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婚約破棄の痛みを消すため記憶を売り続けた令嬢ですが、私がゴミと思って捨てた記憶を、その男だけがずっと持ち続けていました

作者: 桜木ひより
掲載日:2026/06/29

記憶を売りに行ったのは、婚約が破れた翌々日のことだった。


灰街は昼でも薄暗い。


貴族街と下町の間に挟まれたその一角は、石畳が古く、看板の文字がどれも少し滲んでいる。


路地に入ると、どこかの家から煮込み料理の匂いがして、その後すぐに薬草の鋭い臭いに上書きされた。


「アストール商会」の扉は錆びていて、押すと低い軋みが鳴った。


店の中は思ったより静かだった。


棚には同じ大きさのガラス瓶がいくつも並んでいる。

中身は無色なのに、なぜか光って見えた。


瓶と瓶の間に薄く積もった埃がある。


来る人間がそれほど多くないのか、あるいは商人が掃除をしないのか、どちらかだろうと思った。


「何年分、売りたい?」


カウンターの奥には見知らぬ男がいた。


黒髪で、深い色の目をしていて、感情の読めない顔をしていた。

指に銀の指輪をつけている。声は低く、無駄がない。


「二年分です」とセラは答えた。


「婚約していた期間の記憶を、全部」


男——レイン・アストールというらしい——はしばらくセラを見てから、何かを書き付けた。手続きは短かった。


彼の指先がこめかみの近くで止まる。

何か静かな声が聞こえたと思ったら、瓶の中に光が流れ込んだ。


セラは、体がじわりと軽くなっていくのを感じた。


「これで終わりだ、これは二年分の記憶の代金だ」


そう言って彼は金貨がたくさん入った袋を手渡した。


二年分の記憶がなくなったのに、悲しくなかった。

失ったものの形が分からない。


ただ、肩から何かが降りたような感覚だけがあった。


セラは挨拶を言って店を出た。


扉が閉まる直前、レインが何か言ったような気がした。

でも聞き取れなかった。



一週間後、セラは古書店の前で立ち止まっていた。


なぜここが好きなのか分からない。来たことがあるかも分からない。


でも扉を開けると、懐かしいと感じた。古い紙と木の匂いがする。


本棚の間を歩いていると、棚の向こうに人影があった。



その男は記憶商人のレインだった。


「レインさん、奇遇ですね」


「そうだな」と彼は言った。


「本が好きなんですか」


「まあ」


話題が続かないかと思ったら、セラが手に取った本を見て、レインが口を開いた。


「それは途中から話が変わる。最初の三章と後の三章で、別の作品みたいになるんだ」


「読んだことがあるんですか」


「客に勧めてもらった」


セラはその本を買った。

家に帰って読んでみると、確かにそうだった。


最初の三章は静かな話で、後の三章は全然違うテンポになっていた。どちらも好きだと思った。


なぜかその理由が思い出せなかった。どちらを読んでいても、懐かしかった。


翌週、花市場でレインを見かけた。


「また奇遇ですね」


「そうだな」


セラが白い小さな花を手に取って「これは何ですか」と聞くと、レインは少し間を置いてから「スノードロップだ。春の最初に咲く。雪解けを待たずに地面を突き破って出てくる」と答えた。


「強い花ですね」


「頑固なだけだ」


なぜかセラは笑った。

何かを思い出したような気がしたが、何かが分からなかった。


その後、雨が降りかけた。

傘を持っていないことに気づいた瞬間、レインが黙って後ろから傘を差し出した。


「どうして……」


「持ってこないと思っていたから」


「なぜそれを知っているんですか」


レインはしばらく黙った。

それから「聞いたことがある」とだけ言った。


誰に、とは聞けなかった。代わりに傘を受け取った。


手が触れそうになって、レインがわずかに指をずらした。

その動作が、どこか丁寧だと思った。


なぜ知っているのか、答えは出なかった。でも「帰れ」と言われた。


声は静かだった。それなのに、なぜか安心した。


さらにその翌週、レインが行きつけらしい小さな喫茶店で出くわした。


席に着こうとすると、彼がすでに窓際の席にいた。

セラを見ても驚かなかった。それどころか、隣の椅子から荷物を退けた。


「座れ」


「……あなたは毎回、私が来るのを知っているんですか」


「知らない」


「でも」


「知らないが、来ると思っていた」


その違いが何なのか、セラには分からなかった。


運ばれてきた紅茶は、セラが頼もうとしていたものと同じ種類だった。


頼んだ覚えはなかった。でも聞かなかった。

この疑問を聞いてしまうと、この奇妙な時間が終わる気がした。


窓の外を、雨粒が流れていった。


レインは紅茶を飲みながら何も言わなかった。


セラも何も言わなかった。


ただ、静かだった。こんなに静かなのに、息がしやすかった。



誰かと同じ席にいてこんなふうに感じたのは、久しぶりな気がした。


いや…久しぶり、と感じること自体が奇妙だった。


最近のことはちゃんと覚えているのに、もう少し前のことが、どこかぼんやりしている。



別れ際、レインが「明日、本が入る」と言った。



「……また来てもいいですか」


「来るかどうかはお前が決める。俺には関係ない」




でも彼は、棚の位置を教えてくれた。





ある朝、押し入れの奥から古い日記を見つけた。


自分の筆跡だった。でもどうしても中身が思い出せない。


読み始めると、知らない出来事が並んでいた。


レナードという名前の男との記録が大半で——誰だろう、とセラは思った——最後のページだけ毛色が違っていた。


「灰街に行った。記憶商人の店。黒髪の男が対応してくれた。名前はレイン・アストールというらしい。愛想はないけど手続きは丁寧だった。帰り際に何か言ったような気がするけど聞き取れなかった。また行くかもしれない」


次のページを探した。でもそこで日記は終わっていた。


胃の奥が、じわりと冷えた。


また行くかもしれない、と書いてある。


ということは、あの店に行ったのは一度ではないのかもしれない。


古書店でも、花市場でも、喫茶店でも——レインは毎回、セラが知らないはずのことを知っていた。


持ってこないと思っていた傘。頼もうとしていた紅茶の種類。読もうとしていた本のこと。


セラは日記を胸に抱えたまま、しばらく動けなかった。


自分が忘れていることを、誰かが覚えている。自分がゴミだと思って捨てたものを、誰かが持っている。


それはどういうことなのか、うまく言葉にできなかった。怒るべきなのか、安心するべきなのか、それさえ分からなかった。


でも確かめなければならない、とは思った。



セラはずっと、記憶を売ることが「整理」だと思っていた。


要らないものを処分するだけだと。重い荷物を下ろすだけだと。


でも日記を読んで、初めて気づいた。下ろしたはずの荷物が、誰かの手に渡っていたとしたら。

その誰かが、荷物を大切に抱えていたとしたら。それは本当に、「処分」と呼べるのだろうか。



部屋の窓から、灰街の方角が見えた。石畳の向こうに、錆びた看板がある。


その午後、灰街に向かった。


扉を押すと鈴が鳴った。

レインはいつも通りカウンターにいた。

セラが入ってきたのを見て、何も言わなかった。


「私に、何回会いましたか」


沈黙。


「教えてください」


レインはしばらくセラを見ていた。それから静かに言った。


「五回だ」


セラは棚を見た。

「セラ・ヴェルナー」と書かれたラベルのついた瓶が、五本並んでいた。


自分の記憶が、全部ここにある。


「なぜ教えてくれなかったんですか」


「お前が聞かなかったからだ」


「そういう問題じゃないです」


声が少し震えた。喉の奥に何かが詰まっている感じがした。


レインはカウンターから出てきて、棚の前に立ち、五本のうち一番古い瓶を手に取った。


「見るか」


「……何が入っているんですか」


「俺の記憶だ。お前が来た日の」


意味が分からなかった。でもセラは頷いた。


瓶を開けると光が散って、映像が流れた。


レインの視点だった。


セラが映っていた。花市場で白い花を手に取っているセラが。


古書店で本の背表紙を真剣に見比べているセラが。


雨の中で傘を忘れたことに気づいて困った顔をしているセラが。

喫茶店で紅茶を両手で包むようにして飲んでいるセラが。


どれも、セラが売った記憶だった。

自分でゴミだと思って手放した瞬間ばかりが、ここにあった。


「これは……私が捨てた記憶ですね」


「お前が要らないと言ったものだ」


「なぜ持っているんですか」


レインはすぐに答えなかった。

瓶を静かに片付けてから、ゆっくり言った。


「捨てさせたくなかった」


喉が、小さく詰まった。


「お前は毎回、自分の記憶をゴミみたいに持ってきた。この瞬間は要らない、この感情は邪魔だ、と言って。花の名前を知った日も。雨の傘を受け取った日も。静かな喫茶店で誰かの隣に座った日も。全部、ゴミだと言って置いていった」


「でも、あなたが買ったんでしょう」


「そうだ」


「どうして」


「捨てられるくらいなら、俺が持つと思った」


セラは黙った。言葉が出なかった。


自分がゴミだと思ったものを、この男は全部抱えていた。

五回分。何年分か分からない時間を、ずっと。


「返してもらえますか」とセラは言った。「全部」


「痛いぞ。一度に返すと」


「構いません」


レインはしばらくセラを見た。

何か言いかけて、やめた。それから「座れ」と言った。




一本目を取り戻したとき、花市場の雑踏の音が蘇った。

スノードロップの白さ。「強い花ですね」と言ったら「頑固なだけだ」と返ってきた声。


胸の奥がじんと温かくなった。こんなに些細なことが、あんなに温かかったのか、と思った。



二本目を取り戻したとき、古書店の匂いが戻ってきた。本棚の間で出会ったこと。「知っている」と言われて首を傾けたこと。



三本目には喫茶店の紅茶の香りがあった。窓から差す午後の光と、荷物を退けた椅子のこと。「また来てもいいですか」と聞いた自分の声が、思ったより小さかったこと。


四本目を取り戻したとき、体の奥から何かが押し寄せてきた。胸の内側が締まって、息が浅くなった。痛みではなかった。でも痛みに似た何かだった。


五本目を割ったとき、映像の中のレインと目が合った。


最初の日、セラが扉を閉めた後のレインの顔だった。誰もいなくなった店で、棚の前に立って、新しい瓶を眺めていた。「セラ・ヴェルナー」のラベルが貼ってあった。


映像の中のレインが、小さく息をついた。


また来た、と言った。


声が、安堵していた。



セラの目の奥が熱くなった。半年間、一度も泣かなかった。


記憶を売るたびに軽くなって、軽くなるたびに何かが薄れて、それでも泣かなかった。なのに今、灰街の薄暗い店の中で、そうなりそうになっていた。


「あなたは……私が来るたびに、ほっとしていたんですね」


「生きていることを確認していた」


「それを……執着と言うんじゃないですか」


レインは少し黙った。


「そうだな」と言った。否定しなかった。


セラは笑った。体の奥にあった何かがゆっくり緩む感じがした。

長い時間かかって、やっと肩が下りた気がした。


「ねえ、レイン」


「何だ」


「私の記憶の中で、あなたが一番好きなのはどれですか」


レインはしばらく黙った。

それから棚を見て、今割った五本があった場所を指差した。


「市場で、迷子の子どもに自分のパンを半分あげていた日」


「それ、売ったんですか、私」


「お前が『こんな恥ずかしいことは思い出したくない』と言って持ってきた」


「……なんで恥ずかしいんですか、それ」


「知らん。お前がそう言った」


セラはもう一度笑った。

確かに、情けない顔をした記憶は手放したくなる。

でも——それをこの男は、五本の中で一番好きだと言った。


「じゃあ、これからは私も覚えます」とセラは言った。


レインがわずかに目を細めた。口の端が少し上がった。長くここにいる間で、初めて見た彼の笑顔だった。


「もう売りに来るな」


「来ません。来る理由がなくなりました」


それから少し考えて、付け加えた。


「でも——別の理由なら、来てもいいですか」


レインはしばらくセラを見た。


「ああ」と言った。


その声が、また安堵していた。今度はセラにも、聞き取れた。


セラは棚に目をやった。五本分の空いたスペースがある。


これからここに何が並ぶのか、今は分からない。

でも、少なくとも自分の名前のラベルではないはずだ、と思った。


「一つだけ聞かせてください」


「何だ」


「扉を閉めた後、毎回、あなたは何て言っていたんですか。聞き取れなくて」


レインは少し黙った。それから、静かに答えた。


「また来い」


セラは目を細めた。五回分の、その言葉が、今になって全部届いた気がした。


窓の外、灰街の石畳の上を、夕暮れの光が斜めに差していた。


錆びた看板が、橙色に染まっている。こんなに綺麗な場所だと、今日初めて気づいた。いや、気づいたことがあったのかもしれない。


でも売ってしまって、忘れていただけで。


もう売らない、とセラは思った。ここで見たものは、全部自分で抱えていく。


【完】

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