった。それなのに、なぜか安心した。
さらにその翌週、レインが行きつけらしい小さな喫茶店で出くわした。
席に着こうとすると、彼がすでに窓際の席にいた。
セラを見ても驚かなかった。それどころか、隣の椅子から荷物を退けた。
「座れ」
「……あなたは毎回、私が来るのを知っているんですか」
「知らない」
「でも」
「知らないが、来ると思っていた」
その違いが何なのか、セラには分からなかった。
運ばれてきた紅茶は、セラが頼もうとしていたものと同じ種類だった。
頼んだ覚えはなかった。でも聞かなかった。
この疑問を聞いてしまうと、この奇妙な時間が終わる気がした。
窓の外を、雨粒が流れていった。
レインは紅茶を飲みながら何も言わなかった。
セラも何も言わなかった。
ただ、静かだった。こんなに静かなのに、息がしやすかった。
誰かと同じ席にいてこんなふうに感じたのは、久しぶりな気がした。
いや…久しぶり、と感じること自体が奇妙だった。
最近のことはちゃんと覚えているのに、もう少し前のことが、どこかぼんやりしている。
別れ際、レインが「明日、本が入る」と言った。
「……また来てもいいですか」
「来るかどうかはお前が決める。俺には関係ない」
でも彼は、棚の位置を教えてくれた。
ある朝、押し入れの奥から古い日記を見つけた。
自分の筆跡だった。でもどうしても中身が思い出せない。
読み始めると、知らない出来事が並んでいた。
レナードという名前の男との記録が大半で——誰だろう、とセラは思った——最後のページだけ毛色が違っていた。
「灰街に行った。記憶商人の店。黒髪の男が対応してくれた。名前はレイン・アストールというらしい。愛想はないけど手続きは丁寧だった。帰り際に何か言ったような気がするけど聞き取れなかった。また行くかもしれない」
次のページを探した。でもそこで日記は終わっていた。
胃の奥が、じわりと冷えた。
また行くかもしれない、と書いてある。
ということは、あの店に行ったのは一度ではないのかもしれない。
古書店でも、花市場でも、喫茶店でも——レインは毎回、セラが知らないはずのことを知っていた。
持ってこないと思っていた傘。頼もうとしていた紅茶の種類。読もうとしていた本のこと。
セラは日記を胸に抱えたまま、しばらく動けなかった。
自分が忘れていることを、誰かが覚えている。自分がゴミだと思って捨てたものを、誰かが持っている。
それはどういうことなのか、うまく言葉にできなかった。怒るべきなのか、安心するべきなのか、それさえ分からなかった。
でも確かめなければならない、とは思った。
セラはずっと、記憶を売ることが「整理」だと思っていた。
要らないものを処分するだけだと。重い荷物を下ろすだけだと。
でも日記を読んで、初めて気づいた。下ろしたはずの荷物が、誰かの手に渡っていたとしたら。
その誰かが、荷物を大切に抱えていたとしたら。それは本当に、「処分」と呼べるのだろうか。
部屋の窓から、灰街の方角が見えた。石畳の向こうに、錆びた看板がある。
その午後、灰街に向かった。
扉を押すと鈴が鳴った。
レインはいつも通りカウンターにいた。
セラが入ってきたのを見て、何も言わなかった。
「私に、何回会いましたか」
沈黙。
「教えてください」
レインはしばらくセラを見ていた。それから静かに言った。
「五回だ」
セラは棚を見た。
「セラ・ヴェルナー」と書かれたラベルのついた瓶が、五本並んでいた。
自分の記憶が、全部ここにある。
「なぜ教えてくれなかったんですか」
「お前が聞かなかったからだ」
「そういう問題じゃないです」
声が少し震えた。喉の奥に何かが詰まっている感じがした。
レインはカウンターから出てきて、棚の前に立ち、五本のうち一番古い瓶を手に取った。
「見るか」
「……何が入っているんですか」
「俺の記憶だ。お前が来た日の」
意味が分からなかった。でもセラは頷いた。
瓶を開けると光が散って、映像が流れた。
レインの視点だった。
セラが映っていた。花市場で白い花を手に取っているセラが。
古書店で本の背表紙を真剣に見比べているセラが。
雨の中で傘を忘れたことに気づいて困った顔をしているセラが。
喫茶店で紅茶を両手で包むようにして飲んでいるセラが。
どれも、セラが売った記憶だった。
自分でゴミだと思って手放した瞬間ばかりが、ここにあった。
「これは……私が捨てた記憶ですね」
「お前が要らないと言ったものだ」
「なぜ持っているんですか」
レインはすぐに答えなかった。
瓶を静かに片付けてから、ゆっくり言った。
「捨てさせたくなかった」
喉が、小さく詰まった。
「お前は毎回、自分の記憶をゴミみたいに持ってきた。この瞬間は要らない、この感情は邪魔だ、と言って。花の名前を知った日も。雨の傘を受け取った日も。静かな喫茶店で誰かの隣に座った日も。全部、ゴミだと言って置いていった」
「でも、あなたが買ったんでしょう」
「そうだ」
「どうして」
「捨てられるくらいなら、俺が持つと思った」
セラは黙った。言葉が出なかった。
自分がゴミだと思ったものを、この男は全部抱えていた。
五回分。何年分か分からない時間を、ずっと。
「返してもらえますか」とセラは言った。「全部」
「痛いぞ。一度に返すと」
「構いません」
レインはしばらくセラを見た。
何か言いかけて、やめた。それから「座れ」と言った。
一本目を取り戻したとき、花市場の雑踏の音が蘇った。
スノードロップの白さ。「強い花ですね」と言ったら「頑固なだけだ」と返ってきた声。
胸の奥がじんと温かくなった。こんなに些細なことが、あんなに温かかったのか、と思った。
二本目を取り戻したとき、古書店の匂いが戻ってきた。本棚の間で出会ったこと。「知っている」と言われて首を傾けたこと。
三本目には喫茶店の紅茶の香りがあった。窓から差す午後の光と、荷物を退けた椅子のこと。「また来てもいいですか」と聞いた自分の声が、思ったより小さかったこと。
四本目を取り戻したとき、体の奥から何かが押し寄せてきた。胸の内側が締まって、息が浅くなった。痛みではなかった。でも痛みに似た何かだった。
五本目を割ったとき、映像の中のレインと目が合った。
最初の日、セラが扉を閉めた後のレインの顔だった。誰もいなくなった店で、棚の前に立って、新しい瓶を眺めていた。「セラ・ヴェルナー」のラベルが貼ってあった。
映像の中のレインが、小さく息をついた。
また来た、と言った。
声が、安堵していた。
セラの目の奥が熱くなった。半年間、一度も泣かなかった。
記憶を売るたびに軽くなって、軽くなるたびに何かが薄れて、それでも泣かなかった。なのに今、灰街の薄暗い店の中で、そうなりそうになっていた。
「あなたは……私が来るたびに、ほっとしていたんですね」
「生きていることを確認していた」
「それを……執着と言うんじゃないですか」
レインは少し黙った。
「そうだな」と言った。否定しなかった。
セラは笑った。体の奥にあった何かがゆっくり緩む感じがした。
長い時間かかって、やっと肩が下りた気がした。
「ねえ、レイン」
「何だ」
「私の記憶の中で、あなたが一番好きなのはどれですか」
レインはしばらく黙った。
それから棚を見て、今割った五本があった場所を指差した。
「市場で、迷子の子どもに自分のパンを半分あげていた日」
「それ、売ったんですか、私」
「お前が『こんな恥ずかしいことは思い出したくない』と言って持ってきた」
「……なんで恥ずかしいんですか、それ」
「知らん。お前がそう言った」
セラはもう一度笑った。
確かに、情けない顔をした記憶は手放したくなる。
でも——それをこの男は、五本の中で一番好きだと言った。
「じゃあ、これからは私も覚えます」とセラは言った。
レインがわずかに目を細めた。口の端が少し上がった。長くここにいる間で、初めて見た彼の笑顔だった。
「もう売りに来るな」
「来ません。来る理由がなくなりました」
それから少し考えて、付け加えた。
「でも——別の理由なら、来てもいいですか」
レインはしばらくセラを見た。
「ああ」と言った。
その声が、また安堵していた。今度はセラにも、聞き取れた。
セラは棚に目をやった。五本分の空いたスペースがある。
これからここに何が並ぶのか、今は分からない。
でも、少なくとも自分の名前のラベルではないはずだ、と思った。
「一つだけ聞かせてください」
「何だ」
「扉を閉めた後、毎回、あなたは何て言っていたんですか。聞き取れなくて」
レインは少し黙った。それから、静かに答えた。
「また来い」
セラは目を細めた。五回分の、その言葉が、今になって全部届いた気がした。
窓の外、灰街の石畳の上を、夕暮れの光が斜めに差していた。
錆びた看板が、橙色に染まっている。こんなに綺麗な場所だと、今日初めて気づいた。いや、気づいたことがあったのかもしれない。
でも売ってしまって、忘れていただけで。
もう売らない、とセラは思った。ここで見たものは、全部自分で抱えていく。
【完】




