ep 悪魔と願い
30階層。
無数の魔物の屍が折り重なり、巨大な絨毯のように地面を覆い尽くしている。その数は数百を下らないだろう。一体一体は、鋭い爪や牙、異質な体躯を持つ悍ましい存在だったはずが、今やただの肉塊と化し、異様な静寂の一部と化していた。
その悪趣味な絨毯の上に、銀色のサイバーアーマーを纏った男が立っている。 彼の右手に握られた日本刀を濡らす鮮血が、この惨劇を生んだ者が誰なのかを示していた。
「呆気ないものだな」
かつて、十五階層より先へ進むことすら困難だった。それがレガリアとの本契約を果たすと、容易く三十階層への到達してしまった。あのもがき苦しんでいた自分は何だったのだと、一種の虚しさを感じてさえいる。
「行くか」
もう、ここでするべきことは無い。地上へと戻る瀬紀の後姿から、そのような意思を感じられた。
※
陽光が降り注ぐ真昼の公園。
整備された遊歩道には人影もまばらで、静けさが広がっている。
この場所のさらに人の少ない木々に囲まれた場所で、瀬紀は着なれた服に身を包んでベンチに腰掛けていた。
遠目には、ごく普通の青年にしか見えない。レガリアとの本契約を終えてから、彼の狂気はなりを潜め、元々の穏やかな気質が前面にでるようになっていた。
後ろから、一定のリズムで靴音が近づいてくる。
背中合わせのベンチに、その人物が座るまでを、瀬紀は顔を向けることなく察知していた。
「……レガリアとの本契約、おめでとうございます」
背中から聞こえたのは、落ち着いた女性の声だった。
目を合わせないのは、互いの関係を隠すため。これが彼らのやり方だ。
「ようやく悪魔が、僅かばかりの慈悲を見せてくれたらしい」
「……それは、良かったのでしょうか?」
言葉に迷いを含ませながら、彼女は続けた。
「詐欺師は、善人面をして獲物に近付いてくるらしいからな。悪魔が善人面して近付いてきたのなら、裏を疑うべきだろうさ。だが……それでも、必要だった」
劇薬の投与や強化手術など、これまで何度も経験してきた。全ては特性を持たないというハンデを補うためにだ。あれらに比べれば、悪魔が見せた慈悲の代償など善良極まるものだ。地獄を味わっても手に入らなかった、特性に代わる力を与えてくれたのだから。
「兄さん……」
「お前の兄は、化け物になった時点で死んだんだよ。今ここにいるのは、ただの協力者──瀬紀でしかない」
瀬紀の言葉に女は唇を噛む。だがこの他人であろうとするのが、彼女を守るためである事を知っているが故に、彼の言葉を否定する事は出来なかった。
「……わかりました。それでは、今回の報告です。霧雨 輪矢が研究をしていたマザーレガリアの行方については、いまだに不明です。ただ、最近になって保志崎重工と契約している“デモンズ・ハート”たちにレガリアの所有者が急速に増えています……関連性を疑うべきかと」
聞き覚えのある社名に、瀬紀は記憶をしばらく掘り返してみた。
「保志崎重工……確か、研究に機材を提供してた企業の一つだったな」
「ええ。当時、霧雨 輪矢の研究室にあった機材のほとんどが、あの会社製でした。詳細は、いつも通りに──」
「そうしてくれ」
話を終えると女は立ち上がり、足音を残して去っていく。
その音が完全に遠のいたのを確認して数分後、瀬紀もまたこの場を後にした。
※
ここは、近代的なビル群が空を覆い隠すようにそびえ立つ近代的な街。家族やカップルの姿も多く見られるが、無数のデモンズ・ハートたちを生贄にした歪な発展をした場所でもある。
公園を出た瀬紀は、人混みの中を目的もなく歩いていた。自分の思考をまとめるために──。
『保志崎重工か……。探りを入れるにも、まずは接点が必要だな』
彼は道の端に設置されたベンチに腰を下ろすと、スマートフォンを取り出す。その画面に表示させたのは、デモンズ・ハート専門の仕事を集めた政府公認の斡旋サイトだった。
しばらく画面を確認し続け、数多くの企業からの依頼が掲載されているリストの中に、保志崎重工の文字を見つける。
『いや、中核に関わる仕事でなければ、大した情報は手に入らないだろうな』
特性を持たない事は、レガリアとの本契約で補う事が出来た。しかし、Noナンバーであるが故に、これまで実績を積んでこられなかったという事実が、今になって足を引っ張っている。
『なら、実績を積み重ねるのが最優先になるが……』
希少素材を持ち帰り、依頼をこなし、評価を上げていく──中々の遠回りだ。しかし、それ以外に選択肢がなさそうだという事実に、思わず苦笑いを漏らしてしまう。
「……結局、前と変わらない生活が、もうしばらく続くわけか」
命懸けでレガリアとの本契約を済ませたのに、これまでと変わら無い生活が続く。
そのことに軽く苦笑いを浮かべると、瀬紀はベンチから腰を上げて再び歩き始めた。
無実の罪で自由を奪われた父の救出。その過程が陰惨な復讐になるという予感はある。
だが、それでも道が途絶えていたこれまでとは違う。
例え血と闇に塗れた道であろうとも、そこに進める道が存在していることに代わりは無いのだから。
ここまで、お読み頂きありがとうございました。
これにて区切りとなります。