幕間・第八話、鉄の空に響く不協和音
岩犀の古王を退け、カナンの町に帰還したアッシュを待っていたのは、勝利の凱旋ではなく、死よりも冷たい沈黙だった。
アッシュの腕の中には、すやすやと眠る獣人の少女・ククル。そして彼の右手には、禍々しい黄金の痣が刻まれていた。
「……見て。あの子達、本当に連れて帰ってきたわ」
「あの痣……、ありゃ獣人の呪いよ。グローリアの家は、ついに魔道に落ちたんだ」
カナンの市場を歩けば、昨日まで「落ちこぼれの坊ちゃん」と親しげに呼んでいた人々が、一様に蜘蛛の子を散らすように道を開ける。
彼らの瞳にあるのは、尊敬でも恐怖でもない。汚物を見るような、純粋な「拒絶」だった。
アッシュは、かつて先祖が守り抜いたはずの街の石畳を踏みしめる。
北方の獣人大陸には「弱肉強食」を是とする国がある。奪い合い、殺し合うという点ではあまりに理不尽だが、そこには生存への渇望と言う明確な理由があった。
しかし、このカナンを支配しているのは、無知と恐怖から生じる、形のない陰湿な「排他性」だ。
「お兄ちゃん……。みんな、怒ってるの?」
目を覚ましたククルが、アッシュの服の裾をぎゅっと握りしめる。彼女の獣の耳が不安げに伏せられるのを見て、アッシュは胸が締め付けられるような痛みを感じた。
街の自警団の詰め所に行けば、かつての同僚たちが、アッシュの差し出した報告書を受け取ることさえ拒んだ。
「………アッシュ、そのガキを今すぐ野に放て。さもなければ、お前も『不浄』として街を追放することになるぞ」
隊長の冷徹な言葉に、アッシュは言葉を失った。正義を貫き、小さな命を救ったはずだった。
だが、彼が守ろうとしたものは「カナンの常識」において、最大の「罪」として扱われていたのである。
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アッシュがククルを連れて帰ったグローリア家の屋敷跡。かつては名門の威厳を保っていたその場所も、今やカナンの住民たちによって落書きされ、石が投げ込まれていた。
「お兄ちゃん、これ……」
窓ガラスが割られ、壁には『獣人の犬』『死神』といった殴り書きが並ぶ。
ククルはその文字の意味を理解してはいなかったが、そこに込められた剥き出しの悪意に、再び震え始めた。
━━その日の夜、アッシュを訪ねてきたのはリネットだった。
彼女はいつもの皮肉を忘れ、沈痛な面持ちでデータを提示した。
「……アッシュ。街の議会が動き出したわ。あなたの『ハンスーンの契り』を公的に『汚染』と認定して、隔離をする準備をしてる。
………ねえ、今からでも遅くないわ。その子を森へ戻して。そうすれば、私が解析データを改竄して、あなたは『呪いを解いた英雄』になれる」
リネットの言葉は、彼女なりの優しさだった。しかし、それは同時に、人間が持つ「建前」という名の冷酷な計算でもあった。
獣人たちは暴力で解決しようとするが、人間は「書類」や「合意」という名の檻で、『異端』を抹殺しようとする。
「リネット……俺は、この子の涙を見たんだ。 人間も獣人も、泣くときは同じなんだよ。……それを無かったことにはできない」
「……バカね。データ上、あなたの生存確率は、今のままだと限りなくゼロに等しいわ。
街のみんなが守りたいのは平和じゃない。『自分たちと違うものがいない世界』なのよ」
リネットは去った。
暗闇の中、アッシュは一人、古剣の錆びた刃を見つめる。
故郷のために剣を振るってきた。だが、その故郷は、自分を「人間」として認めるための条件として、ククルの抹殺を求めている。
人間の秩序が持つ、この歪んだ「正しさ」こそが、アッシュの心を何よりも深く蝕んでいた。
三日目の朝、カナンの衛兵隊が屋敷を包囲した。
「アッシュフォード・グローリア! !公衆衛生の維持!および魔導汚染防止法に基づき、その獣人の身柄を拘束する!! 抵抗すれば、お前もろとも駆除する!」
拡声魔法による非情な宣告。アッシュはすぐにククルを背負い、錆びた古剣を腰に差し、裏口から霧の立ち込める路地へと飛び出した。
逃走のさなか、視界の端に一人の老婦人が映る。
昔、かつて燃え盛る火の中から、命懸けで救い出した女性だった。
彼女はアッシュと目が合った瞬間、「鬼が来た!」と悲鳴を上げ、隣にいた子供の目を覆い隠した。
(……ああ、そうか。俺が守りたかったのは、これだったのか)
むき出しの拒絶が、刃のように胸を刺す。守ってきたはずの世界が、足元から崩れ去っていく。
だがその時、背中から小さな、震える歌声が聞こえてきた。
━━━それは獣人の里に伝わる、夜明けを待つ者への子守唄。
「ククル?……」
「怖くないよ。……お兄ちゃんが、ククルの名前、呼んでくれたから」
首に回された小さな手の温もりが、凍てついたアッシュの心を溶かしていく。
世界の常識、街の掟、種族の確執。そんな呪いのような言葉も、この小さな子の前では何の価値もない。
アッシュは立ち止まり、背後のカナンの街を一度だけ振り返った。
そこには、1200年間変わらぬ「鉄の空」の下で、互いを疑い、異物を排除して生きる人々の小さな世界があった。
「━━━決めたよ、ククル。俺が守るのは、世界の常識なんかじゃない」
アッシュの右手の紋章が、呼応するように黄金の輝きを放った。
彼は、街の出口を封鎖する衛兵たちの前に姿を現した。しかし、その構えは「敵」を斬るためのものではなかった。
「退いてくれ。……俺は、この子を連れて壁の向こうへ行く。…………もし俺たちが『間違い』だと言うなら、この世界の『常識』そのものを、俺が塗り替えてみせる」
土龍の重圧が地面を震わせ、衛兵たちが腰を抜かす中、アッシュは迷いのない足取りで境界の門へと歩み出した。
故郷を失い、人間という枠組みさえも踏み越えた、最初の一歩。
『アッシュフォード・グローリア』の物語は、英雄譚としてではなく、世界を敵に回してでも一人の少女の笑顔を守り抜く、あまりに泥臭く、不揃いな「反逆」から始まったのである。
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