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婚約破棄したいのに、父親不明の赤ちゃんができてました。  作者: 雪野耳子


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1/1

第1話 妊娠、してました。嘘でしょ?

 その朝、私はまだ知らなかった。

 すでに自分の中に、守るべき命が宿っていることを。


 朝の光は、いつもと同じはずだった。

 薄絹のカーテンを透かして差し込む金色の光が、天蓋付きの寝台の縁をやわらかく縁取る。

 磨き上げられた床板には光の帯がいくつも落ち、香木で作られた家具からはほのかな甘い香りが立ちのぼっていた。

 花瓶に活けられた白い小花が、風に揺れてかすかに葉擦れの音を立てる。

 マーレット公爵家の令嬢の寝室として、何ひとつ不足のない、完璧に整えられた空間。

 ――なのに。

 その中心に横たわるリゼット・マーレットには、その心地よさを味わう余裕など、ひとかけらもなかった。

 胸の奥が、むかむかする。

 喉のあたりが熱く、何かがこみあげてくるような不快感が消えない。

 胃のあたりは重く沈み、身体全体に妙な倦怠感がまとわりついている。

 寝台から少し身を起こそうとしただけで、視界がぐらりと揺れた。

(……気持ち悪……)

 心の中で小さく呻く。

 二日前から続いていた体調不良は、今朝になってはっきりとした『異常』に変わっていた。

「お嬢様、お顔の色が……っ。やはり、すぐに医師をお呼びしましょう」

 枕元で、ミーファの声が震えた。

 もう一人の侍女レイシャも、心配そうに身を乗り出してくる。

「レイシャ、お水を」

「はいっ、すぐに」

 両脇を支えられながら、リゼットはなんとか上体を起こした。

 握られた自分の指先がやけに冷たいことに気づく。

 背中にはじっとりと汗が滲んでいるのに、体の芯は妙に冷えている。

 こんな感覚は初めてだ。

 ――いや。

 『リゼット』としては初めてだ。

(……これは、さすがにおかしい。胃がムカムカして、息苦しい。二日酔いっぽいけど、お酒なんて飲んでないし……)

 思考しようとするたびに、頭の奥がじん、と鈍く痛む。

 まぶたを閉じようとした、そのとき。

 コン、コン、と扉が控えめに叩かれた。

「お嬢様、お加減を」

 医師が到着したらしい。

 高齢の医師は、いつも通り落ち着いた手つきでリゼットの脈を取り、瞳の動きを確かめ、額に手を当てた。

 胸に聴診器を当て、最後にそっと腹部に触れる。

 その指先が、ごくわずかに止まった。

 ぴん、と張り詰めた糸が、背筋を走る。

「……ミーファ嬢、レイシャ嬢。申し訳ありませんが、少しの間、お嬢様とふたりにさせていただけますか」

 低く落ち着いた声。だが、どこか含みがある。

 侍女たちは不安げに顔を見合わせたあと、リゼットに一礼し、名残惜しそうに部屋を出ていった。

 扉が閉まる音が、やけに重く響く。

 寝室には、外の鳥のさえずりと、リネンの擦れる微かな音だけが残った。

「……お嬢様」

「はい……?」

 医師はひと呼吸おき、慎重に言葉を選ぶように口を開いた。

「お体に、命が宿っております」

 間。

 そのひとことは、あまりにもさらりと告げられた。

「…………え?」

 空気だけが先に動き、意味が遅れてやってくる。

「ご懐妊です。おめでとうございます」

 祝福の言葉のはずなのに、胸の奥が凍りついた。

 ごかいにん――。

 頭の中で、その言葉が妙に澄んだ音を立てて反響した。

 ご懐妊。

 懐妊。

 妊娠。

 ご懐妊=妊娠=お腹の中に子ども。

 誰の?

 私の。

 数秒遅れて、心臓がどくん、と大きな音を立てた。

 すぐあとを追うように、全身から一気に血の気が引いていく感覚が襲ってくる。

「ちょ、ちょ、ちょっと、待ってください……それって、本当に……?」

 自分の声が、ひどく遠くから聞こえた。

「診察の結果に間違いはございません。おそらく……二か月ほど前に宿られたものかと」

 二か月前。

 二か月前――。

(妊娠?私が?子供がいる?いやいやいやいや、ちょっと待って)

 頭の中で、別の人生が急激な早送りで巻き戻される。

 脳裏に浮かんだのは、この世界では見たことがないビル群。

 夜なのに明るい街並み。

 そこを歩く――前世の私。

 私は社畜OLだった。

 睡眠時間は平均三時間。

 休日は存在しない。

 椅子に座ったまま意識を落とし、そのまま朝を迎えるなんてザラ。

 そんな生活を、当たり前のように続けていた。

 あの日も、いつも通りだった。

 スマホを片手に、未読メールとチャットを確認しながら駅の階段を下り――

 誰かと肩がぶつかった衝撃。

 足元が空を切る感覚。

 視界いっぱいに広がる、灰色の階段。

 そして、真っ暗。

 目を覚ましたときにはもう、この世界だった。

 恋愛ファンタジー小説で読んでいた、あの世界。

 悪役令嬢リゼット・マーレットとして。

 断罪され、追放され、物語の外に捨てられる女。

 でも、そこには『妊娠』の二文字なんて、どこにもなかった。

 一行も。

 一文字も。

(そんな展開、原作に書いてなかったんだけど!?)

 喉の奥がひゅっと鳴る。

 息を吸うたびに、肺がきしむように痛い。

「……身に覚えは、ございますか?」

 医師の声は、淡々としていた。

 しかし、その裏には「ここから先は、とても繊細な話になりますよ」という気配が滲んでいる。

「……身に覚えが、ないわ」

 自分でも驚くほど、はっきりとした声が出た。

 本当に、覚えがないのだ。

 憑依してきた『私』には。

 憑依した日のことを思い出す。

 けれど、思い出せるのは――目を覚ましたあとのことだけだ。

 焼けつくような高熱。

 ぼやけた天井。

 額に触れる冷たい布。

 泣きそうな顔で私を覗き込むミーファ。

 氷嚢を取り替えるレイシャの手。

 その前の出来事は、ぽっかりと抜け落ちている。

 夜会の帰りに倒れられたのです、と後から聞かされた。

 馬車から降りた直後だったとも。

 それが事故だと言われれば、きっとそうなのだろう。

 けれど、私にはその瞬間の記憶がない。

 気づいたときには、すでに『私』になっていた。

 彼女たちは言った。

『事故の影響で、少し記憶が曖昧になっておられます』と。

(……そう。あの高熱で寝込む前、『この身体』は私じゃなかった)

 つまり。

 私が知らないあいだに。

 この身体は、誰かと関係を持っていた。

 ドアの向こうで、かすかな衣擦れの音がする。

 医師が扉を開けたらしい。

「お嬢様……? お話、終わりましたか?」

 ミーファの不安げな声。

「……入って、いいわ」

 そう答えると、ミーファとレイシャが足早に入ってきた。

 すぐに、リゼットの蒼白な顔に目を見開く。

 医師が、短く告げた。

「お嬢様は、ご懐妊されています」

 その瞬間、部屋の空気がぴしりと固まった。

「そ、そんな……!」

 ミーファが、口元を押さえて悲鳴を飲み込む。

 レイシャは、信じられないといった様子で壁に手をついた。

「お、お相手は……どなたなのですか……?」

「まさか……殿下では……っ!?」

「違う!」

 思わず、いつもの令嬢口調を忘れて叫んでいた。

「違う、と思う。違うのよ……私、本当に知らないの」

 ミーファとレイシャが、はっとしたようにリゼットを見る。

「高熱を出してから、少し前のことを覚えていないって、知ってるでしょ?」

 二人は、顔を見合わせてうなずいた。

 そこで、医師が口を挟む。

「逆算いたしますと、お腹の子が宿ったのは二か月ほど前になります。その頃、お嬢様は何をされていましたか」

 二か月前。

 記憶の糸をたぐる。

「たしか……夜会。そう、夜会の帰りだったと思うわ」

「ええ。あの夜です、お嬢様」

 レイシャが静かに続ける。

「夜会からお戻りになった真夜中、馬車から降りられた直後に足を踏み外されて……そのまま倒れられました。すぐに熱が上がって、何日も」

(そう。あれから私はこの身体になった)

 つまり――。

「私は、そのときの記憶が、まったくないの」

 お腹の奥が、きゅう、と小さく痛んだ気がした。

 理由なんて分からない。

 でも、わかってしまう。

 確かに、自分の身体に、何かがいる。

 何も知らないうちに、引き受けていた命。

 リゼットは、ベッドの端に腰を下ろし、震える指先で自分の腹部にそっと触れた。

 まだ、外見は何も変わっていない。

 実感も、喜びも、未来のイメージもない。

 けれど。

 ここに、いる。

「このこと……誰にも、言わないで。お願い」

 ミーファとレイシャが、息を呑んだ。

「……お嬢様、でも……」

「わかってる。わかってるけど……それでも、今は、お願い」

 声が震える。

 言葉を絞り出すたびに、喉の奥が焼けるように痛い。

「何も言えないの。何も、分からないから……。だから今は、時間がほしいの」

 しばらくの沈黙の後、ミーファがぎゅっと唇を噛みしめ、深く頭を下げた。

「……承知しました、お嬢様」

 レイシャも、それに続く。

「誰にも、口外いたしません」

「……ありがとう。ミーファ、レイシャ」

 リゼットは、小さく微笑もうとして、うまくいかずにやめた。

 カーテンの隙間から差し込む朝の光が、ゆらゆらと揺れる。

 それはやさしく温かいのに、どこか遠い。

 たったひとつだけ、確かなことがある。

(私は、この子を守る)

 怖い。

 不安だ。

 最悪だとさえ思う。

 でも。

 それでも。

(そのためなら、何でもする)

 物語が私を悪役にするのなら、好きにすればいい。

 リゼットは目を閉じ、もう一度ゆっくりと開いた。

 ここで終わらない。

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