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第九話、白銀の聖者と空腹のアサシン


 天穿てんせんと呼ばれる山脈の端、永久凍土の境界線がすぐ間近に迫る峻険しゅんけんな崖の上に、その場所はあった。帝国が建設した【西方第零監視拠点】。



 カナンのような華やかさは微塵もなく、剥き出しの鉄骨と石材で組み上げられたその拠点は、吹き荒れる吹雪の中に、一筋の白銀の杭を打ち込んだような無機質な威容を誇っている。

 拠点の周囲は、一年中晴れることのない濃密な「白銀の霧」に包まれていた。

 これは気象現象ではなく、拠点の尖塔から放たれる高濃度の魔導波が、周囲の水分を凝固させ、不確定要素の侵入を拒むための「秩序の防壁」である。



 この霧の中に迷い込んだ者は、数分と持たず方向感覚を失い、自らの体温と意志を吸い取られ、雪の中に膝をつくことになる。





 その拠点の最上階。暖炉の火さえも白く凍てついたように見える執務室に、一人の男がいた。


「……芽吹いたか。それも、よりによって最も不自由な場所で……」



 帝国軍、十字異端審問官・白銀の聖者ルキウス。



 彼は窓外の白銀の世界を見つめていた。透き通るような長い銀髪が、背後の魔導灯に照らされて冷たく輝く。 

 彼が纏うのは、汚れ一つない純白の法衣。その袖口には、帝国の騎士たちさえも恐れる、境界を管理するモデレーターの証たる十字の紋章が刻まれている。

 ルキウスが手にした魔導結晶の盤上には、カナンから放たれた一つの小さな、しかし不気味な光点が映し出されていた。


「アッシュフォード・グローリア。没落した『境界の番犬』の末裔か。

 ……よりにもよって、獣人の子供と【ハンスーンの契り】を交わすとはね。第一段階とはいえ、土龍どりゅうことわりを呼び覚ました事実は看過できない」


 ルキウスにとって、世界は一つの巨大な「均衡の天秤」だった。


 1200年前の大戦争が残した深い傷跡。それを塞ぐために施されたのが「分断」という名の救済である。

人間と獣人が互いを知らず、交わらず、ただそれぞれの領域で「静止」し続けることこそが、彼が守り抜くべき至上の平和であった。


「聖者様。いかがなさいますか。直ちに処刑騎士エクセキューショナーを差し向け、その不浄な種を摘み取りますか?」


 背後の影から、無機質な声が響く。ルキウスは一切の感情を排した瞳で思案し、やがて微笑を浮かべた。


「いや、まだいい。彼にはまだ、役目がある。境界の向こう側、連峰の頂に眠る『風』を揺り起こしてもらう必要があるからね。……リネットに伝えなさい。観測を続けろ、と」


 ルキウスは細く白い指先で、盤上の光点をなぞった。

 彼にとってアッシュは、倒すべき敵である以前に、自らが設計した「完璧な静止の世界」にどれほどのノイズが耐えられるかを測るための、興味深い試験体サンプルに過ぎなかった。



「救わなければならない。……『アッシュフォード・グローリア』。

 君がその「絆」を繋ごうとするたびに、世界は壊れていく。……だから、私が君の『自由』を、白銀の静寂で染めてあげよう」



 拠点の尖塔から、キィィィィィンという耳鳴りのような音が響き、周囲の「白銀の霧」が一段と濃くなった。

 それは救済という名の、逃げ場なき監視。


 アッシュたちが吹雪の連峰へ向かって最初の一歩を踏み出した時、その一歩はすでに、白銀の聖者が敷いた「秩序」のレールの上に敷かれていたのである。






━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━










 一方その頃━━━、アッシュ達一行は、カナンを囲む巨大な壁が続く、荒れ果てた荒野に長い影を落としていた。


 生まれ育った街を追われ、行く当てもなく進むアッシュたちの背後に、その「殺気」は唐突に現れた。



「……誰だっ!」



 アッシュが反射的にククルを背後に庇い、錆びた古剣こけんを抜く。


 岩陰から音もなく飛び出してきたのは、夜の闇を形にしたような漆黒の装束を纏う一人の少女だった。


 腰まである艶やかな黒髪。感情を一切排した、冷徹な機械のような瞳。

 少女――シオンは、空中で鮮やかに身を翻すと、その手に握ったクナイをアッシュの喉元へと突き出した。



「標的、確認。……『アッシュフォード・グローリア』、ここで排除します」


 その動きは、アッシュが警護団で見てきたどんな手練れよりも速く、鋭かった。

 アッシュは必死に剣を構え、迎撃の姿勢をとる。だが、決定的な一撃が放たれるはずのその瞬間、静寂の荒野に、地響きのような「異音」が鳴り響いた。




 ――ギュルルルルルルゥゥ……!!




 それは、少女の喉から出た言葉ではない。彼女の「腹」から放たれた、切実すぎる断末魔だった。




「……え?」




 アッシュが呆気に取られた瞬間、シオンの身体から目に見えて力が抜け、彼女はバランスを崩したまま、無様に地面へと突っ伏した。




「……くっ、エネルギーの……再装填が……。……三日は……もつ、計算……だった……のに……」



 シオンは顔を真っ赤に染め、震える手で腹を押さえたまま、ぴくりとも動かなくなった。


 帝国から放たれたはずのエリート暗殺者は、任務遂行の直前、あまりの空腹に耐えかねて自滅したのである。




「……何よ、この子。魔導波形は超一流の暗殺者アサシンだけど、状態表示が『餓死寸前』よ。……馬鹿なの?」



 リネットが呆れ果てた顔で解析端末を叩く。スレインは剣の柄から手を離し、心底蔑むように鼻で笑った。


「……フン。腹の虫を鳴らして倒れる暗殺者など、聞いたこともないな。

 放っておけ、朝には行き倒れの死体になっているだろうよ」



「……いや、そうもいかないだろ、これ。……死なれたら寝覚めが悪いし」


 アッシュは苦笑しながら、リュックから大切に保管していた「特製干し肉」を一枚取り出し、シオンの口元に差し出した。

 気絶していたはずのシオンだったが、肉の匂いを感じた瞬間、本能的にガブりとかぶりついた。凄まじい勢いで咀嚼し、飲み込む。



「んぐっ、……はぁ、はぁ………、こ……殺しなさい。敵に施しを受けるなど、影の末路として耐え難い屈辱です」


 意識を取り戻したシオンは、再び赤面しながらうずくまった。


「まぁ、そう言うなよ。腹が減ってたんじゃ、仕事もできないだろ?」


 アッシュの屈託のない笑顔に、シオンは困惑した。

 彼女にとって「標的」とは排除すべきただの敵に過ぎなかった。だが、目の前の男は自分を殺そうとした相手に平然と飯を分け与えている。


「……ねえ、そこのアサシンさん」


 すると、リネットが不敵な笑みを浮かべはじめ、彼女に提案した。


「あんた、行く当てないんでしょ?………だったら、このお人好しの『護衛』として雇われてあげなさいよ。三食昼寝付き、たまにお肉もあげるわ。………今の私たちには、夜通し起きてられる便利な番犬が必要なのよ」


「…………」



 シオンはしばらくアッシュの顔をじっと見つめ、やがて、………深く、深く頭を下げた。




「………御意。この命、干し肉の恩と共に、主殿あるじどのの影として捧げます。しかしその………つ…次からは、効率が低下する前に……配給をお願いしたく………」




 ━━━こうして、一行に「最も頼りになり、最もお腹を空かせた『影』が加わったのである。







ここまでお読みいただきありがとうございます。


「続きが気になったら、ブックマークで応援いただけると嬉しいです!」


また、星の評価もぜひ!

1つでも2つでも………なんならマックス(5つ)でもいいのでつけていただくと、作者、すごくよろこびます。

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